厭世僧侶は愛しい貴方に恋をする
「恋」と「愛」の違いは「下心」と「真心」
って、聞いたことがある。
初めて耳にした時は「下心=スケベ心」と思っていたので、あまりしっくりこなかった。
だけど、いまふと「下心=疑念」「真心=信頼」を思い付いて、腑に落ちた。
私は人を信頼しない。
よく「感情を見せない」と言われる。
わかる。自分でもそう思う。
警戒はしてない。でも、心を開かない。
素の自分が受け入れられると思ってないから。
「ありのまま」は「そのまま」じゃない。
他者と生きるには努力が必要で、特に感情には呑まれちゃいけない。
泣かず、怒らず、笑ってさえいれば大丈夫。
空気を読んで、求められる答えを返す。求められる人で在る。
そうじゃないとダメだって、思ってる。
哀しくて泣いた、許せなくて怒った。そして誰も居なくなった。
そんなもんさ、人間なんて。
だから、私は人を信頼しない。
それでも、それなりに楽しいんだ。
「嫌われないように」を考えている間は確かに苦しかった、しちゃいけないことばかり探していたから。
けれど「喜ばせる」を考えるようになると、自分を使うのがめちゃんこ楽しくなった。
「あの人とのゴハンには何を着よう」
「あの人は私の個性的なところが好き、じゃあ少し変わった服を」
やっていることは相も変わらず他者に合わせているだけで何も変わってはいないのだけれど、それでも「喜ばせる」を考えるのは楽しかった。
お店やお土産選び、めちゃ楽しい。
そうして喜ばせることに成功すると、心の底から嬉しかった。
努力をすることは、楽しい。
先日参加したメイクアップ講座で「女はこんなに苦労して大変よ、男は化粧しないから楽でいいよね」という声を聞いた。
手数で言えばそうかも知れない。
けれど、だからこその楽しみは多いと思う。
だって、ゲームでもなんでも難易度が上がるほうが楽しいでしょ?
ずーっとレベル1なんてつまらないじゃない。
『恋』の楽しみは、きっとそういうこと。
「素の自分は受け入れられない」
相手の度量に疑念を抱く、それ故に在る『改善の楽しみ』。
だから、言うんだろうね。
「恋をすると綺麗になる」って。
じゃあ、「愛」はなんなんだろうね。
「何かしてあげたいと想う気持ち」という説があるけれど、それはどっちかというと「恋」の方なんじゃないかなぁ。
愛は「何もしない安心」だと私は思う。
頑張らなくて良い
合わせなくて良い
応えられなくて良い
存在そのものに対する肯定
頑張ることは楽しいけれど、ずっと頑張ってはいられない。
旅行が楽しいのは家があるからなんです。
誰かの為に変われるのは、変わらない自分が在るからなんです。
だけど、それは自分だけじゃあ見付からない。
「私」を見てくれる誰かがいないと分からない。
私の向こうにある自分の都合じゃなくて、私自身を見てくれる「誰か」。
「存在が愛おしい」
その心を信じて委ねられる、信頼されることで信頼出来る。
これが愛なんじゃないかなぁ。
人は愛したことも愛されたこともないから、正直よく分かんないんだけど。
でも、そうね。
そう考えると「恋」も「愛」も、どっちも大切ね。
「恋」だけじゃ頑張れないし、「愛」だけじゃ頑張らない。
だから『恋愛』はセットなんだろうね。
すてきだね。
いっぱい恋して、いっぱい愛せる人になろう。
今はねこさんが一身に受けているこの愛情も、いつか人へ向く時が来るのでしょう。
たぶん。おそらく。
まぁ、いずれ。