暇と退屈の倫理学を読んで、退屈を体験してみた。
おはようございます。
久々にnoteを執筆しております #ソムリエくん こと神沼拓海です。
最近のぼくの本の読み方は、自分が気になった著者がおすすめしている本を芋づる式で買い漁り、読み漁るという手法なのですが、その中でも理解するのに時間がかかった本が今日ご紹介する「暇と退屈の倫理学」。
佐渡島さんがおすすめしていて、なんとなくタイトルに惹かれたというのと、誰もが暇と退屈が入り交じる生活を送っているわけで、哲学的に学んでみるのも面白いんじゃないかと思って読んでみました。
まず500P以上あるので読むのにものすごく時間がかかるのと、いろいろな思想家が出てきて難しいことをたくさん言ってくるので、理解するのにかなり時間がかかりました。
そして自分自身退屈するという経験があまりなかったので、「退屈する」ということを数週間やってみました。
自らの実体験と読書を織り交ぜることでようやく自分なりの「暇と退屈の倫理学」というものを見つけることができたので書いていきたいとおもいます。
できるだけ端的に書けるよう努力しますが、多少は長くなってしまうことをお許しください。では行きます。
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まずは暇と退屈という言葉について。暇と退屈の違いをこの本では、次のように表している。
暇とは客観的に感じること。「あいつ暇そうだよね。」とか客観的にみて暇そうな人のことを暇と呼ぶ。たしかにそうだ。
それに対して退屈は主観的に感じること。「自分はいま退屈している」と主観的に感じること。
暇と退屈を語る上で、著者は歴史を振り返る。人間は元々移動民族であった。食料を求め、毎日移動を繰り返しながら、生きるために必要な知識と経験を積んでいく。この生活の中では日々新しいことの連続で人々は暇になることも退屈することもなかったと言う。
しかし、人間は後に定住生活を送ることになる。定住生活では日々いかに考えることを減らし、習慣化された生活を送るかが重要になってくる。この定住生活が退屈の原因だと著者は話す。
これは仕方がないのだ。暇と退屈の中で生きるのは定住生活を送る人間にとっては当たり前のことで、大事なことはこの「暇な生活をどう飾るか」だ。「退屈」とは、切り離せない生を生きる人間の姿そのものである。
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ここからさきは暇と退屈とは切り離せない人生を生きる中で、考えなければ行けない重要な議題を、自分なりの言葉にしていくつか抜粋したいと思う。そして最後に結論を述べてこのnoteを終わろうと思う。
「資本主義の暇の搾取」
金銭的余裕と時間的余裕を手にした暁に人々は本当に自分の好きなことをしているのか。暇な時間にyoutubeを観ること、テレビを観ることは本当に自分のやりたいことなのか。(もちろん適度には大事。)
「豊かさとは」
「豊かさ」とは必要を超えた支出、いわば贅沢を指す。豊かさを語る上で住み分けしなければ行けないのが「浪費」と「消費」。
「浪費」とは必要を超えてものを受け取ること。「浪費」と「豊かさ」はイコールになる。ただ浪費には限界がある。例えば食事をする際、今日はご褒美として贅沢に焼き肉を食べに行くことにする。焼き肉を食べる自分の胃袋には限界があるので、おいしい焼肉をたくさん食べ、「浪費」した自分は満足することができる。
対して「消費」には限界がない。例えば同じ焼き肉にいったとしよう。「消費」において焼き肉に行くことは「浪費」とは目的が違う。「消費」において焼き肉にいく目的は「焼き肉を食べる」ことではない。「有名な焼肉屋にいったという事実」が目的なのだ。「消費」は「意味」に価値を見出しているため、どれだけ焼き肉に行こうが満足することはない。
「消費」には限界がないのだ。
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暇と退屈とは切っても切り離せない生を生きる人間だが、暇と退屈から目を背ける方法もある。
それは暇と退屈を感じないくらい忙しく働くことだ。仕事にやりがいを見出し、意味を見出し、「労働の消費」を行うことで暇と退屈を感じない人生を歩むことだ。
僕は3月までサラリーマンをしていた。土日休みでそれなりにお金もあって時間もあって、暇と退屈と共存し、自分なりに咀嚼しながら日々を過ごしてきた。
ただ4月から起業をし、金銭的余裕と時間的余裕を無くした。給料もない中で、毎日必死になって目標に向かって取り組んだ。自分の中では最高に楽しい毎日だった。結果、暇と退屈とは共存していない日々を送っていた。
まず第一目標である飲食店のオープンを達成した。しかしすぐに緊急事態宣言が発令した。営業したくても営業できない。それまで血眼になって働いてきたぼくに急に時間的余裕が生まれた。
ここで久しぶりに「暇と退屈」を手にした。でも、一度捨てた「暇と退屈」を急に取り戻したぼくは何をしてよいかわからなかった。(当時はもちろん捨てたとは思っていなかったが、この本を読んでそう解釈した。)
一度「暇と退屈」との共存から目をそむけた自分には共存方法がわからなくなってしまったのだ。
そのとき、たまたま「暇と退屈の倫理学」を読んでいた。「暇と退屈」について考えることも今までなかったし、向き合ってみることにした。
主観的に自ら退屈してみた。今までは夜の時間もひたすら勉強していたのに、youtubeを見続けてみた。めちゃくちゃ退屈だった。一度レールから外れると元にもどるのは難しい。少しでも時間があれば読書をしていたぼくだったが、いつからかyoutubeを見るようになっていた。
「暇と退屈」は間違いなくだれにでもある。ただ、その時間をどう過ごすかで同じ時間でも感じること、想うことがぜんぜん違うことを理解することができた。
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最後に結論を。
「消費」から「浪費」へ
「浪費」とは「ものをうけとること」。「ものをうけとること」とは「そのものを楽しむことである。」と著者は話す。
先程の焼き肉の例だと、「浪費」において「焼き肉に行くこと」は「おいしい焼肉を食べること」が目的だ。その焼き肉を楽しみかたは人それぞれ。知らないお肉の部位を知ることを楽しむ。大好きな人と焼き肉を食べている空間を楽しむ。お酒と焼き肉のマリアージュを楽しむ。各部位の味わいの特徴を楽しみながら食べる。
「浪費」においては、ものを楽しむために人は学ぶ必要がある。学ぶことで引き出しが増え、楽しみ方を増やすことができるのだ。
「暇と退屈」に向き合う中で重要なことは、「学びながら楽しむ」ことであるとぼくは考える。「学びながら楽しむ」ことで「消費」ではなく「浪費」することができるのだ。
「没頭すること」
人間は定住生活を送る中で、習慣化され考えることが少ない日々を送るようになった。そして「暇と退屈」が現れ、その「暇と退屈」への向き合い方がわからないまま生きていくようになった。
習慣というのは必要である。ただ、適度に壊してあげることが大事だなと。そのためには「新しいことに取り組む」ことが大事だとぼくは考える。新しいことにチャレンジする→慣れてくる→習慣化される→また新しいことにチャレンジするということを繰り返していく。
人間慣れて習慣化されると甘えが出る。習慣化された毎日は楽だからだ。でも常にとは言わない。適度にその習慣を壊してみる。なにか新しいことにチャレンジしてみる。日々進化していく自分を楽しみながら、「暇と退屈」と向き合ってみる。
最近ぼくは「やきとり」の串打ちと焼きの練習を始めた。新しいことにチャレンジすると新しい発見がある。成長がある。
例えば焼き鳥屋さんにご飯を食べに行ったときのこと。「このお店はどんな焼き方してるんだろう。」とか、食べたときに「このレア加減は相当弱火でじっくり火入れないとできないよな。」とか、今までとは違った焼き鳥屋さんの楽しみ方をしていた。
久々にnoteを書いたのでまとめ方が下手になってしまったが、自分なりに「暇と退屈」と向き合ってみた。向き合った結果、今後やりたいこともたくさんでてきて今は楽しみでいっぱいだ。
また定期的にnoteは書いていこうとおもいます。
本日も最高の1日にしましょう。
ではまた!
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神沼 拓海(かぬま たくみ)
1996年2月21日生まれ(25歳)/神奈川県横須賀市久里浜出身
【サッカー】Aries Tokyo 所属
【ビジネス】株式会社モトックス (ワイン専門商社) 3年勤務 / 株式会社SEA 代表 ~地元よこすかをより魅力的な街に~
【学校】遊学館高校/東京農業大学 【資格】J.S.Aソムリエ #日本一サッカーが上手いソムリエ
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