まんまみーまMBTI心理機能定義書 - Fi「安寧」
はじめに
以下参照。
定義(Definition)
内向的感情(Fi) = 安寧(peace)
副次的解釈:
倫理、限界解釈、欲望
概要(Overview)
内向的感情を語る上で重要なポイントは、”限界点”です。
こちらでも話した通り、人々は世界に様々な構造を与えてここまで文明を発展させてきました。そうして思いつくことの大半には既に誰かしらが構造を与えているような所まで現代は進んでいます。それでもまだ、「思い付きはするけど実現までの道は程遠い」といった問題は山積みです。ガンダムの世界で描かれているような宇宙開発によるスペースコロニーでの生活なんてのは、70年代から着想されていてもまだまだ私達には遠い話に聞こえますよね。現代ですらそういった限界に纏わる課題があるということは、文明途上の昔はもっと多かったはずです。その時、人々はどうやって時代を乗り切ってきたのでしょうか。
ここで一つ、無人コンビニを例に倫理の話を少しします。最近はコンビニの自動化が進んでいて、Amazonの無人コンビニ稼働も盛んに行われています。この無人コンビニ、ちょっと悪い事できそうですよね。勿論、システムで個人情報を握られてるからそんなことはできないのですが。
なぜ個人情報を握られるだけで犯罪が出来ないか?
そもそも無人コンビニの仕組み自体、コンビニに限らず出来る事なら導入したい仕組みであるのは、ちょっと賢い人ならお分かりかと思います。では、何故すぐに導入されなかったか。それは、自動化する技術が追い付かないとか初期投資費用の問題もありますが、犯罪(万引き)に対するリスクヘッジの部分が主ですよね。
では、犯罪とはなぜ犯罪なのでしょうか。
例えば、仮に万引きを取り締まる方法が出来ないとして、そうなるとたくさんの万引きが行われます。万引きが悪いのは、仕入れるコストに見返りがなくなってしまうからですよね。
ここで重要なのは、仕入れるコストに見返りがなくなってしまうことが致命的問題だということです。致命的な問題になってしまうのは、仕入れは自分でしなければならないにも関わらず、盗まれては再調達する時間的コストが掛かるからですよね。それを危惧し、価値ある商品を提供できる人が安心して販売に精を出せるよう、法という仕組みを導入しているはずです。
極論を言ってしまえば、3秒で野菜や米といった食品を無尽蔵に量産できる店員さんが居たとしたら、調達コスト観点ではこの店員さんにとってその法律は必要なくなりますよね。ただそんなのは実現不可能な空想であって、現代の人類には万引きをされることは、修正不可能な限界として全人類で共有しておきたいものです。
法律とは、常にこの”限界点”という観点が抑えられています。
世の中の様々な倫理や法律を一度調べてみると分かりますが、すべて何かに対する妥協点がその裏にあって、それを根底として法が構築されています。
このような”人々の現時点の弱み=限界点”を論理的に守って制御するのが外向的思考の役割であり、その基礎にはいつも対象の限界点を見定める”確かな眼”があります。
先ほど、「悪い事ができそう/できない」といった語句に太字を付けましたが、このできそう/できないという観点を外向的思考の目線で捉える事ができれば、自ずと倫理の話が外向的思考と表裏一体であることがわかると思います(できる/できないといった働きかけは構造の認識によって成立しますよね)。してしまっては遅いから、捕まったときのリスクによってそう簡単にはできないと思わせるために法があるのです。このリスクもまた、本当にそうなってしまった時、現状ではどうしようも出来ない難題を課せられるからリスク足り得るのです。
できそう/できないという指標は、人間の能力に依存するため、時代と共に進化する人類に合わせて、その都度法も見直されるのです。
そのような法をはじめとした営みには、常に安寧を願う思いが宿っているため、私は内向的感情(Fi)を安寧と定義しました。
小噺「なぜ現代は倫理に厳しいか?」
現代は少し昔(私が生きてる20年そこらですら)に比べて、倫理的問題への関心が強まっていると感じてます。
家庭問題、セクシャル問題、政治、発言、様々な観点からそれが見直されていますが、これは先ほどの文脈を踏まえると、”限界点が変わってきている”ということになります。
例えば、かつて躾の一環として許容されていた暴力や、同姓愛者の法的婚約が認められない現状、これらは時代を追って様々な多様性を受け入れる体制が少しずつ社会的に整備され始めたからこそ、一時は他国との政治的都合や科学的都合で限界だったことが限界ではなくなってきていることで見直しが始まっているのです。子供の尊厳、自由の尊厳、それらを認めてもらうことはもう限界ではないのです。
一方で、それらが叫ばれてるということは、まだ実現はされていないわけで、その渦中にある今、人々が限界だと割り切っていたことに願いを見出し始めているのですから、その副作用で迂闊な発言に対しても倫理の目が働きます。
例えば、私は元々、「エロい」とか「綺麗」とか「カッコいい」とか「素敵な脚だ」とか「いい上腕二頭筋だ」といった、ほんのりセクシャルなワードを気軽に言う人間でしたが、最近は人の目がおっかなくて、かなりTPOを考えています。
これも、先ほど挙げたような性に対して柔軟な文化と社会制度の両方がある程度進んだ時代になれば、再び発言しても今ほど咎められないでしょう。何かしら認めてもらいたくて、認めてもらえそうなのに認めてもらいない現状の人が居る前でそういった発言をすることが更に傷をえぐる(叶わない願いだと思わせてしまうから)という観点から、そこが現代における限界点として見なされているということです。
「可愛い、はFiで理解できるかも?」
随時更新。
あとがき
この記事のサムネ、安寧感を出すのにかなり苦労して探したのですが、限界点ということを意識しながら、家族メンバーの座席配置を変えてみたり、なぜ二世帯であるか等々、考えを色々巡らせてみると良い頭の体操になります。
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