おとなになる、ということ
とうとう30歳になってしまった。
その事実にじわじわとダメージを受けているうちに、いつの間にか一ヶ月がたっていた。
特に何があるというわけではないけれど、十の位がひとつ上がる日が近づいていく誕生日前は、じわじわとした焦りがずっと背後に迫っている気持ちだった。なんでだろうね。
といっても、年齢について一番衝撃を受けたのは、わたしが20歳の誕生日だった。
進学で家を出ていたわたしだけれど、夏休みだし、せっかくの節目だし、ということで、家に帰ってきていた。
誕生日を示すのは、夕ご飯に出るケーキとお寿司だけ。特にプレゼントやサプライズはなし。いつもどおりの誕生日。まあそんなものだよね。
と思っていたら、7歳下の弟が、夕ご飯のときに、ちょっとした爆弾を投下した。
「お姉ちゃんも今日からおとなだね」
おとな、大人、?
確かにお酒は飲めるようになったけれど、学費も一人暮らしのお金も親のすねかじりだし、けれど運転免許は一年前にとっているし、アルバイトでお金は稼いでいる。
宙ぶらりんな状態で、中身も昨日と大して変わっていなくて、「今日から『おとな』」に変身した記憶もない。
それでも、7歳下の弟にしてみれば、わたしが何かの階段をのぼったように感じたのだろう。
ひとが成長するのは、年齢があがる以外の要素が大きい。もう大学院に行った弟も、いまとなってはそれもわかっているだろう。
(だが、彼の20歳の誕生日に、わたしは当時と同じ台詞を彼に言ってしまったのだ。大人げない話だ)
弟の発言いらい、「『おとな』とは?」という問いが、日常の中にときどき走る。
そんな生活をして10年。ようやく答えのうちのひとつが見えてきた。
『おとな』とは、自分の機嫌をとれるひとのことである。
このフレーズは、夫からわたしにある日投げつけられたものだ。
“投げつけられた“というように、わたしはぜんぜん自分の機嫌がとれない。具体的には、お腹が空いたり疲れるとキレる。
「そんな状態になる前に自分の状態を管理しておけよ!」
というような文脈で、なるほど、自分の機嫌がとれないのは幼子と同じふるまいだな、と反省した。
まあ一度や二度の反省では、30年間身についた意識はなかなか変えられないのだけれど。
30歳の今年は、「いい気分でいる」ことを目標にしようかな。
と思う、秋の夜です。