過去のこの日
Facebookを開くと目に入るアーカイブ機能。
1年前、3年前、8年前、等々。
自分で振り返らずとも、勝手に振り返らせてくれる素敵テクノロジー。
友人の起業祝いへ行ったこと、ホットケーキが上手く焼けたこと、落ち込んでいたこと。
届くはずのないその日の声が、自動的に今日の私へお届けされる。
とっても便利で楽しい機能。
だけど、それがある日、ふと、恐ろしくなった。
離れた場所に居る誰かとTV電話が出来るよりもずっと恐ろしい。
だって、だって、形も無く、所詮概念でしかなかったはずのものがカタチをなし追い掛けてくるだなんて。
やってることは、だいたいオバケ。
江戸時代どころか10年前の私でもきっと信用しない、「今の君の言葉が10年後の君へ勝手に届く時代が来るよ」って。
書いたらそこで終わりだと思ってたもん。
残ることは知っていたけど、自分で振り返らない限りは見えないと思っていた。
それが、ねぇ。
勝手に聞こえて来る。
あの日の感動が、悲鳴が、黒歴史が。
大切にしたいことから消し去りたいことまで、全部。
なんということでしょう。
そんなこんなで恐れ慄き、取り敢えず黒歴史の抹消から始めようとしたその時に、私はふと思った。
『阿弥陀さまの呼び声って、これじゃね?』
己の内にあって、己で無いもの。
それは、確かに自分が発した言葉だった。
けれど、自分ではもう思い出せない。
奥の方へ仕舞い込んで、持っていることすら忘れてしまっていた己のこころ。
それを己の意思ではない方法で気付かせるチカラ、これを不可思議と言わず何と言う。
『聴』と『聞』の違い
以前、誰かとこんな話をした。
私は「聴く」と「聞こえる」の違いだと返した。
『聴』は主観的なモノの見方で、『聞』は受動的な見方だと。
私達の持つ現実が『聴』で仏教の目指す理想が『聞』だと。
己の都合で耳に入れたいものを分別したり歪曲してしまうのが私たち。
全てをありのままに聞き入れるのが仏さま。
私たちは、仏さまの様にはなれない。
己のキャパシティ的に全てをありのままに受け止めることは不可能、そんなことをしたら気が狂っちゃう。
だから、自分を守る為に選んで聴いてる。
だけど、それは「聞こえていない」わけじゃなくて「聞こえた」モノの中から「聴く」対象を選んでいるだけ。
必ずしも全てを受け入れる必要はないけれど、自分が聴かなかった声があるということに気付くのは重要だと思う。
だから『阿弥陀さまの呼び声』は救いの手立てと言われるんじゃないかな。
そうすることで、全ては無理でも少しずつ聴ける声を増やしていこうってことだと思うんだ。
結論、Facebookは阿弥陀だった…?
なんて、ね。
だったら面白いよね。