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[石川忠司インタビュー]漫画と言葉と藤本タツキと(後編)

2011年の文芸学科設立当初から芸工大で教員を務めている石川忠司教授。学科長でもあり、主に創作論や文芸評論の講義を担当しています。そんな石川さんに、洋画コースの卒業生でもある漫画家・藤本タツキが在学時にネームを見せに訪れたという研究室で、芸工大と漫画のこと、漫研の活動のこと、批評のこと、そして藤本タツキについて話を聞きました。(後編)

聞き手:佐藤タキタロウ(洋画コース4年)、和田裕哉(文芸学科4年)、足立大志朗(文芸学科4年)
構成:編集部

石川忠司(いしかわ・ただし)
1963年東京都生まれ。立教大学文学部ドイツ文学科卒。文学士。文芸評論家。1989年に「修行者の言語 中原中也試論」で群像新人文学賞優秀賞受賞。著書に『極太!! 思想家列伝』(ちくま文庫)、『孔子の哲学』(河出書房新社)、『現代小説のレッスン』(講談社現代新書)、『衆生の倫理』(ちくま新書)、『新・龍馬論』(原書房)、『文学再生計画』(神山修一との共著、河出書房新社)などがある。

〈前編はこちら〉


芸工大漫研の困難

和田:当時、藤本タツキたちが漫研として集まっていた時っていうのは、石川さんがずっと声をかけていたのか、その後は自主的に学生同士が集まっていたのか、どっちですか?

石川:自主的にやるようなやつらじゃなかったかな(笑)。ちょうど学科がめちゃめちゃ忙しくなってきて自然消滅したと思うんだけど、サークルの会合があるときは必ず俺がいたような気がする。こういう『Melt』のような形で、自主的にこれだけのものが仕上がってくるみたいな感じではなかったんだよね。

和田:半年くらい漫研をやってて思うのは、どうしても管理しなきゃいけない辛さなんですよね。これだけの雑誌を作ろうとすると人数もいるし、「仕事」になっちゃうんですよね。そこが困難というか。本当はゲリラ的に、別に誰かが号令かけなくても集まりたい。教員がいなくても活動して、いつの間にかできてるみたいなのが理想かなって僕は思うんです。でも、コロナ禍だったっていうのもあるし、この大学の性格っていうのもあると思うんですけど、形のあるものは作りづらいんですよね。どうしても集まる理由とかシステムがいるし、そうなると「サークル」とは言い難いところが出てくる。今後、漫研を続けていくにあたって、そこのバランスをどう取るかがもっぱら僕たちの悩みです。

石川:でもさ、こうやって形になっていることは奇跡的なことで。学生が自分たちで動いてひとつの雑誌作るって目的立てて、堅実にスケジュール管理していくわけでしょ。じゃあなんで昔、その漫研っぽいものが自然消滅したかっていうと、自分のことに精一杯なんだよ。俺の学生時代のサークル活動とかだって、やっぱりこんなもん作れないんだよ。行きたい業界があって、じゃあそこに自分がどう関わっていけるんだろうってことを考えると、特に俺の場合、どうしてもデビューしなければいけないという極めて個人的な強い事情があったから、自分一人で書いて出版社投稿しちゃうのが一番の近道だった。小説家も勝手に書いて投稿するでしょ。漫画家だって勝手に書いて投稿すると思うんだよね。だから、学生時代に人を集めて組織化してひとつの成果物を作ろう、っていう発想自体、俺が学生の時はなかったもんね。昔の学生が作るやつって、ここまで本格的じゃないよ。

足立:便利になった部分がめちゃくちゃ大きいと思うんですよ。当然、印刷技術も発展してるし、同人誌を印刷するための印刷会社がある。文学フリマみたいなものも盛り上がっているし、パソコンのソフトの性能も上がってる。時代も後押ししつつ、って感じですかね。

石川:大学の友達で作ってたやついたけど、もっと安っぽかったもん。最終的にホッチキスで止めるような。

和田:マジで最初は本当にそれでいいと思うんですよね。……で、今回のVol.2では批評に重きを置こうというコンセプトで制作しました。漫画の批評誌としての立ち位置をしっかりさせたかった。

足立:そして、前回は「この3人でできることをやろう」だったのが、今回は範囲が拡張して、団体として何かをするっていうのがうまくいった。どこまで続くかね。

和田:あんまりこの形の延長として続くとは思ってなくて……。やっぱり4年生が幅を利かせすぎたので。本当はよくないんですよ、手を出しすぎるっていうのは(笑)。

石川:でも、洋画のタキタロウと文芸の2人っていう取り合わせは良かっただろうね。

タキ:それはそうですね。

インタビューの様子(特に誰かが荒らしたわけじゃありませんよ)

講評会で同級生にネガティブなことが言えなくなっている

和田:Vol.2の中身をじっくり読むと、序文以外の学生の文章は全て「批評」というラベルで載せているんですが、……やっぱり難しかったですね。

足立:文芸学科の学生もいるんですけど、他学科の学生もいて。そもそもあんまり文章書いたことがない、けど漫画には興味があって、漫画に関する文章には挑戦してみたいっていう人も多くて。

和田:もちろん、文芸学科の学生でさえ、強度のある批評を書くのは難しいじゃないですか。でも今回は他学科の下学年にもしっかり文章を書いてもらうってことに挑戦している。俺たちの文章にも当然言えることですけど、レベルが高くないから「じゃあ、や~めた」は違うなと思っているんで。やるだけやってみようと。良い意味でも悪い意味でも「所詮、学生だし!」って割り切ってやりました。

足立:文芸誌に載ってる文芸批評、映画批評とか漫画批評もそうですけど、学生が作品を批評的に読み解いたテキストに触れる機会ってあんまりなくて。文芸学科関係なく、美大生としては本当はダメなんでしょうけど、避けられてるというか。「なんか変なこと言ってるよ」っていう感じで見られちゃうこともあるのかなと思って。批評が嫌われてるというか。石川さんが文芸評論をしている立場から思う「批評の役割」ってなんだと思いますか。

石川:なんか難しいな。批評の役割……。まったく考えたことがない。

和田:今、ネット上で簡単に触れられるのは「考察」なんですよね。

石川:それはそうかもね。

和田:ハッシュタグがついている「考察」は溢れかえっていると思うんです。でもそれが「批評」かと言われると、文芸誌とかに載っているプロの批評家のそれとは大きな差があると感じる。個人的には、この「考察」っていうのは、基本的には肯定的に作品を捉えがちというか。いいね・RTされやすい言葉とか言い回しを多用して、もう完全に「ファン」目線として語っている。でも批評には批評の態度があって、いろんな判断基準の下で否定も肯定も当然ある。特に創作をしない一般学生が、ネット上の考察を吸収することは別にいいんですけど、芸工大という美大で創作をする人間が、王道の批評にほとんど触れずに物を作るっていうことには「それでいいのか?」みたいなことは考える。創作やる人間だからこそ、もうちょっと批評を学んでみて、挑戦してみることの意義を考えたいんですよ。そこで得たものを創作に還元するっていうことも大事なんじゃないか、っていう問題意識があった。

石川:その「考察」は、肯定的に紹介してあんまり切り込まないってこと?

和田:そんな感じですね。

石川:そういうのがウケるのって、わからないでもない。だって批評とか評論って読むのって結構頭使うっていうか、めんどくさいじゃない。解きほぐしていかなければいけないじゃない。で、それだけの苦労をして、どれくらいの見返りがあるのかって、結構問題で。例えば、もう神様か誰かが「これはもうばっちりな評論で、こんなに厚くて構文とかこんなに難しいけども、これをしっかり読む努力をすればちゃんと見返りがあるよ」って太鼓判を押してくれれば、どんなに難しくても食らいつこうとするんだけど、もうその基準がわかんないんだよね。それと、批評を書くって、ある方向性はっきりさせるってことじゃない? 自分はこういう方向性があるよっていう。何かに対してこういう意見があるよっている。でも「方向性」がめんどくさいんだよね。

和田:石川さん自身がですか?

石川:そう。いろんな方向性って「こいつの正しさの基準で言えば、確かにこうだろうな」っていう感じなんだよ。これもOKだしあれもOK。だから批評的なものが最終的にどこに向かうかっていうと、考察っぽいものでも素晴らしいんじゃないかって思う。

和田:なるほど、そうなんですね……。

タキ:若者が批評を読まないとか、文字から離れているっていう感覚は、文芸にいる人と美術科にいる人とで、全然違うんじゃないかな。特に、自分世代の美術科の学生は、今の芸工大の方針もあると思うけど、文章を読んで考えるという行為からはすごく離れてる傾向にあると思って。……これはカットされちゃうかな。でもなんか、素朴にそう思うんだよね。Instagramとかで、あまり文字に触れない関わり方ができるようになった今さ、特に美術科にいる人たちって、文字に触れないっていう選択をした、批評への忌避感を共有してる、みたいな人が正直多い気がして。……だから基本的に僕、美術棟だとはぐれもので、あんまり友達いないんですよね。

和田:文芸が合うって感じてるくらいだからね。その忌避感を感じた具体的なエピソードある?

タキ:うーん、顕著なのはやっぱ講評のシーンだよね。作品講評会の時に「ここダメなんじゃない?」が言えなくなってるし、言うのは俺だけになってる感じ。

和田:うおー……。創作者と批評家が敵対関係にあるって思ってる子が多いのかな。まあ、創作してないやつに外野から価値判断をされることへの抵抗感は理解はできる、もちろん。その感情はあっていいし、むしろ、創作者としてのプライドだと思うから「お前に何がわかんだよ」って態度は大事だと思う。でも、それが行き過ぎるのか、批評・評論そのものを丸ごとひっくるめて否定しちゃう、「褒め」しか許さない、くらいの態度になるのも当然危険だと思いますよね。

書き言葉の堅苦しさが、話し言葉を侵略している

石川:タキタロウが「自分くらいしか講評で批判する人間がいなくなった」って話したじゃん? 言葉ってさ、本来、「書き言葉」じゃなくて「話し言葉」なんだよ。俺たちが使う言葉って、日常生活であーだこーだ言う中で生まれるんだよね。だからそもそも、あんまり厳密な概念があって、厳密に何かを意味したりっていうのは、苦手なはずなんだよね。もっと無責任なんだよ、本来の言葉って。

足立:すごい話が始まった気がする……。

石川:俺の若いころの仕事って、言葉の無責任さに完全に乗っかって、適当に言ってきただけって感じなのかな。恐らく本格的な、専門的な「検証」に耐えるシロモノではない。それは出版されるから活字として残ってはしまうんだけれども、いかに普段の口語のニュアンスと適当な思いつきを、書き言葉のふりして偽装した作業だったような気もするのね。で、今ってまさに書き言葉であり活字・文字であるSNSがこんなに普及して、言葉が言葉としての厳密な意味を持ちすぎてないか? この言葉はこういう意味、こういう概念を指していて云々かんぬん、みたいな。批評や講評も、そこに絵があって、授業中にみんなでそれについて言及する時って、言葉一つひとつにそんな明確な含意はないじゃない? その場の雰囲気で、ちょっと心が動いていくのにしたがって、心の動きをそのまま物理的に発声していく行為だったりするでしょ? ものすごく健全な批評だと思うんだ。でも、それがちゃんと活字になってしまって、理路整然と「これはこの概念を意味し、これはこうで……」みたいなことになる。おまけにSNSだと書かれたことが永遠に残るんだよね。

和田:昔は思ったことをそのまましゃべるようにしゃべって、それで終わりだったけど、今は思ったことをしゃべる時も、書く時のような確実性が求められるってことですかね。

石川:書き言葉の堅苦しさが、話し言葉を侵略してるような気がするんだよ。夏休みの間、個人的な古典回帰でモーリス・ブランショを読んでいたんだわ。ブランショは「日常の言葉」と「文学の言葉」を対比させてる。「日常の言葉」で例えば〈上司が呼んでるぞ〉って言われたら、その時って、言葉の“意味とか内容”はないんだよね。言われた人間は「上司に会わなきゃ」っていう行動を誘発されるだけであって、言葉自体はゼロになるんだよ。次の行動のための、たんなるステップでしかない。でも、小説で〈上司が呼んでるぞ〉って書いたら意味を持つんだよね。その上司の表情とか、顔とか、姿、形、心理とか。「文学の言葉」って過剰に意味を充填していくんだよね。それは言葉のありかたとして不健全な気がする。もっと無責任に、言いっぱなしで、適当な世の中を作っていった方がいいような気がするんだよね。ちなみにカフカの作品は文学とは真逆で、日常の言葉の「何もなさ」、純粋なゼロに徹しているから爽やかだ。

和田:今のご時世の「発言には責任を持ちましょう」とは正反対だ。

石川:だから、なんていうんだろう。さっき「方向性がなくなった」って話だけど、なにかの方向性って活字的な発想じゃない? 論理立ったなにか意見を言わなければいけない、この問題に対して私はこういう意見を持ってる、みたいなモードって、なんか不健全なんだよね。そうすると、多分人間って本来方向性なんかまともに考えられる生き物じゃないのに、妙に「正しい」偽の方向性に従って自分を動かしてることになる。それだったら、ネットとかで普通に紹介とか考察してるほうが健全な気がするんだよね。

タキ:健全、不健全。めちゃくちゃいい話。「偽の方向性」って言葉がめちゃくちゃ効いてくる生活を送っている気がする……。

足立:うーん、その意味での不健全さは、よくないものなんでしょうか……。

石川:最終的にはそこもどうでもいいような気がするんだけども。おそらくだけど、Vol.2に栗原さんが書いてる文章って、ものすごく適当で無責任じゃない(笑)。読んでもないのに断言できるけど、なにかをしっかりと指し示す厳格な言語じゃなくて、ホント適当に書いてるよね。あいつ、何にも考えてないぜ? あれは風通しがいいとしかいいようなない。

和田:栗原さんの魅力ってそこですよね。その、なんて言うんだろう、別に本人に責任能力がないわけじゃないですか(笑)。あ、めっちゃ失礼。

石川:あやしいけどね(笑)。

和田:先生としては他の教員と変わらないんですけど、原稿に書いてあることの無責任さは別格な気がしますね。

タキ:文芸棟で、適当な学生捕まえて「ちょっとこの漫画のネーム読んで」って言ったら、すぐ返してくれるんだよね。「ここダメだと思いました」とかって。無責任な風通しのいい言葉が聞けるのは、文芸の魅力だと思うよ。『Melt』は文芸以外の学生が読んだり関わったりする方が大事だなって思ってる。そういう風通しの良さを他の学科に持って行ってくれればいいな。

足立:僕、「責任」の話で批評書いてるんですけど……。

和田:足立、俺より生真面目なんですよ、文章が。恥ずかしいけど、俺は割と批評仕草をしちゃう節があって。この言葉使えば頭良く見えるだろうみたいなこと考えるんですよ。ただこの人はそうじゃなくて、ガチで辞書的な意味調べたりとかするタイプで。いや、その方が絶対正しいんですけど。

足立:でもそれが変な偽の方向性にも近い部分があって。

和田:書いてることをさ「自分は確かにそう思ったんだ……!」って後付けしてる感覚はやっぱどっかある気がして。もう書いちゃったからには、みたいなところはあるんですよ。書きながら「あれ、考え変わってきたな?」でも別にいいんですかね。

石川:それ全然良いんじゃない?

和田:とりあえずその論調で書くけど、出版する頃にはもう全くそんなこと思ってません、みたいな。極端だけど、そのぐらいのテンションでいいのかな。自分の書いたことに縛られないで。……今回序文で大学とか学長のこと結構腐したけど、もうそんなこと思ってません! って言おう(笑)。

足立:僕は批評で『プラネテス』を取り上げたんですけど。「愛がない」って言ってるんですよ、『プラネテス』は。無責任な行為には。ずっと無責任に、その場で良いと思ったものを書き連ねていくことも充分楽しいし面白いものもできたりすると思うんですけど、なんか大事なものを失っているような気がするんですよね。それは人間的な何かを。それが『プラネテス』でいう「愛」であって。そこがすごい葛藤があって。

石川:何と何の葛藤があるの?

足立:その無責任さと、単純にいろんなものに責任を持つべきだよね、っていうところの葛藤です。

石川:なんかね、そこで言う「無責任」って、すでに「無責任という厳格な概念」がもう入っちゃってるような気がするんだよね。活字が持っている厳格さが、すでに「無責任という概念」を侵している。無責任に振る舞うってさ、不真面目というか「瞬間に滅私奉公する」? うまく言えなくて申し訳ないんだが。本来人間って生きること自体が相当雑だと思うんだよ。だからタキタロウが講評で「これはイマイチかな」みたいなこという時さ、そこに悪意はないじゃん。なにかが充填されてないじゃん。おそらく批判しようという気すら充填されてないよね、きっと。でも活字になると全部充填してるものとして捉えられちゃう。

足立:気を張っちゃうんですよね、文章って。

石川:気を張っちゃうとさ、特定の思想に絡めとられたりするじゃない。ある方向性を過剰に目指す思想はもう違和感しかない。言葉においては無責任、実生活においては仁義。これだけで十分じゃないか?

和田:おそらくですけど、多分経験の差だと思う(笑)。単純に我々はまだ若いから完全には理解できない。すみません、これは免罪符ですけど。

石川:最後、漫画の話に持っていくけれども、漫画のセリフって、不思議なことに何かが充填されていかないよね。小説のセリフだとやはり何かが充填されがちで、いわゆる普通のしゃべり言葉からどんどん離れてるような気がするんだが、漫画のセリフは違うんだよな。あれは漫画で言葉を使う時に面白いところだなあ。

〈おわり〉

※4人の話はまだまだ続きましたが、これ以上記事にすると芸工祭前にパンクしてしまうと思ったので、レコーダーを切りました。特に申し訳ないとは思っていません。

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