駐在員妻 下から見るか横から見るか①
みなさま、駐在員妻をご存知でしょうか。それは夫の海外駐在に帯同する妻のこと。俗に駐妻と呼ばれています。Twitterとかではよくバカにしたような文脈で、たまには憧れの生活を指して、色々とコメントされる存在です。
はい。バカにしたい気持ちも、憧れるのも、なんとなくわかります。自分は関係ない夫の仕事で、夫の会社のお金で海外暮らしをしている身分です。
でも、駐妻だってその背景は十人十色。このnoteでは便宜上「駐妻」と書きますが、駐夫だっている昨今です。
海外生活を目一杯満喫している駐妻もいれば、毎日帰国したくてたまらない駐妻もいます。専業主婦を極めている駐妻もいれば、現地で働く駐妻も、休職して来ている駐妻もいます。もはや「駐妻ってさ」と一括りにしてお話できるものではなくなってきていると思います。
私は今、2回目の帯同をしている駐妻です。1回目の帯同当初は圧倒的に楽しみにしていたタイプでしたが、実際帯同すると戸惑いあり、後悔あり、色々と人生の軌道修正を重ねざるを得ない状況が続いています。
これからパートナーの駐在に帯同する方、海外生活に夢をみて婚活している方、駐妻についひとこと言ってしまいたくなる方などに、私のこれまでのリアルな体験と気持ちの動きを記していこうと思います。
私が駐妻になるまで
話は私と夫の出会いまで遡ります。
私と夫は大学二年生の頃付き合い始めました。同い年で同じ大学、同じ学部でした。
就職活動の時に夫は「海外で仕事がしたい」と商社を中心に受けて順調に内定をもらっていました。私はそもそも社会人になることに拒否感を持ちつつ、海外で仕事もいいな~と思ったり、ポリシーのない就活をして希望の会社からは落ち続け、なんとか夏採用で大手IT企業の内定を得て社会人になることができました。
この頃にはまだ夫と結婚までするとは考えていませんでしたから、彼氏が商社に入社したからと言って、自分の人生とはほとんど無関係に感じていました。海外赴任に自分がついて行くようなイメージももちろん皆無でした。
社会人になって数年、単純な私はすっかり仕事の楽しさ、やりがいを覚えていました。いろんな仕事がしたくて、社内異動に手を挙げて勝ち取ったり。今思い返すと相当な長時間労働、業務の内容もハイプレッシャーで常に胃が痛いような仕事でしたが、「今は全力で働く時」と捉えて頑張っていました。夫とは全く違う業界と職種でしたが、お互いに刺激を与え合うような関係で、私はそれにとても満足していました。
そんな中、東日本大震災が起こりました。それまでほとんど結婚を意識していませんでしたが、私と夫はこれをきっかけに結婚することに決めました。ただ、当時既に二人で暮らしていた私達は、婚姻届を出しただけで結婚式もせず、生活も結婚前後で全く変わらないようなものでした。しかし、夫の会社が夫を見る目は変わっていたのです。
結婚してから半年ほど経った3月のある日、二人で仕事終わりに居酒屋で飲んでいると、夫から「海外赴任が決まりそう」と言われました。夫に海外赴任の可能性があって、夫がそれを希望していることはもちろん知ってはいましたが、まだその時夫の同期で海外赴任になった人もいなかったので、心の準備も何もしていませんでした。なので、それを聞いた瞬間の私の頭には「あ、いってらっしゃい!」という台詞が浮かんでいました。私はちょうど社内異動して一年が経った頃で、これからやっと自分なりの仕事ができそうだという手応えを感じていたからです。でもとりあえずその台詞はその場で飲み込んで、彼の赴任先の仕事の内容がどんなものなのか尋ねたりしました。
夫は気持ちとしては私について来てほしいけれど、私が仕事を頑張っているのも知ってるから無理にとは言わないというようなことを言っていたと思います。優しいけど、丸投げでもあります(笑)。私にも海外で仕事をしてみたいという気持ちがあったので、もし帯同する場合に私が現地で就職することは可能なのか夫に確認してもらいました。夫の会社では基本的にそういう想定ではないとのことでしたが、例外申請があると聞きました。
今の仕事を辞めて一緒について行って仕事をしてもいいかなと思いました。その当時私のいた会社では、家族の海外赴任による帯同で3年の休業が認められていましたが、副業は禁止だったので、帯同するなら現地で働きたい私は、つまり会社を辞める選択肢を取ることになります。折角入った大企業を数年で辞めてしまうことの残念さは、後からだんだん実感するのですが、この時はそれほど重要には思いませんでした。
夫の任期は3年の予定です。3年間ずっと離れ離れで暮らすのは寂しいことだなと考えて、帯同する方に気持ちが傾きました。ちなみにこの時27歳、世間からすると適齢期だったかもしれませんが、まだ子供を生むことは全く頭にありませんでした。
その頃私と夫はビジネススキル向上のために中小企業診断士の勉強をしていました。夫は赴任で勉強をやめるしかありませんでしたが、私は勉強を続けてその年の試験を受けようかなと思いました。正直仕事をしながらだと合格は厳しそうだったのですが、試験まで3ヶ月弱あったので仕事を辞めて勉強に打ち込めば何とかなりそうだなと考えたのです。
そう考えると、一気に帯同が魅力的に感じられました。仕事を辞めて、資格を取ってから夫を追いかける。海外で資格を生かした仕事をして独自のキャリアを築く。当時大企業にいた私には「自分にしかできない仕事」というのが日頃見えにくく、その点でとても素敵なプランのように感じました。夫に相談すると、それがいいと同意して喜んでくれました。
かくして私は、5月に夫を見送り、6月に退職し、数ヶ月勉強に打ち込み、なんとか8月・10月・12月と中小企業診断士の試験をパスして年明けに実習を受けて資格を取得し、一人で荷造りをしてマンションを引き払い、2月に夫がいる土地に向かいました。私は勉強、夫は慣れない土地と仕事、お互いに孤独な約10ヶ月でした。
第1回駐妻生活1年目~現地での就職と挫折~
私はやる気満々で新生活をスタートさせました。まずは生活の組み立て。夫は当地に来てから仕事に追われて全く自炊をしていなかったので、どこでどんな食料が買えるか知りませんでした。日本では一つのスーパーで済むような買い物も、当地では簡単にはいかず苦労しました。その頃は日本の食料もなかなか手に入らず、韓国系のスーパーに随分お世話になった記憶があります。
食料や必要な日用品がどこで売ってるかなど、1週間程度でなんとなく把握したので、私は現地の言語のレッスンを申し込み、就職活動も開始しました。折角時間があるからと、言語のレッスンは平日毎日2時間のものを受講しました。赴任や帯同にあたって現地の言葉は習得しない人も多いですが、私はこの時に得た語学力が今の生活にも活きています。
さて、引越から一ヶ月ほどたった頃、夫の会社の方々の奥様方が歓迎ランチ会の場を設けてくださりました。いわゆる奥様会です。私はそれまで駐妻という言葉を知らず、印象もほとんどなければ、下調べも全くしていませんでした。日本にいれば夫の上司と飲みの席で会うことはあっても、その奥様やご家族に会うようなことはなかったので、働くつもりだったし、あまり親しくするイメージはありませんでした。
ですので当時それなりに緊張して慎重にやりとりしていたものの、幹事の方から「○月○日12時から」と言われて、「語学のレッスンが12時までで、10分位でレストランに移動できそうなので12時15分からにしていただけませんか」とお願いしたところ「授業を早めに抜けることはできませんか?」と返された時は面食らいました。歓迎会の時間を動かさないことが語学の授業よりも重要だ、と暗に言われている気がして一気に気が重くなりました。
当日、仰せの通り早めに授業を抜け出してランチへ向かいました。時間ぴったりに到着したのに、私以外既に全員揃っていました。後から、渋滞にハマった時のため早く出るので、大体皆さん20分前~10分前くらいには到着されていると聞いて軽い衝撃を受けました。この頃の私には(仕事でもないのに渋滞で遅刻するくらい…)という気持ちがあったと思います。
また、会社員を辞めたばかりだった当時の私としては「ランチ会」と聞くと、まぁ1時間か1時間半くらいだろうと予想していたのですが、これは大ハズレで、レストランにはだいたい14時半くらいまでいて、そのあたりでお子さんがいらっしゃる方々が、幼稚園や学校からバスで子供が帰ってくるので、と言ってお帰りになりました。これでお開きかと思っていたら、残った面々に現地法人社長の奥様から「よかったらこの後、うちでお茶でも」とお誘いがかかり、ご自宅へ移動。結局16時過ぎ頃まで、お茶やお菓子をいただいて満腹で帰路につきました。
もちろん「○○は△△で買える」とか「語学レッスンを受けたお金は夫の会社がある程度補助してくれる」とか役に立つことをたくさん知ることができた会だったのですが、とにかくカルチャーショックを受けたとしか言いようがない疲労感でした。よくあんなに長い時間お喋りができるものだな…と思い、ついつい「拘束時間が長すぎる」みたいな言葉が脳裏をよぎりました。救いだったのは、こういうランチ会が定期的ではなく、歓送迎会の時だけだったということです。
就職活動は、当初人材紹介会社を通じて職を探しましたが、なかなかピンとくるものがなく、Webで自分のスキルが活かせそうな会社を見つけました。日本人が当地で起業したコンサル会社で、当時日本人の採用はしていませんでしたが履歴書を送って面談をしてもらったところ、採用してもらえることになりました。ビザも会社で取ってくれるとのことでした。
内定の連絡があってから、夫に帯同家族が働くことについての例外申請をお願いしました。夫はもとより私が働くことに賛成してくれていましたし、内定を喜んでくれました。しかし翌日「あの例外申請は前例がなく申請は受け付けられない」と言われたと帰ってきました。これも心の底からカルチャーショックでした。私がいた会社は外資系で、例外申請は従業員の権利であり、公表されている要件を満たした申請であれば上司は承認せざるを得なかったのです。だから私は例外申請の存在を聞いて安心して就職活動していました。夫も、現地法人のバックオフィスを担う先輩に事前に相談して申請を勧められていたということで、意外な対応だったそうです。
確かにその頃、夫と同じ会社でなくとも、駐妻が正社員として働いているというのは周辺で聞いたことがありませんでした。駐妻が働いているといえば、日本人向けの生活情報誌のライターのようなアルバイトをするか、手芸やソープカーヴィングといった教室を自宅で開くか、といった感じでした。とはいえ、例外申請さえ通せば大丈夫と思っていた私は、申請自体を拒まれたと知り、激しく落ち込みました。
なぜ申請してはいけないのか聞いてほしいと夫に頼みましたが、当時駐在員の中では一番若手だった夫は、あまり波風を立てたくなさそうでした。これが地味に辛かったです。自分の会社に文句を言うなら自分のやりたいようにやるまでですが、この場合相手は夫の会社です。「ここでコトを荒立てれば後々の出世にひびく」とかいう、ドラマで見るようなことが本当に起こる世界なのかもしれません。私の目からは夫の会社は前時代のもののように映っていました。じゃあ私は働けないのか?働けると思っていたから休暇も取れる会社をわざわざ辞めてまで来たのに?社内で公表されている例外申請を通せるものだと思いこんでいた私が悪かったんでしょうか?丸何日か、この考えが私の頭の中を堂々巡りしました。時には涙も出て、夫にもつらく当たったこともありました。
そして、極端な話、内定をくれた会社がビザも用意してくれるのだから、形式的に離婚すれば解決するんじゃないか?という気持ちになってきました。夫にそう伝えると「そこまでする?」と引かれました。でも、私にとっては「そこまでしたい」事態だったんです。
せっかくの大企業を数年というキャリアにもなっていない状態で辞めてきたんだし、資格も取りました。何より、周囲は「暇なんだったら昼間ヨガに行ったりマッサージに行ったりしたら?」というトーンでしたが、私は夫が働いている時間に夫のお金を使って遊ぶということに拒否感が強くて、楽しんでやれそうにありませんでした。(当時、出費の際に実際に使っていたのは自分の貯金でしたが、まぁ気持ちとして。)
やっぱり、仕事がしたい。そう思って、自分にはどうすることもできない夫の会社を動かすのは諦めて、働いても問題にならない形を探る方向にシフトしました。
内定をくれた会社の社長に事情を説明し「例えば社内的には普通の社員で、表向きにはインターンとさせてもらうことは可能ですか?」と尋ねました。現法社長の奥様から、「以前週2・3日でインターンをしていた方ならいた。インターン程度なら申請しなくてもいいだろうということになった」という話を聞いたからでした。
社長は「表向きにできないことを『どうにかして達成しよう』と道を見つける態度はコンサルに絶対必要な能力。是非やりましょう」と存外前向きに捉えてくださりました。表現はどうあれ「そんな面倒なことになるならお断り」と言われると思っていた私にとっては救いのような対応でしたし、今でも本当に感謝しています。
さて、夫の会社や奥様方に対して「インターン程度」を装うために私がやったことについて。
夫の会社は帯同家族向けにドライバーを用意してくれています。複数家族で共有するため、使えるのは週に2~3回です。ドライバーの勤務時間は9:00~17:00。内定が出た会社の定時は8:00~17:00だったのでフルタイムで働いていたらこの車が使えません。帯同家族の誰がどのような車の使い方をしているのかはドライバーから簡単に把握可能で、夫の会社や奥様方に共有されてしまうので、全く使わないわけにはいきませんでした。
そこで、車が使える週に2日は10:00~15:00の勤務にしてもらって、無理やり車を使いました。また、奥様会がある時には午後休を取ることを了承してもらいました。
本当にバカみたいな話ですが、私が働くために必要な調整でした。
無事に夫の会社や奥様には「インターンとして、社会勉強も兼ねて緩く働くことにしました~」と報告し、内定を出してくれた会社に入社しました。この時の私は希望に満ち溢れていました。「絶対にやりこなしてみせる。そのうちたくさんの駐妻が働きたくなるはずだから、前例を作ってやる」そんな風に思っていました。
私が就職した会社はいわゆる会計事務所で、日系企業が主な顧客でした。当時会計・税務だけではなく、日系企業に必要なサービスをワンストップで提供しようとしていた社長の意向で、現地法人などの設立を行う部署が立ち上がって軌道に乗ろうかというところでした。私はその部署のマネージャーを務めることになりました。マネージャーと言ってもチームの人数は3人から始まりましたが、私の人生で初めて部下ができた瞬間でした。この時28歳、元いた会社のチームでは一番下っ端でしたから、この経験だけでもかけがえのないものになりました。
仕事は非常にわかりやすく(顧客の希望にかなった仕様で法人を設立すればよいので)、当時のチームの既存のやり方には改善点がたくさんあることも感じたので、初めからとてもやりがいを感じましたし、手応えもありました。社長はたくさん仕事を取ってきてくれて、その仕事をこなすためならスタッフの採用も私の裁量でやらせてもらいました。マネージャーとしてチームがうまく回るような業務フローを考えたり、それまでやったことがないような仕事は今でも私の中で大きな財産になっています。
それまでの暮らしとは打って変わって、目まぐるしい充実した日々となりました。家から会社までバスを2つ乗り継いで1時間かけて通勤する必要があったので、夫よりも早く7時前に家を出ました。週に2日時短で勤務していたこともあり、その他の日は21時22時まで残業しました。自分が働いている実感を得てやっとネイルやスパに行きたくなったので、会社帰りに寄ったりしました。
それでも時短勤務の日は主婦らしく、15時に退勤した後はドライバーにスーパーや食料品店に寄ってもらって買い物をして帰り、できるだけ食事を作っていました。社長はワーカホリックで24時間いつでもメールが来るような環境だったので、家に帰ってからも仕事漬けでした。週2日時短勤務をしているという負い目もあって、土日も家で仕事をしていました。(この時夫はゴルフか、一緒に仕事をするか、という感じでした。)
奥様会がある時には午後休を取って参加し、「車がある日にインターンに行っています」と言って緩いインターン感の演出に励みました。ただもう奥様会ランチの時の流れは相変わらず優雅なもので、膨大なタスクを頭の中に抱えていた私は、目の前の光景と脳内のギャップにバッドトリップしそうな程でした。
数ヶ月経つと、だんだんとこの生活に無理が出てきました。仕事量が多すぎて、時短勤務の日も15時で帰れなくなってきました。そもそもは私もフルタイムで働きたいので、だんだんとドライバーを待たせたり、私は乗らずに帰らせたりするようになりました。奥様会も、タイミングが悪いことにちょうど人の出入りが多くなり、頻繁に開催されるようになっていて、バッドトリップしたくない私はしばしば欠席するようになりました。断るにも、出席するにも、毎回精神をかなり消耗しました。あまり忙しいとインターンの域を出ていると指摘されるのではないかという心配があったので「いや、インターンはそんなに忙しくないんですけどたまたま抜けられない用事と被っていて…」「責任とかは全然ないんで、気楽なもので…」現実とは正反対の話をして、「○○さん(私)はお忙しいから欠席でも仕方ないですよ…」という奥様方からの言も、フォローなのか?嫌味なのか?とドキドキしていました。
夫に食事を作るのもほとんどできなくなりました。本来は夫の生活を支えるために来ている身分なのに…と、当初は「夫も一人前の大人なんだからそんなことは考える必要はない」と思っていたはずのことでまで自分の中で揺らぐようになりました。
社長からアサインされる仕事は増えるばかり。期待に応えられていることの結果だったので嬉しくもありましたが、仕事・家庭・周囲との付き合い、それぞれあるべき姿との乖離に限界を感じるようになっていました。
そして一番辛かったのが、「仕事が忙しくて辛い」「ご飯が作れないのが辛い」「奥様会で暇なインターンを装うのが辛い」「時短勤務を守れなくて辛い」といったような気持ちを夫に相談できなかったことです。なぜなら、この状況は全て私が望んだことの結果だからです。そもそも私が働かなければ、全てしなくていい苦労だったからです。泣いてまで自分の希望を押し通してわがままを言って働いているのに、こんなことを夫に相談する資格はないと思っていました。
気がついたら私の顔は、ストレス性のニキビでボコボコになっていました。年末年始の休暇では夫と旅行に行きましたが、日程の半分を過ぎると休暇が明けるのが怖くてたまらなくなってしまいました。このままでは自分が壊れてしまう予感がして、休暇明けに社長に「今月末で辞めたい」と伝えました。心の底から悔しかったですが、限界でした。社長から了承が得られて初めて、夫に辛い気持ちを言うことができました。夫に会社を辞めると報告する時には、「あんなに働きたがったくせに」と嫌味の一つでも言われるかと思いましたが、何も言わずに受け止めてくれました。本心でどう思っていたかは、今もわかりません。
この地に来てちょうど一年、ある一人の駐妻が全く知らない土地で、思いっきり藻掻いて仕事をして、挫折をした一年でした。
第1回駐妻生活2年目~妊娠・出産~【前編】
激動の一年を終えて、またやることのない日々が始まりました。会社を一年も経たずに辞めてしまった申し訳なさから、会社のローカルスタッフが作成した日本語文書をレビューするオンラインでのボランティアをしながら、ジムに行ったりして次第に体調を整えていきました。
体調が整ってくるとまた、何かを始めたい気持ちになってきました。英語と現地語のレッスン、茶道同好会への参加、グラフィックデザインの教室へ通い始めました。それらの場で知り合った友人と出かけたりと、にわかに駐妻らしい生活になりました。
私はそれまであまり具体的に考えていなかった「子供を持つこと」について考えるようになっていました。今までは仕事の優先度が高くて具体的に考えてきませんでしたが、これを機に子供を持つのがいいかもしれないと思い立ったのです。それもどちらかというと、夫の任期3年を考えると今妊娠出産しておけば、夫が本帰国になった時に私も無駄な期間なく仕事が始められるから、といった仕事基準の考えでした。ただ、いつかは子供を持つのかなとイメージしていたので、今が正にその時なのではと思い、夫とも話し合って妊活することにしました。
幸い比較的すぐに赤ちゃんを授かりました。経過は順調でしたが、つわりをはじめとしたマイナートラブルが多く、折角始めた色んな習い事は行けたり行けなかったりになりました。日本語レビューのボランティアも体調不良をきっかけに終了することになりました。外出すると、路上の臭いがキツいので一日中家にいることもしばしばでした。私の頭の中には、出産・育児の不安ももちろん大きくありましたが、再びキャリアが途切れてしまった状態で、しかも今後は子供がいる自分に、一体どういう仕事ができるのか悶々と悩む日々でもありました。
前職があんな辞め方になってしまった以上、当地にいる間はもう同じような働き方はできないと考えていました。Web上で完結する作業系の仕事も探して試しに少しやってみたりしましたが、自分のキャリアのイメージとは少し違っていたので候補から外れていきました。
では当地で駐妻である私が生き生きと働くにはどうすればいいか。
ふと、自宅でお教室を開いている方々のことを思い出しました。自分のペースで教室を開いて、会社勤めほどはいかないかもしれないけどコンスタントな収入があるのはとてもいいなと思いました。ターゲットは当地に住む駐妻なのでとても少ないですが、どんな教室でも競合はほとんどいないので良い経験になるかもしれない。しかし私には人に教えられるレベルのスキルはありません。子供時代から、裕福ではないにも関わらずたくさん習い事をさせてもらっていた身でしたが、この時ほど、一つくらい人に教えられる程度まで極めておけばよかったと後悔したことはありませんでした。
しかし、今からスキルをつけるという手もあるはずです。私は、出産と産後の一時帰国の期間中に、なんとか教室を開けるレベルのスキルを身につけることができないかと考え始めました。
今回はここまでにします。
次回以降は以下のような構成でお送りする予定でおります。
第1回駐妻生活2年目~妊娠・出産~【後編】
第1回本帰国生活1・2年目~ワーママ始動編~
第1回本帰国生活3年目~ワーママ転職編~
第2回駐妻生活1年目~リモートワークと妊娠・出産編~
第2回駐妻生活2年目~育休・そしてこれから…!編~
もしあなたの琴線に触れたならば、♥いただけると嬉しいです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?