曇らせる
こんにちは。
今日は、2020年5月3日。
GW真っ最中の、憲法記念日。
緊急事態宣言発令から、さらなる延長の雰囲気ムンムンでございます。
私めは、ひとり悶々としていた日々から、もう一段階上がった悶々とした日々へと突入する模様。
ゴルフ(連れていって頂き)に、断捨離、お家で千ベロ(千円でベロベロ)、自粛のライン内で様々した挙句、無の境地の一週間を経てここにおります。
自然はわれわれに、ひとりで自分のことをじっくりと考えるという、大変な能力を授けてくれた。 そしてしばしば、われわれをそこへと誘い、われわれの存在は、むろん幾分かは社会のおかげであるものの、われわれ自身のおかげなのだと教えてくれる。 ある種の秩序と意図にしたがって夢想するように、自己の想像力を整列させて、風に吹かれるままに、逸脱して、消えうせたりさせないためには、想像力のうちに立ち現れる数多くのきれぎれの思考に形を与えて、これらを書き留めるしか方法はないのである。
(エセー/白水社 『嘘をつくこと』5巻18章 P132)
↑長い…。しかし、まさにその通りです。そして、かれこれ数週間にわたるなまくら生活を経て、自己嫌悪に陥るわが精神。
生活習慣や社会とのかかわりにおいても、われわれの精神が、えてして、あまりに純粋にして明敏すぎるのも本当のところだ。こうした相手を見透かすような明晰さは、やたらとことこまかく、詮索したがるきらいがある。 世間の実例や習慣にもっとすなおに従わせるためには、精神をもっとにぶく、なまくらにする必要がある。 もっとどんよりと、曇りがちのものにすることで、この地上の混沌とした生活とバランスをとらなくてはいけない。
(エセー/白水社 『われわれはなにも純粋には味わわない』5巻20章 P150)
なんでも突き詰めて物を考えてクリアにする作業は、決して良い結果ばかり招くものではない。
恋愛にもいえることで、敏感に反応してドンパチを繰り返すよりも、“もっと精神を鈍くなまくらにして、曇りがち”にしてやり過ごしたほうが良いときもある。ほんとうに…ある。
ネットで、アントワーヌ・コンパニョンさん(フランスで文学の偉い方)が、「外出自粛の今こそ、プルーストとモンテーニュを読みなさい。」とおっしゃっていた。
私は以前、立ち直れないほどのボディブローを浴びた際にモンテーニュに出会った。あれから数年経つが、まだ読破はできていないのがアレだが。
読んで感銘を受けては、いつしか名言も去る。
言葉のひとつひとつが鮮明に焼き付き、しかるべき時にそれら名言が役立てたら素晴らしい。
また傷つけ、傷つき、ここに立ち戻ったときに、あぁそうだったと思う。
立ち戻れる場所があるだけ良いのかもしれない。
“きれぎれの思考”にヒントを与えられるように、愚かな私はモンテーニュを“書き留めるしか方法はないのである。”
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