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R3.3.21/22 郡家興正寺別院


令和元年より承仕を務めさせて頂いている郡家興正寺別院では毎年、春分の日より三日間、春季彼岸会が勤修される。

昨年は新型コロナウイルス感染症の影響により、内勤め(役員のみの法要)だった。

しかし、今年は緊急事態宣言が解除されたこともあり、万全の予防対策を敷いた上でお参りさまを招いての法要を行った。

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その結果、想像以上のお参りさまに御参拝いただき、一時は本堂へ入り切らないほどの満堂御礼となった。


今までは、春になれば行われることが当たり前だと思ってた。

「お彼岸だから、とりあえず」

「また来年もあるし」

そんな気持ちがどこかにあって、その意義を見失っていたような気もする。


でも、いざ法要が行えなくなって。

「次がある保証は無い」

そんな、本当の「当然」を目の当たりにした。


そして、今年法要を勤め、湧いた感情。

『有難い』


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人が集い、想いを寄せ合うこと。

何百年も前に生み出されたこの光景が、いま私の眼に映っていること。

これは、当たり前じゃないのだと。


きっと、過去にも疫病や争いで法要が行えないような時はあって。

それでも、いま私の前に在るということは、遺そうとした誰かが居たということ。

今の自分が立っているこの場所は、数え切れない誰かの上にあるんだなぁ。

そんなことを感じて、ただ、嬉しかった。


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まだまだ社会は不安定だし、具体的に何かが解決したというわけではない。

だけど、そんな世の中にも幸福や喜びは確かにあって。


禍福は糾える縄の如し


法要が行えず悲しんだからこそ、当たり前に行えることを喜べた。

苦しい環境、だからこその幸福。


それはきっと、お寺の話だけじゃない。

何気ない日常にこそ幸福というものはあって。

でも、そこに気付けるか否かは自分次第。


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人生、いつ何が起こるか分からない。

「もうどうしようもない」と諦めてしまいたくなる時もあって、苦しさに苛まれ、生きていけないような日が来るかもしれない。


でも、だからこそ、傍らにある喜びに気付く眼を遺したい。

いつの時代でも、どんな状況でも、生き抜けるように。

惰性じゃなくて、自分で考えて、「生きよう」と思って生きられるように。


そんな、心の安らかさを伝えるために宗教というものはあるのかもしれないな。

社会が移り、扱う道具や生活環境が変わっても、人の心はきっと変わらないから。


「生きることは大変だけど、良いもんだよ」

そうやって、人間が色んな苦難を乗り越えてきたことの証として、先人の遺した教えを私も受け継いでいきたい。


なんて、まんまと想わされちゃったよ。


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良きお彼岸でした。

南無阿弥陀仏

ありがとう、だいすき。