無かった事にならない
私の思い出は風景や表情や気候より強く「言葉」がある。
その時、どんな言葉でどんな話をしていたか。
強烈に残っていく。
相手の顔は忘れてしまったのに、つぶやいた一言をずっと忘れないでいる。
いい言葉も。悪い言葉も。
目には見えないから、言った本人も忘れてるけど
私の中にはその人が紡ぎ出した言葉として残り続けてる。
なにげない会話の中に、それをチョイスした心境をおもんばかり、どんな経緯がこの言葉を選ばせたのかな?と想像を掻き立てる。
だから、わざわざ傷つける言葉を選ぶ人はとても苦手だ。
その言葉を選んでしまった自分の心境を省みる人なら「不器用な人なんだな」といとおしくも思えるけど
自分ではなく相手に非があると信じ込み、攻撃を止めない人は、多分一生変わらないので、苦手な人としてインプットされていく。
カズレーザーさんが「言葉遣いは無料でできるオシャレ」と言われたと言う。
本当にその通りだと思う。
オシャレだけに限らず、思いやりや、優しさや、前向きな気持ちすら、選んだ言葉がタネになって人の心に届いて芽吹いて花を咲かすことだってある。
自分が選んで紡いだ言葉がその人そのものを表して、
それによって、人と心が結びついたり離れたりする。
もっと言えば、自分の気分次第で人を傷つける言葉を言って
それによって、ご縁が切れた場合。
その人の中で、自分という想い出はそんな言葉を言う人だった、で終わってしまう。
後悔しても無かった事にはならない。
私は優しいから人を傷つけたくない訳じゃなく、自分が忘れられないから、
自分が後で死ぬほど後悔しても絶対消えないから、
伝える言葉を感情でえぐるような事をしたくないだけ。
言葉は見えないナイフにもなる。
言葉は人を癒す薬にもなる。
どちらを発信してタネを蒔くかで、自分の人生は大きく変わると思っている。
それを私に教えたのは亡くなった母。
私が6歳の時に32歳という若さで他界した。
ある日バスに乗っていて、私は下車を知らせるボタンを押すのを張り切って待っていた。
「もういい?」「押していい??」とずっとワクワク待ち構えていた。
「次降りるから押していいよ」と母が私に告げた瞬間、誰かがボタンを押した。
幼かった私は猛烈にがっかりし「あー!誰か押した!!!」と抗議した。
母はたった一言優しい声で「押してくれたのよ」
その一言。
幼い感性にインパクトは強く残った。
「押した」ではなく「押してくれた」のチョイス。
それはタネになって私の中に残っている。