義父と私  パート1

本当に突然に呆気なく、義父が他界した。
急に体調を崩し救急車で運ばれ、簡易的な緊急手術の後、廊下に聞こえる義父の声はすっかり力を取り戻し、相変わらずのわがままっぷりで、
もう安心だと胸を撫でおろして帰宅した翌朝、逝ってしまった。

義父は私にとって、人生で出会った最強のヒールだった。
私の顔を見れば、小言、説教、イチャモンしか言わない。
最初の頃は、泣くまで追いつめられる事もしばしばあった。

そもそも最初のスタートが、義母と私が同じ名前だという事が気に入らず、結婚に大反対から始まった。
結局、読み方を音読み訓読み変える事で納得するなら許そう、と言われた。
私の父は「犬の子じゃあるまいし!ワシはお前に執着しちゃおらんから、好きにせえ!」と怒りつつ、許可した。
母は「あんたがいいならそれでいいよ。でもそんな事いう家で大丈夫なのか、心配でならない」と云った。

当時27歳の私には、その言葉の言ってる意味は、頭ではわかっていたけど、心の底から理解はできてなかった。
つまりは、覚悟が足りなかった。

2回立て続けに流産をした時、義父が私にかけた言葉は
「人は子供を産んで初めて一人前になれるというのに、何をしとるんか」
こんな鬼のような言葉を、傷ついてる人にこのタイミングで言えるという事に、私は憤りを感じたし、執念深くいまだに忘れられていない。

思えば、私が一番つらい時、苦しい時。
世間より何より、義父が一番の敵だった。
言われても私にもどうしようもない理不尽な事を、するどいナイフで突きつける。

やっと生まれた待望の子供は、その様子を目の当たりに育った。
長男が3歳の頃だったろうか、義父が私に対して、延々と説教をしている時、義母も夫も黙ってみてみぬふりをしていたが、
長男が、「ママをいじめるな!」と義父の前に立ちふさがった。
「わしがいじめてるように見えるんか!」義父はかわいい孫からそういわれ、ヒートアップしたが、長男の目は本気で怒っていた。
少しでも言い返せば、余計にひどくなる義父の攻撃になすすべをなくしていた私には、長男のこの行動はものすごい救いだった。
アウェーに一人な気持ちから、唯一の味方ができた思いだった。

その後も子供たちが成長するにつれ、巻き起こる出来事に
常に壁になる義父。
私は、「ここまで嫌われてるならもういいや」と、義父に本音で話す事はあきらめ、常に、能面でもつけるように、義父の前では私個人の感情はほとんど隠した。
怒りもしなければ、笑いもしない。
表面だけ、温和に過ごせればいい。ロボットのように日々暮らした。
私が何を考え、何を感じ、何で笑い、何を喜ぶのか、義父には興味もないのだろうし、知ったら全否定しかしないのだから。

その溝は、長男に大きな影響を与えた。
私と同じくらい全否定される長男は、ある時から、義父に対して全力の反抗をしはじめた。
ある年、入院した義父(主人は死ぬかもしれないと覚悟した)に、一度も見舞いにいかない長男。
義父は、寄り付かない長男を最初は怒り、嘆いた。
遠くに住む義兄たちは、私たちの経緯を深くは知らない。
子供一人をコントロールできない私たち夫婦に、呆れたかもしれない。

でも、その事で、義父はショックを受けた。
アウトローで、団体行動が苦手で、義父のモラルから外れまくってる長男が心配だからこそ、小言を言い続けてきたけど、それは愛情表現のつもりだったから、まさかそこまで嫌われるとは思っていなかったのだ。

「わしが悪かったんじゃろう」と何度も何度も何度も何度も、夫に話したらしい。
それでも長男の溜飲は下がらなかった。
お盆とお正月は渋々会いに行ってくれるけど、夫の顔を立てる為であって、
会いたくて会いに行くわけじゃない。そういう姿勢だった。

そんなある日、ディズニー映画「リメンバーミー」を見た長男が
興奮気味に私に「絶対見てごらん、すごく感動した」と熱く語った。
うんうん、そのうち見るね、と言いつつ、見る機会はなかなかなかった。

(リメンバーミーは、親戚の中で自分だけ異質に思う男の子が、黄泉の国にいる先祖たちと向き合う事で、自分がどれだけ愛されてるかをしりつつ、
異質な部分を受け入れてもらうというようなお話)

その頃から長男は義父に会いに行くようになった。
義父も、昔なら顔を見れば説教するのが自分の役目という姿勢だったのが、
素直に子供のように喜び、ほかの人とは違う形で、長男と心を通わせ始めた。

本当は、小心者だから、攻撃的な言葉を使う事でマウントを取りたがる義父。
不器用すぎて、心にも無い事を言ってしまい、言葉で失敗する義父。
他人にもそんなだから、だんだん人が寄り付かなくなって、寂しくて仕方のない義父。

晩年の義父は、孤独な日々が多かった。
なので、庭先にいる義父に私が話しかけてみるが、ファイティングポーズで、けんか腰にくるので、そこまで嫌ってるなら、あまり行くのはやめよう。
と、私は距離を詰めることはなくなった。

どんどん体力がなくなり、どんどん病気が増え、そして、痴呆が始まりだした義父は、あんなに短気で怒りっぽくて重箱の隅をつつく神経質な人だったのに、「ありがとうありがとう」しか言わなくなり、何をしてあげても喜び、すっかり丸くなった。
なのに、私の心は、なかなか「なかったこと」に出来なかった。
表面的に、能面みたいに、違う私を演じてるような向き合い方は変えられなかった。

そんな矢先、友人が私に教えてくれた言葉。
「親を看るのは、最後の子育てと思ったらいいんだって」

子育ては0からのスタート。
マイナスな感情から始まった、義父との関係だけど、
リセットして0にして、これから見送るまでにプラスに出来たら…

そう思ったのが先週の事。
だから、義父の調子が悪くなったから救急車呼ぶ、と聞かされた時、
職場に戻るのが私の役目と思ったけど、家に駆け付けた。
苦しむ義父を目の当たりにした。

暑すぎても寒すぎても、大げさにつらそうにする義父
肺に穴が開いたという事で、呼吸ができずに、苦しそうに座ることも寝ることもできず、救急車を待った。

長くなるので、続きます。


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