渇望するのは悪いことなのか?欲をコントロールする?
こんにちは。万城目瞬<@0q_xney>です。
フォトグラファーとして活動したり、Webメディア「DopeZine」や写真コミュニティ「DopeZineLab」の運営を行っています。
このnoteでは、私の興味や思考を文章として皆様に共有していきます。
まえがき
ここ2年くらいは欲望を捨て去ってきた期間で特に何も欲しく無いし、むしろ捨て去ったほうが気持ちがいいみたいな生活を送ってきて、今は色々手にしたり、縁があったりして多くのものを手にした気がする。
その中で得ることに対しての欲望みたいなものが自分の中に湧いてきて、欲望の中でも渇望に当たるものがめちゃくちゃだなと感じている。この記事はそんな渇望を整理してみる。
渇望して欲するもの
渇望とはどんなものなのかというと、辞書的にはこんな意味である。
《名・ス他》のどのかわいた人が水をほしがるように、心から願望すること。待ちこがれること。
身体的、精神的に足りないものを欲するときに、必死に得たいと願うことが渇望らしい。
喉が渇いたら水がほしいというけど、現代日本にいれば水は飲めるし、どちらというと身体的なものよりも精神的な渇望が多いのだろうか。
例えば、寂しさからくる人間関係だったり、お金だったりするかもしれない。
渇望するためには一度得る必要がある
渇望するためには、一度得ることが必要なのかと考えている。
例えばジャグジー付きのお風呂やキングサイズのベッドが付いている大豪邸に住みたいと思うことはあるかもしれないけれど、それは願望であって渇望ではない。
それよりも今住んでいる部屋を追い出されて、路上生活を余儀なくされたときに望む屋根付きのワンルームの渇望感は異常だと思う。
まずは衣食住という一般的なライフラインという基本的にみんな持っているものを失ったりするときは当然のように渇望する。
人が次に大事にしているのは、人間関係やお金といったもの。これらは不要な人もいるかもしれないが、ほとんどの人にとってはなくてはならなものだと考える。
お金はあっても損はしないし、無ければ自分の活動範囲を狭めてしまう。お金持ちの人がお金を失ったときに、もともとの生活に戻れないことも渇望の一種。
人間関係についても同様。恋人や友人などと離れていくことは人にとってはなによりも耐え難い渇望感を生んでいく。
このように、渇望するためには一度得たものを失うことが必要。人間は簡単に物や縁を捨てられないし、無意識のうちに所有し当たり前にしていく。
その結果、もともとなかった絶望感や渇望感を生んでいくのだろう。
恋人と会いたいと思うのも渇望、友達と遊びたいというもの渇望、写真家にとっては写真が撮りたいっていうのも渇望になりうる。
渇望するときには余裕がある
私は2年前ほどに自分の持ちうるものを失ったので、自分の持ち物を省みる機会を得たことがある。
人間関係や物を失って、気づいたことが失ったその時は必要に感じられなかったものが多くあるということ。多分渇望する余裕もなく、望むよりも行動することしか目を向けられなかったこともあるけど。
渇望するときは、ある程度余裕があるときなのではないか。必死になっているときは望むことはしないし、必死になるしかない。
渇望しているということは、得ることが出来る心の余裕がまだあるということ。
その心の余裕を埋めるために求めてしまう。
ひとそれぞれ心から求める願望っていうのは違うし、どれがファクターになっているのも持っているときは理解できない。失ったり心がすっぽり空いたときにこそ、理解できるものなのではないか。
捨てる、空白を楽しむ
現代ではミニマリストといった物を持たない人や、一人で生きている人も多く見かける。
そういった人でも、心の空白があるから、渇望することはあるのかもしれない。それでもそういう生き方を楽しんでいることはいいことなのかもしれない。
世間一般的にみて当たり前のハードルは存在はするけど、そのハードルを必ずしも満たす必要はない。むしろ当たり前のもので埋め尽くされたものこそ窮屈かもしれない。
必要なものを見極めて不要なものは捨てる、なくてもその空白を楽しめる心の余裕が欲しくある。
一喜一憂を楽しむのも悪くない
渇望することを悪く言うつもりは全く無くて、むしろ人間らしくていいなと思っている。その感情で人を傷つけることは良くないことであるけど。
無感情に無機質に人生を攻略することで得るものも多いけれど、自分の感情と向き合いながら一喜一憂するのも一興かなと思う。
仕事一筋でやってきたけれど、それだけじゃ人生を楽しむには狭すぎる。心の許容範囲が増えて、心の余裕が生まれやすい状態なんだと思う。これも一種の渇望状態。
お金稼ぎやビジネスだけではない、人間関係や体験を楽しんでいけばいい。
自分が渇望するものこそ、自分の大切なものだったり自分の興味そのものだったりするのもしれない。