妙好人という在り方について
庄松同行の情報収集に当たり、とても不思議なことが分かった。
同行は、その存在や逸話を各地に残しているにも関わらず、公的文書には一切現れない人物だった。
「いつ」「どこで」「なにを」したのか、学術的観点からは全く読み取れない。
正に「口伝」のみで受け継がれた存在で、昨年聞いた西村先生の講演会を思い出した。
「歴史に残らない歴史」
人そのものではなく、揺らされた誰かの心のみが遺っているような。
姿は見えないのに足跡が残る透明人間というか、そんな在り方がまた「妙好人らしい」とも思った。
「何をしたどういう人なのか」
「何故この人がそこまで大切だと言われているのか」
同行を語る際に、必ずと言って良いほど浮かぶ疑問。
現代の「肩書」「実績」などによって量られる価値観とは一線を隠す在り方に、戸惑いを隠せない。
しかし、あえてその価値を言語化・可視化させるなら「揺らされた誰かの心」を用いるほかないのだろう。
何故ならば、同行の価値は「心相」にあるから。
人の心は他者を介し、初めて現れるものだと思う。
庄松同行というと、その奇天烈な言行や逸話に目を惹かれがちだが、真にその存在を伝えんとするならば、それを受けた他者を抜きにしては成らんのかも知れないなぁ。
「この人は素晴らしい」と感じた誰かの存在、その心に映った同行の姿こそを伝えるべきなのだろう。
妙好人は、誰かが個人の力で到達するものではなく、周囲の人々によっていつの間にか自然と「成る」ものなのかも知れない。
そうして、周囲の人間へ誰かを妙好人とするような「他者を想う心」を生み落としていったことが素晴らしいところで。
触れれば心に華が咲くというか、なんというか。
社会的にて量れない物事を価値として慈しむ心へ転じさせることは、誰に取っても幸福だ。
そして、そんな在り方は現代にこそ必要なのかも知れないな。
年表ではなく心に残る生き方、社会人ではなく人間としての在り方を問う。
その一例として、妙好人は在るのだろう。
だから「この人凄いね」ではなく「こうなれたら良いな」という見方で、自分なりの心の在り方に気付くきっかけを作ってゆけたら。
その為に、先人の姿を借りてゆけたらと想う。