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本質を見抜く力
こんにちは!
今週は少し、自分の思いを綴ろうと思います。
みなさん、「エビデンス」という言葉を聞いたことはありますか?
evidence…(立証するための)証拠(物件)、物証、証言、証拠、(…の)形跡、跡、形跡 (weblio英和辞典より)
いわゆる、証拠見せて!といった感じです
大切なことですし、私もエビデンスを利用します。
でも、そこに囚われすぎてしまうと、本質を見失ってしまうのではないかと感じるときもあります。
健康や医療に関することなどは特に、エビデンスが求められ、(現在の社会システム上)確かではないことを言いません。
個人的には自分が信じられる、可能性を感じられるものは、なんでもやってみたらいいのでは?と考えているので、つくづく向いていません。
目的が「あなたの健康」なのであれば、手段はたくさんあっても良いはずです。相性もありますしね。
だいたい、私たちが認識できるものって自然の中のほんの一部分じゃないですか。私は過去に、自分の頭で全部理解できる、科学で証明できるとどこか思っていたのですが、それって傲りだなと最近になって実感します。
ノーベル賞を受賞する科学者でさえ、非科学的な体験について綴っていたり、極端に細部を解明しようとすることへの無謀さを提示しています(私は彼の言動や考え方、ひらめきがとっても好き。)
現在の社会システム上、とあえて指摘したのは、すべて発信される情報は何らかの意図を持っているからです。
良いか、悪いかは、立場や考え方によって違うでしょう。
エビデンスは、条件や表現によってある程度作り出せます。
極端な例ですが、国が全く実行していない内容の研究結果をグラフや合成したデータも用いて発表しても、信じる人は多いでしょう。
つまり、情報の信頼度として、その内容や本質よりも、誰が責任を持っているかで判断されている部分が大きいです。
それも一つの判断基準ですよね。
しかし、一度立ち止まって、自分の頭で考えてみてください。
自分の感覚や身体の応答をもっと信じて、本質に目を向けてください。
薬害の事例に向き合ってきた先生が、「そんなリスクは知らなかった」と、納得できない人が多い。でも身体は元に戻らないし、一生付き合っていかなければならない。というお話をしていました。
例え結果的に失敗したとしても、思考を重ねリスクも考慮したうえで実行したことであれば、納得して乗り越えられるはずですし、失敗したことを次に活かせます。無駄なことなんてないですよね。
でも自分の判断を外界に委ねると、誰かのせいにして終わりです。
過去の私もよく他人のせいにして、巡り合える選択肢が減っていたと思います。
他に自己のアイデンティティを投影しないで。
自分で自分に責任を持って、今日も健やかに幸せでいてください。
わたしも、芯を磨いていこうと思います。
それでは。