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中国の旅 #9

アカシヤの大連  2016年

 大連市内に戻って、まず訪れたのは旧満鉄本社ビルだった。満鉄、正確には南満州鉄道株式会社は単なる鉄道会社ではなく、半官半民の国策企業で、学校や病院や遊園地までも経営していた。ほとんど大連における日本政府だったと言ってもいい存在だった。この本社ビルは、ダーリニー時代のロシアが商業学校にしようとしていた建物を満鉄の日本人建築家が増改築したものだったが、いかにも満鉄の中枢部に相応しい立派な建築だった。現在では、旧満鉄の歴史資料館として利用されている。玄関などの外観はかなりくたびれているが、内部はちゃんと修復されているようで、当時のままだというシャンデリアがあり、修復された、壁の漆喰や金メッキの装飾も豪華だった。

 同行した母娘のお母さんの父親は満鉄の職員だったそうだ。だから、感慨もひとしおだったのだろう。館内の豪華な大広間に当時の写真や資料類の展示があり、日本語に堪能な中国人女性の学芸員が説明してくれたが、とても興味深そうに聞いておられた。次に、総裁室に案内された。ここも、天井の高い立派な部屋だ。壁に、初代総裁後藤新平以下の歴代総裁の写真が飾ってあった。後藤新平は、台湾総督府の民政長官としての実績が評価されて初代の満鉄総裁に抜擢された人物だが、その後、外務大臣や鉄道員総裁、東京市長などを歴任し、関東大震災直後には、復興院の総裁として復興事業に尽力した。その時の後藤新平の構想が実現していれば、東京はパリに匹敵するような美しい都市になっていただろうと言われている。たぶん、ここ大連での経験が後藤の発想の下地になったのだろう。なお、思想家の鶴見俊輔さんは、この後藤新平の孫だった。私は、後藤新平は歴代の官僚、政治家として第一級の人物だったと思っている。今、こういう人物が日本にいて、例えば東京五輪の総責任者になっていれば、なんて考えてしまった。(今なら、コロナ対策大臣ですね。)

 二代目の総裁が中村是公だった。親友の夏目漱石を満州に招待した人物だ。大連は日本が中国から租借した関東州の行政上の中心地であって、厳密に言うと満州ではないが、満州への入口として、ほとんど満州と同一視されていた。悪い癖で、ついつい知ったかぶりをする私は、総裁室で中村是公の写真を見た時、この部屋に漱石も来たんですよと思わず言ってしまった。家内も母娘も「へえ~」と感心してくれたが、後で心配になってきた。漱石は確かにこの部屋に来たのか?

 帰国後に調べてみた。夏目漱石は、その人生が最も克明に研究されている作家だ。何年何月何日に何をしたか、自身の日記や作品や友人知人の残した記録類からすべてが割り出されて、「漱石研究年表」という本になっている。それによると、漱石が大連に来たのは、明治42年(1909年)9月6日のことだった。帰国後に書いた旅行記「満韓ところどころ」は、こんな文章で始まる。

 「南満鉄道会社っていったい何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆れた顔をして、御前もよっぽど馬鹿だなあと云った。是公から馬鹿と云われたって怖くもなんともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、どうだ今度いっしょに連れてってやろうかと云い出した。」

 いかにも漱石らしい、生き生きした文章ですね。その後、漱石は重い胃病にかかって、是公に一足遅れて大連に行くことになる。大阪から鉄嶺丸という船に乗って、門司港経由で大連に着いた。大連では、満鉄経営のヤマトホテルに宿泊するが、その近くにあった満鉄総裁公邸で是公と会っている。あれ、満鉄本社には行っていないのか?いえいえ、旅順から戻ってから、満鉄本社にはちゃんと行っていた。それどころか、私たちが説明を聞いた部屋だと思われる、満鉄高級社員の食堂で食事までしていた。きっと総裁室にも入ったに違いない。というわけで、一安心。この満鉄本社の建物が完成したのは、漱石が訪問する一年前だから、まだピカピカの建物だったろう。その後、漱石は満州各地を巡り、朝鮮半島の京城を経て、釜山から船で帰国した。

 余談だが、漱石が乗船した鉄嶺丸には、その直後に伊藤博文が門司港から乗船した。大連から満州に向かった伊藤は、ハルピンで朝鮮人の安重根に狙撃され死亡する。その時、既に帰国していた漱石は、「満韓ところどころ」を発表している最中だった。伊藤に批判的だった漱石だが、自分と同じ行程をたどった伊藤の死には感慨を覚えたようだ。安重根は、その後、旅順の刑務所で死刑になった。

 当初の予定にはなかったのだが、同行のお母さんが産まれた病院だという、旧満鉄経営の「大連医院」に車を回すことになった。現在でも大連最大の総合病院であるこの病院では、日本統治時代に、なんと20万人もの日本人が産まれたそうだ。今は、「大連大学付属中山医院」という名称になっていた。実に立派な建物だった。設計はアメリカの建設会社だったという。ご父君が満鉄の高級技術者だった清岡卓行さんも、たぶんこの病院で産まれたんだろうと思うと、私にも感慨があった。

 いよいよ次は、大連の象徴である「中山広場」の見物だ。ロシア人が構想し、日本人が完成させた「東洋のパリ」の円形広場である。広場から10本の道路が放射状に伸びていて、その道路に区切られた広場に面した街区ごとに、広場を囲むように、「大連民政署」「朝鮮銀行大連支店」「関東逓信局」「横浜正金銀行大連支店」「東洋拓殖大連支店」「大連市役所」「大連ヤマトホテル」などの豪華な洋風建築が建てられた。用途は変わっても、それらの建物の多くがまだ現役であるということが、この大連が建築ファンの聖地の一つになった理由だ。当時の写真を見ると、これらの風格ある建物は周囲を圧しているが、現在では、背景の高層ビルと比較すると可憐にさえ見えた。

 あこがれの「大連ヤマトホテル」の内部に入ることになった。ルネサンス様式の豪華な建築だ。現在では、「大連賓館」というホテルになっている。大理石を敷き詰めた贅沢なロビーの壁に、昔の中山広場の写真が飾られていた。私たちは、古めかしいエレベーターに乗って、二階の喫茶室へ案内された。ここで珈琲を飲んで、休憩するようだ。クラシックな雰囲気の喫茶室の窓からは、バルコニー越しに「中山広場」がよく見えた。素晴らしい眺めだった。昔もここは談話室かなにかだったんだろうか。ここで半日ゆっくりと読書でもできたら良いなと思った。(この喫茶室、入口はアルサロ風で、あまり上品ではない。部屋のテレビでは、どういうわけか、日本の大相撲が放送中だった。)

 その後、ホテルの人に館内を案内してもらった。さすがに、迎賓館として建設されたヤマトホテルらしい空間だった。かつては、大連を訪れた重要人物はみんなここを訪れたようだ。でも、真偽不明だが、あの歴史的な日中国交回復を演出した田中角栄と周恩来首相が、北京で正式に調印する前に、ここで会合を開いていたという説明には驚いた。宴会場やゲストルームも見せてくれた。この部屋は、あのラスト・エンペラー、溥儀夫妻が宿泊した部屋だったというのは本当かな?狭すぎると思うが。溥儀さんは、ホテルの裏にあったゴルフのミニコースでゴルフをしていたそうだ。ゴルフクラブが保存されていた。

 最後に訪れたのは「ロシア風情街」だった。すでに昨日、大連に来て初めて歩いたところだ。今では一本の通りだけが観光地になっているが、このあたり一帯は、ロシアのダーリニー時代に行政機関が集まった市街地だった。「中山広場」などのヨーロッパ市街は、まだ構想だけだった。ロシア人たちは、まさか日本軍がここまでは来ないだろうと安心していたようだ。金州が落ち、南山要塞も陥落してパニックになったロシア人たちは、一夜の内にこの地を捨てて旅順に避難した。江戸城の無血開城のようなものだ。日本軍は、ダーリニー(後の大連)の街を、無傷で受け継いだ。

 この「ロシア風情街」の奥にあるロータリーの前に、塀で囲まれて、今では廃墟のようになった大きな建物があった。この建物こそが、大連の歴史を象徴する建物だ。ロシアにおける満鉄のような国策会社だった東清鉄道の事務所として建てられた後、ダーリニー市役所になり、日本軍に接収されてからは関東軍が一時使用し、満鉄本社になり大連ヤマトホテルになり、大連医院になり、満州資源館、大連自然博物館というように変遷してきた。漱石が宿泊したヤマトホテルはこの建物である。中山広場の建物は当時まだ建設中だった。更に言うと、清岡卓行さんが産まれた時の大連医院は、この建物にあったのかもしれない。というように、大連を象徴する貴重な建物なのに、現在、廃墟のようになっているのはどうしてなんだろうか。ぜひとも改修復元して、観光客に開放して欲しいものだ。なお、他の「ロシア風情街」にある建物は、ほとんどがレプリカで、建築的には大して重要じゃないようだ。ロシア風の土産物屋が並んでいたが、特にロシア人観光客がいるようにも見えなかった。

 第三日目。この日は、「日本人の足跡をたどる 大連歴史散歩」の半日ツアーに参加した。参加者は私たち夫婦だけ。それに、いつもの運転手とガイドが案内してくれた。あの母娘はこの日に帰国するというので、朝食の時に挨拶を済ませた。でも、とうとう名前を聞かなかった。岡山から来られたということだけ。でも、それでいいか。大連に着いた日に、この5月22日の日曜日には、「大連国際マラソン」があると聞いていた。だから、ツアーの予定コースに変更があるかもしれない。朝食を終えて部屋に戻った後、ツアーの出発までに少し時間があったので、テレビで大連マラソンの中継を見た。どうも、朝早くから出発しているらしい。マラソンに関する情報は何もなかったので、どういうコースで走るのかも知らなかったのだが、テレビでは、「星海広場」あたりを走っているようだった。

 帰国してから、日本人でこのマラソン大会に参加した方のブログを見つけたので読んでみた。この大会は29回目で、中国では歴史のある大会だそうだ。フルマラソン、ハーフマラソン、ミニマラソンがあり、海外からの参加者を含めて、3万人くらいが走ったようだった。大連港をスタートして、「中山広場」などの市街地を西に走り、海辺の観光地である「星海広場」を周回して、往路とは違った道路を東に走って大連港に帰るという、横に細長いコースだった。テレビで見る限り、美しい街路樹に挟まれた道路が多くて、走りやすそうな感じだった。この方のブログによると、道路の各所に、距離表示の看板を掲げた大連美女が立っていたのが、走り続けるモチベーションを高めてくれたそうだ。しかも快晴でよかった。

 さて、本題に戻ろう。私たちの半日ツアーは、徒歩で、勝利橋(旧日本橋)から始まった。そこから、かつて「浪速町」と呼ばれた繁華街、天津街あたりまで歩いた。私たちが既に何度か歩いた場所だ。発見はなかった。そこで、「この辺りに大きな本屋さんはありませんか?」とガイドに尋ねた。私は毎日のように本屋に寄るのが習慣になっている人間なので、大連でも本屋に行きたいと思っていたのだ。「本屋なら、大連で一番大きいのがそこにあるよ。」と言って、ガイドさんは私たちを案内してくれた。こんな時、参加者は私たち二人だけだから、融通がきく。その本屋で珍しい体験をした。この本屋は、たぶん日本統治時代からあるものだと思うが、古いビル全体が書店になっていた。入口を入ってすぐに、係の女性が何か言いった。ガイドによると、カバンの中に本がないかと尋ねたそうだ。私は、ショルダーバックの中に、大連観光案内の「タビトモ」を入れていたので、思わず出してしまった。すると、その本が没収されて、なにやら預かり証のような札をくれた。ちょっと驚いたが、そのまま階上の地図売場へ行って、大連の市街地図を買った。帰りは、家内が一階のカウンターで本の料金を支払っている間、私はその預かり札を見せて本を返してもらい、今度は、家内と一緒に出口専用の玄関に行って、バッグを空港にあるようなX線検査の機械に通してからようやく店を出ることができた。万引き防止のためなのだろうが、なんとも厳重なシステムだった。驚いた。中国では本を買うのも大変だ。北京や上海ではこんな事はなかったと思うのだが。

 ようやく車に乗って、まず向かったのは大連港方面だった。今回のマラソン大会の出発と終着地点になっていたので、港に行く事はできなかったのだが、港に近い「港湾広場」には行くことができた。かつての日本時代には「東広場」と呼ばれていた。ここには「大連銀行」の建物があった。かつて大豆などの取引をする「大連取引所」だった立派な建物だ。昨日のレトロ建築探訪の続きのようだったが、ちょっと内部を見物した。受付の男性が胡散臭そうに見ていたが、内部も格調の高いものだった。昔の大連港の写真を見ると、なにやら重そうな円盤を何枚も背負った中国人クーリーが映っている。その円盤は豆粕の固まりで、大連の主要な輸出品のひとつだった。ゴール地点に近いせいだろう。走り終えたランナーたちが多数、周辺を歩いていた。ランニングの愛好者は世界中にいる。それにしても、中国人は紅い色が好きだ。赤いランニングウエアが目立った。


 次に、大連駅に近い「連鎖街」へ行った。井上ひさしさんの戯曲の舞台になった町だ。「連鎖街」は、大連駅の移転新築を機会につくられたショッピング・モールである。一階が店舗、二、三階が住宅になった建物が通りに面して鎖のように配置されたので、「連鎖街」と呼ばれたそうだ。(なお、ガイドは歴史的な知識は皆無で、ただ私たちを案内してくれただけなので、これらの情報は全て、参考書を読んで私がまとめたものだ。)「連鎖街」の中には映画館や公衆浴場もあり、それ自体でひとつの町だった。当時、「連鎖街」と三越などのあるその周辺は、東京の銀座にも負けないお洒落な街として有名だったそうで、大連では浪速町につぐ繁華街だった。現在の「連鎖街」は、かなりくたびれたスラム状態になっているが、工具類を売る店や飲食店が並んで、活気はあるようだった。でも、駅前の一等地だから、再開発の話があるようだ。でも、中国と言えども、居住者の権利関係がからんで、立ち退き交渉が大変なようだというのはガイドの説明。

 大連が発展するにつれて、日本からも中国各地からも人々が押し寄せて、大連は大変な住宅不足になった。満鉄などは社員用にさまざまな住宅を用意したようだが、それ以外の人たちのために、大連ではたくさん市営住宅が建てられた。そんな住宅地の二カ所に案内してくれた。まずは、「東関街」。かつては「西崗街」と呼ばれていた地区らしい。(ガイドの説明がなかったので、よくわからない。)レンガ造りの低層アパートのような建物がかなりの数、密集している地区だが、どうやら区画整理事業が既に始まっているようだ。まもなく取り壊されるのだろう。それでも、路面電車の駅があり、大連駅にも近くて便利な地区なので、今でも住んでいる人がいるということだった。

 もうひとつの住宅街は「鳳鳴街」。オリンピック広場に近く、すぐ横に「恒隆広場」という超モダンなショッピング・センターがある地域の住宅地だった。ここも、半ば廃墟になっていたが、まだ住人がいた。ヴォーリズや西村伊作が設計しそうな住宅が建ち並び、街路も幅広く、庭木も茂っていて、ちゃんと手を入れれば、立派な住宅地なのになあと残念に思った。ここも、いずれは再開発されるんだろう。

 次は人民広場。広大な芝生の周囲にクラシックな建物がいくつか立っている。大連市の中枢である。大連市政府の庁舎は、かつて関東州の庁舎だった。ほぼ、そのまま今も使っているそうだ。近くには東大の安田講堂にそっくりだと言われる裁判所の建物もあった。ガイドブックによると、ここには婦人騎馬警官が時々出現して、観光名所になっているそうなのだが、この日は、マラソンの警備に動員されていたようだ。先ほどの日本人ランナーのブログ記事に、彼女たちの写真が写っていた。とても格好良い。婦人騎馬警官になるのは難しいんだろうね。

 かつて「中央公園」と呼ばれた「労働公園」にも行った。ガイドに、好きなだけ散歩してくださいと言われたが、地図もないし、疲れているので、テニスコートを見ただけで出てきた。この公園にはかつて野球場があったそうだ。大連には有名なノンプロの野球チームが二つあって、その対抗戦の時には、大連市民あげて応援に来たという。清岡卓行さんは、大学を出てから、一時、プロ野球セリーグの事務局に勤めたほどの野球ファンだが、野球への愛は、この大連時代に生まれたものなのだろう。現在、野球場はないが、遊園地があるようだ。テレビ塔も建っていた。私は見ていないが、巨大なサッカーボールのモニュメントが、この公園のシンボルだ。大連はサッカーの盛んな街だと聞いた。

 ひととおり見物を終えて、昼食の時間になった。「労働公園」を早く出てきたので、予定よりも少し早かったようだ。昼食の場所は、先程訪れた「港湾広場」に近い、「大清花餃子」という店だった。ガイドブックにも載っている餃子の名店である。ガイドが先に二階に上がっておいてくれというので、二人で先に席に着いた。まだ早かったので、他に客はいない。(すぐに満席になった。)ウエイトレスが注文を聞きにきた。この時とっさに、「下の階にいるガイドが注文しています。」という、私としては難易度が高い中国語がスラスラと口から出てきて、しかもそれが通じたという事は、今回の旅行を通じて最も嬉しい出来事のひとつだった。何年間も中国語教室に通っていてよかったと思った。料理の方は、さすがに有名店で、様々な種類の餃子だけではなく、とても美味しいものだった。量が多すぎて、たくさん食べ残したのが残念だ。この日のツアーはこれで終了。ホテルに帰った私たちは、午後はちょっとホテルの周囲を散歩しただけで、大人しく部屋で休憩した。夕食も、ホテル内の日本料理店で済ませた。先程の件で中国語に自信がついたのだが、心身ともに疲れた。部屋では、日本の放送局の電波が何局も入るので、まるで日本にいるような気分だった。

 翌日は、いよいよ最終日。午前10時45分にロビーに集合ということだったので、朝食の後、「中山公園」まで散歩して、最後の大連を楽しむことにした。この旅行の当時、私たち夫婦は太極拳を習っていた。(家内は今も習っていて初段だ。私はやめた。)できれば、広場で本場の太極拳が見られたらという期待があったのだが、私たちが行った時には、どこかのレストランの従業員らしいグループが朝のミーティングをしているだけだった。 帰りに、家内がどこかスーパーマーケットがあれば入りたいと言い出した。そう言えば、大連に来てから、コンビニには入ったが、スーパーには入っていない。たまたま天津街の地下でスーパー(超市)を見つけたので入ってみた。まだ準備中のようだったが、新鮮そうな野菜や果物や魚があった。スーパーを出てしばらく歩くと、りんごなどが入ったビニール袋をさげた人たちがたくさん歩いているのに出会った。みんな、同じ方角からやって来る。向こうに何か大きな市場があるようだと、そちらの方へ行ってみた。朝市を発見した。とても賑わっている。野菜や果物や魚や、なにやら気持ちの悪い生き物まで、まるで香港の朝と変わらない光景だった。旅はこれでないと。旅の最後になって、やっと大連の庶民の生活に触れたような気がした。でも残念ながら、もう出発の時間が迫っていた。知らない内にホテルから相当遠くまで来てしまったようだ。

 ホテルから車で送ってもらった空港までの道中は、何事もなくスムーズだった。都心から空港まで距離はさほどない。大連空港は、大きすぎず小さすぎず、清潔な空港だったが、空港に着いてから搭乗までの時間がありすぎて、少々退屈した。今回はガイドブックだけで、読書用の本を持ってこなかったのが失敗だった。土産物も買わなかったし。私たちは午後2時15分発の全日空便で関西空港に向けて飛び立ち、その2時間半ちょっと後には、もう関空に着いていた。宍道湖や小豆島など、下界の景色もよく見えたし、快適なフライトだった。今回の「あこがれの大連」の旅は、ほぼ満足の行くものだった。同行してくれた家内に感謝だ。今回は私の趣味もあって、主に昔の大連を探訪する旅だったが、次回、もし機会があれば、今度は地下鉄にも乗って、現代の新しい大連の街を楽しみたいと思う。「星海公園」や「星海広場」にもぜひ行きたい。あの「星海湾大橋」を自転車か徒歩で渡るのもいいかもしれない。再見!「アカシヤの大連」。

 付録:清岡卓行と大連

 今回の旅で出会った母娘から、どうして大連に来たいと思ったのかと尋ねられた時、清岡卓行さんの「アカシヤの大連」を読んで感動したからだと答えた。母娘がこの小説のことを知らなかったので、次のように、簡単に小説の内容を説明した。「清岡さんは詩人として知られていましたが、奥さんを亡くしたことをきっかけに小説を書き始めます。その二作目が、芥川賞を受賞した「アカシヤの大連」でした。大連は二人の故郷でもあります。終戦直後の大連で二人は出会いました。この大連での若き日々を回想したのがこの小説ですが、結局、アカシヤの甘い香りは、奥さんそのものの象徴だったんですね。まあ、そんなことを書いた小説です。」

 ずいぶんいい加減な説明だが、全く間違っているわけでもない。清岡卓行は大正11年に大連で生まれた。父親は満鉄の高級技術者だった。9人も子供がいる大家族だった。大連一中に在学中に日中戦争が起こって戦時色が強くなるが、大連はまだ平和だった。旅順高校に進学するもフランス文学者を目指して退学、東京の一高に進む。続いて、東大の仏文科に進学した。昭和19年のことだった。その前年の徴兵検査に不合格になっている。実際は違ったのに結核を疑われたという。戦争で死ぬ前に故郷を見たいと大連に帰郷中に敗戦の時を迎えた。姉婿たち一族が満鉄の高級技術者だったため帰国を認められず、一家はソ連兵に接収された家で間借りのように暮らしながら、戦後の三年間を大連で過ごす。でも、そんな日々の中で、清岡さんは妻になる女性と知り合い結婚した。その女性もまた、帰国せずに大連に残っていたのだ。

 新妻とともに日本に帰国したのは昭和23年(1948年)のことだった。東大に復学した清岡さんはほとんど授業には出ずに生活費を稼ぐ日々だった。セリーグの事務局に勤めながら詩や映画評論を書いて、少しずつ名前を知られるようになる。大学の非常勤講師をすることにもなった。専任の大学教師になって詩集も出版し、ようやく一息ついた頃に最愛の奥さんを亡くした。清岡さん46歳の時だった。翌年、小説を書き始める。奥さんのいない寂寞とした日常を描いた「朝の悲しみ」という小説だった。二作目が「アカシヤの大連」である。この小説で芥川賞を受賞した。

 今回の旅行の前に、数十年ぶりに「アカシヤの大連」を読み返した。でも、この講談社文芸文庫版の「アカシヤの大連」は、私がかつて読んだ文庫本とは別物だった。どうやら、私が読んだのは、いわゆる「大連四部作」と呼ばれるものだったようだ。そこには、帰国後の夫婦と、生まれてきた長男の生活を描いた小説も含まれていた。文芸文庫版には、四部作の最初の二作だけが収録されていた。私はカットされた小説も好きだったので、残念だ。古い文庫本は、この文芸文庫版を買った際に、同じものだと思って処分してしまった。でも、この文芸文庫版には、それ独自の魅力があった。清岡さんはその後再婚して新しい生活を始めるのだが、1982年に日本作家団の一員として中国に招待され、その時、個人的に大連への帰郷を果たした。その時の体験を書いた「大連小景集」が、この文庫本には収録されていたのだ。34年後に故郷を訪れた清岡さんの心の揺れがかいま見える文章の数々は実に感慨深いものだったが、考えてみると、その再訪の時からも既に34年の時間が経っている。(現在は、さらに5年が経った。)清岡さんが再訪した大連は、現在の大連とは別物だったかも知れない。今回の旅で、清岡さんが生まれ育った、満鉄社員のための高級住宅街である南山街一帯を車で何度か通ったが、その近辺は今でも緑豊かな高級住宅街だった。でも、当時の建物はほとんど残っていないようだ。もし機会があれば、今度は徒歩で、南山街あたりを散策したいものだと思う。「アカシヤの大連」を手に。

    
     


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