文章力と孤独さ
そんなわけないだろ!
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稚拙な文章は、それを編んだ人間がこれまで孤独でなかったという証左になるし、逆に美しい文章は、それを残した人間がずっと孤独の中で戦ってきたという証しである……?
なるほど、これは暗闇の中で独り、自らが紡ぐ文章を恃みに歩んできた人に寄り添う文章かな、と最初に思った。
でも、「作文の巧拙」と「これまで孤独だった/そうでない」を掛け合わせての人間の振り分けは、たとえば「ことばのアウトプットが苦手ゆえに孤独だが、それに抗おうとしてきた人々」のことを蔑ろにしている気がする。同じように、「家族からの愛を一身に受け、楽しい仲間たちに囲まれて過ごして、それゆえ豊かな感性と表現を身につけた人」も想定できていない。
後者はまだいいよ、恵まれているし。でも、もし文章の巧拙が孤独と関わるのであれば、前者にあまりに救いがない。
僕の考えは、「孤独さと文章の上手さに相関はない」だ。
誰かの文章を読んで、「この文は上手いなあ、きっとこれを書いた人物は冷たい孤独と戦ってきたんだろうなあ」 と思うか。逆に、「この文章は下手だなあ、きっとこの筆者は孤独を味わったことがないんだろうなあ」と思うか。
ん〜、文章の内容による。けど、その物差しって普通に失礼じゃないですか。
寂寥感についてよほど具体的に書かれたものでない限り、文章の上手/下手からその背後に潜む孤独を推し量るのは難しいと思う。むしろ、うんざりするほど稚拙な文章にこそ絶望的な“ひとり”が滲むことだってあるはずだ。
この投稿の第一の対象が誰になってしまっているかというと、“自分は孤独と戦ってきたから、文章が上手い”と自負する人々だと思う。自らの文章力を厚く恃み、拠り所にしてきた、インターネットの人。
誰かに巧拙を判断されるくらいまとまった文章を書くことと、まともな文章を書くためのインプット、つまり読書することは共に、長い、ひとりの作業である(現に僕もいま、自宅のトイレでひとり、この文章を書いている)。
自分の作文能力に多少の自信を持つ人間はそういう意味で“ひとり”と馴染み深い。ひとりであることがすなわち孤独というわけではないけど、孤独さと文章力がセットになったこの投稿に慰撫され、共感してしまう人はきっとたくさんいるのだろう。
しかし重ねてになるが、孤独さと文章力に相関はない。ある種の文章力が孤独を糧に磨かれることもあるだろうが、当然それが全てではない。
文章が達者な人、苦手な人それぞれに手を差し伸べるようでいて大きく破綻している、孤独と共に文章を編んできた人に宛てた甘言。そんな欺瞞めいたものを、僕はこの投稿から感じ取った。
文章力を高めたことも、孤独を耐え抜いたことも、どちらも独立して讃えられるべきで、わざわざ結びつける必要はないのだ。
と、だいたいそんなことを思いながら該当の投稿を引用する形でこう書いたんだけど
そしたらさあ、なんかすごい冷笑してるみたいに言われて。違うんですよ、これは熱い憤りの噴出なんですよ。いや、この書き方だとそう捉えられても仕方がないか。
でも、他人の高い能力を一方的にネガティブな経験の産物と見做すのは間違っていると思うし、他人の能力の低さを、恵まれた環境による未成熟の末路だと勝手に見做すのも、やっぱり違うと思うんだよな。
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先ほど第一の対象と書いたのは、僕の引用投稿をさらに引用して、「わたしは逆に自分の文章が下手なことに理由を貰えたと感じたけど」というような意見が散見されたからだ。第二の対象、「自らの文章が下手だということと、周囲の人間に恵まれてきたことの両方に自覚的な人」である。
しかしこちらの意見に対しても僕は、それもまた違うだろう、と思う。誰かの文章力の高さと孤独さに相関がないのと同じく、あなたの文章力の低さと、仲間たちと愉快な時間を過ごしてきたことにもまた相関がない。そっか、周囲の人間に恵まれていたから私は作文が下手なのか、仕方ないなあ、とはならないのだ。関係ないから。研鑽を怠っただけ。
つまり結局この投稿は、文章力と孤独さという非常に主観的で曖昧、そして本来相互に作用することのない概念を掛け合わせ、“文章が上手いと自負する人への慰撫”と、“下手だと自覚する人への免罪符”のダブル欺瞞で読者を気持ちよくさせるリップサービスなのである。
そんなわけないだろ!
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余談です
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