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まんまみーまMBTI心理機能定義書 - Ti「原理」

はじめに

以下参照。


定義(Definition)

内向的思考(Ti) = 原理(principle)

副次的解釈:
願い、誇り、線、流れ、連続性、肯定感


概要(Overview)

内向的思考(Ti)を語る上で重要なポイントは、”願い”です。願いと聞くと感情論のように聞こえるかもしれませんが、その繊細さを理解することが大切です。

話を深めるために少し理屈の話をします。

まず、正しさを担保する方法とは何かを考えたとき、意外と答えはシンプルです。
①自分が思えていること
②他の人から認められること

私はこの二つだけだと考えてます。

ややこしいのは、
・自分が思えているのに他人がそれを認めない
・他の人は認めてくれているが自分は納得してない
このどちらかが起きると①②のどちらを取るかという選択を出来なければ、正しさが成立しないという部分です。

ピンとこない人は、一つ小話をするので、感覚を掴んでもらえればと思います。


理屈の世界といえば、数学や物理では、一度成立すると見なされた定理や法則は別理論構築の基礎として使用が許され、ヤンキーの世界ではこれまで培ってきた喧嘩道の経験則を社会生活でも応用していたりという話はよく聞くと思います。

そうすると、ここである問題が発生します。

例えば物理の世界では、かつて天動説が有力だった頃、地動説が浮上した際はいくらその正しさが妥当なものであっても中々受け入れられなかったということがありましたよね。物理は数学を用いて物理現象を記述しようとするため、既定の数式では時として自然の解釈にいくらか限界が生じます。そのとき、学問の進化に応じて理論の妥当性も常に再検討されます。その結果地動説以外に説明がつかなかったから天動説は否定されたわけです。

では、何故数多くの学者が天動説を支持して止まなかったのか?

これについて、MBTIにある程度知見がある方は内向的感覚(Si)による排斥心だと言う人が多いですが、根本的には内向的思考によるものだと私は考えます。なぜなら、見慣れないものだから認めないからではなく、間違っているかどうかに繊細になっているからです。

どうゆうことかというと、端的にいえば、これまで積み上げた理論が破綻することを恐れているのです。

物理と数学の関係の通り、「一度確立された理屈は、その後の理論構築において適用可能である」という観点がこの問題を深刻化させています

この思考の連続性には「一度確立された理屈はその後も恒久的なものであってほしい」という強い願いが詰まってます。

学問の世界ではxNTPが「その理屈は〇〇な可能性がある限り認められん」と幅を利かせているでしょうし、極道の世界では「お前と俺達は道を違えた、破門だ」と仲違いをしているでしょう。

よく世間で言われる「内向的思考の主観性=本人にとっては正しいが、客観的に適用できるとは限らない」というのは元来このことを指します。外から見ていて間違っていても、破門してそのまま己の理屈にしたがって進み続ければ、その理屈のでは正しいですからね。

最初に触れた通り、自分が正しいと思えれば(①)、本来はそれでいいのです。しかし、他人が介在することが必須となる状況では、②も満たされないと正しさが担保できなくなるので、学者は①②の両方が満たされるまで議論という形を取ろうとするし、極道の人は①②の両方取りをしていた状況を破門によって①に絞るという方法を取るのです。

このように、確立された理論を様々な事に展開していく活動は、間違いの発見が後ろ倒しになるにつれてそれまでの自己肯定感を損なわれる度合いも大きくなる。結果、頑固になる。私がこうやって色んな心理機能を定義している活動だって、後でそこに修正が入った時はそりゃあちょっとシンドイもんです。

私は、この思考の連続性について、何を大事にしているかという観点から、内向的思考(Ti)を原理と定義しました。最初に唱えた理屈の正しさを追い求める旅、それが正しさを追うということなのかなと。


小噺「手加減ばかりしなきゃいけなくなったら、潮時かもしれない。」

素朴に思うのですが、最近世間が多様性と倫理についてうるさすぎて肩凝りませんか?

多様性と倫理が要らないって言ってるんじゃない。理不尽に報われない人がいるなら彼らの為に新しいルールが生まれるのは良いことだと思う。

ただ、こっちの気持ちが熱いうちは、自分の人生くらい自分で責任取るから好きにやらせてほしいし、

多様性を謳うなら、
「自分が好きに思う自由も約束してくれるんだよな?」
ってよく思います。

そもそも内向的感情の回で話した通り、倫理とは限界を前提にした概念なので、適用される人間が限界でなければ不必要なものです。要らないルールに参加なんてしないで、ルールなんてのは自分の限界に合わせて必要な分だけ借りればいい。

自分の思う正しさって、限界があるから叶わないんですかね?
確かに、皆が無批判的によく分からんことを信じ切ってる所為で叶わない限界になってるとかは在ると思うけど、それ以前に自分の問題で心が折れてるから叶わないことって多いんじゃないかと僕は思う。

限界だと思ってしまったら、その後残された選択なんて、彼らみたいに他人に命乞いをするだけ。それでいいのか?自分の思う正しさは人に許してもらうことなのか?それは自分で正しくないと言ってるのと同じじゃないのか?少なくともxxTPの人はそう思うんじゃないでしょうか。

本当に心から信じたいものがあるとき、人は受け身にならず主体的になるものだから、別に誰かにどうにかしてもらおうって思わないと思うんです。

僕なら、各々ができるだけ自力でやりたいことをやっていて、心は常に、手は必要な時だけ、そうゆう背中の押し合いができる関係の方がいいなと。

僕の話になりますが、近年多様性とか倫理とかが声高なように、時代に合わせて社会の皆さんが頑張って色々整えてくれてるのは嬉しいけど、職場でもプライベートでも「そんなにこっちを腫物に触るみたいにあれこれ気遣って世話焼かなくていいよ自分でできるから」って思う事が増えました。

逆に「あー、ここはこの人がちゃんと自分で発言すべきだけど、言わないってことは助け船求めてるんだなー」とかこっちが色々考えてあげなくちゃいけないことも増えた。なんていうか全体的に人が何でもかんでも他人頼みというか、端的に言って手加減をしなきゃいけないシーンが増えたなと感じてます。

そうゆう時間が続くとなんとなくシラケてくるというか、張り合いがないというかあまり自分がしたいこと出来てないなって感覚が増してきて、楽しくなくなっちゃうんです。

で、同時に短期的なら受け入れるのが現実的だけど、長引きそうなら多分その時は環境とか人脈を変えなきゃいけない時なのかなとか思うのです。だって自分の中には、こうしたいって思いが強くあってその先に何があろうと自分で責任を取るって思っちゃってるんだから。

現代は時代の流れがどんどん早くなって、色んなものがすごい勢いでアップデートされていくけど、その結果、飲み込みの早い人はどんどん先に進むし、そうじゃない人は取り残されていく。その歪を埋めていくことが社会の課題であるのは確かだけど、それ以前に個人の人生の充実を考えたら、言い方は悪いけど不必要な付き合いも多く生まれる時代なんだと思う。

決して、他人が必要じゃないって意味じゃなくて、むしろ他人の存在がより重要になったのかなと僕は思ってる。広がる差が生まれる機会が万人に与えられた時代だからこそ、一人の時間とか気の許せる人達との憩いの時間の作り方って以前より重要だと思うんです。

お互い近いレベルで背中を押し合える関係、そこに近づけてるのか。そうでないときは、時として今までよりも大きな決断も重要だったりすんじゃないかなと。

社会がどれだけ便利になって、人の尊厳を守ってくれると謳ってたって、心の後押しまではしてくれない。目に見える世界は進んでいるのに、成長を確かめ合える人が居なかったら寂しいなと僕は思う。


あとがき

対の関係である外向的感情(Fe)の回では、今回でいうところの②に焦点を当てて書いています。


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