R3.3.28 本正寺
善通寺市木徳町「本正寺」さまにて、春季永代経の御法話を務めさせて頂いた。
新型コロナウイルス感染症の予防対策として時間を短縮してのお取り次ぎとなったが、多くのお参りさまにお越し頂き、とても暖かい空気に包まれた春らしい御法座となった。
こちらでは、真宗の根本でもある「聞」ということについてお話をさせて頂いた。
大乗という教え
真宗のお寺は、僧侶がお勤めをする内陣よりも参拝者がお参りする場所の方を広く取られている。
また、庭も禅寺のように凝った作りではなく、一様にだだっ広いのが特徴だ。
それは、真宗の「大乗」という教えに基づいたものである。
「大乗」とは、「大きな乗り物でみんな一緒にお浄土へ行く為の教え」という意味を持つ。
真宗以前の仏教は「自分が修行をして、自分を悟りへ至らせる」という考え方が主流だった。
それらとは、根本的に異なる真宗の教え。
何故このような教えが作られ、そこにはどのような想いが込められているのか。
衆生
真宗には「衆生」という言葉がある。
「生きとし生けるもの全て」を指す。
そして、それらは全て「個」ではなく「衆で生きる」存在だという教えも含んでいる。
人は、その人生において「主人公」には成れても「一人芝居」は出来ない。
つまり、私が生きている限りその全てに他者が関わって来るのである。
ならば、その存在もちゃんと意識して生きましょう。
そうして、この物語に登場する皆が、様々な山場を乗り越えて、最後はハッピーな大団円を迎えられるように。
煩悩
人はそれぞれ別の道理を持って生まれてくる。
同じモノを見ても別のことを想い、それによって争いや苦しみが生じる。
この心を、仏教では「煩悩」と呼ぶ。
過去の仏教では、これを修行によって排することで人々に安らぎ、悟りを齎せようとした。
しかし、親鸞の起こした真宗は「煩悩を抱えたまま」で生きる道を説いた。
何故ならば、煩悩こそが人間らしさで、これを排することは出来ないし、もし出来たとしたら私は私でなくなってしまう。
だから、煩悩を抱えたままで、別々の道理を持つ者が共に生きられる道を紡ぎましょう。
話
人の心は目に映らない、各々が持つ道理もまた然り。
その存在を他者へ伝えるにはどうすれば良いのか。
人間は「言葉」を持つ。
口で喋る以外にも、字として書いたり、ジェスチャーといった身体言語も用いて、詳細な意思疎通を図ることが出来る。
そう、「話」である。
しかし、それは発するだけでは成り立たず、言葉を受け取り「聞く」相手が居て、初めて叶う。
だから、親鸞聖人は「聞く」ことこそが他者との共存の肝であるとした。
聞即信
聞くこと、即ち信心である。
信心とは、仏が「衆生を必ず救う」と信じる心である。
ここで言う「救い」は「安らぎ・安心」のこと。
私たちは、他者と共に生きる存在。
しかし、他者はみな己とは別の道理を持っていて、いつ何をするかわからない存在。
正直、共に生きるには不安である。
でも、「聞く」ことが出来たなら。
「なんでそれをしたの?」
「なんでそう思うの?」
そうして、心を通わせる。
それによって、同じには成れずとも、隣には立てるようになるでしょう。
そうやって、異なるままに、別々の力を持った人が共に生きてゆく。
協力
人間の持つ一番の力は、知力でも腕力でもなく、協力である。
非力な私たちは、自己とは異なる力を持つ他者と手を組むことでこの世を生き抜いてきた。
しかし、文明の発展により私たちは「自分でなんでも出来る」という勘違いをするようになった。
でも、どれだけ社会が便利になっても、人間生まれた時と死ぬ時は寝たきりだから。
人間が人間である以上、誰の力も借りずに生きられる世界は来ない。
だから、意識して学びましょう。
他者と共に生きる道を、その教えを。
今よりもずっと便利になって、「協力」を忘れかけるであろう後世まで、この心を繋ぎましょう。
令和
英訳を「beautiful harmony」
意識して他者の存在に耳を傾ける、その心を学ぶ。
それこそが「美しい調和」と題された、この時代の生き方なのかも知れません。
南無阿弥陀仏
ありがとう、だいすき。