中国の旅 #6
2度目の北京 2011年
沖縄あたりで停滞していた台風15号が、ようやく本土をめざして北上を開始し、我々の住む近畿地方に最接近する時間帯が、まさに、我々の北京行きの飛行機が離陸を予定している頃だった。この分だと欠航するかもしれない。我々は、暗い気分で当日の朝を迎えた。空港での集合時間は午前8時。6時前に目が覚めた我々は、テレビで台風の進路を確認した。どうやら東海方面に上陸しそうだ。近畿直撃はない。外は雨だが、風はさほど強くない。中部空港発着の飛行機は欠航になるようだが、関空の話題はなかった。これなら、飛行機はちゃんと飛べるだろう。そして事実、我々の飛行機は、なにごともなかったように、予定通り関空を飛び立ったのである。今回の20年ぶりの北京旅行は、こうして始まった。3泊4日の旅は晴天に恵まれた。秋の北京上空には、ひとつの雲もなかった。今回、我々が参加したのは、日本旅行が募集していた「夏のイチ押し 観る味る北京4日」というパッケージツアーである。慣れない中国だからと、ガイドと食事がついているコースを選んだのだが、北京首都空港に着くまで、今回のツアー参加者が我々二人だけだとは知らなかった。今回の旅は、専用のドライバーとガイド付きの、贅沢な夫婦二人旅になった。これも、平日に旅ができる定年退職者の特権だったのかもしれない。
大阪から北京までは、ソウル上空を経由して、約3時間の飛行である。ソウルとは違って、時差が1時間あるから、北京に着陸したのは現地時間の午後零時半頃だった。昼食は機内食ですませた。北京五輪を機に整備された首都国際空港は、ピカピカの巨大空港である。旅客数では世界第二の規模だそうだ。年間7千万人以上が利用する。意外なことに、管理運営は民営企業が行っているという。空港には3つターミナルがあって、我々が利用したのはターミナル3である。このターミナル3自体が3つの建物でできていて、それぞれの建物は、自動運転のシャトル電車でつながれている。我々もそれに乗ったが、関空のものとは較べものにならない本格的なものだった。ターミナルの設計は、イギリスの世界的な建築家ノーマン・フォスターだそうだ。さすがに素晴らしい建築だった。この空港を観ただけで、現在の中国の国としての勢いと豊かさを実感した。
最初の訪問地である天壇公園に向かう前に、今回の4日間の旅行中、我々をガイドしてくれた任春傑さんを紹介しておこう。小柄で、中国人には珍しく、小さな声で話す若者(といっても40才近いと思われる。)で、服装には無頓着な真面目な人物だった。ガイドになる前は、政府の機関で働いていたそうだ。日本語はとても流暢なのに、日本には一度も行ったことがないという。文革世代かややその後くらいの彼が若い頃には、普通の中国人が日本へ行く事は、とてもハードルが高かったのである。ドライバー君の名前を聞くのを忘れてしまったが、丸刈りで、サングラスなどをかけていると、ちょっと近寄りがたい雰囲気だが、笑うと可愛い好青年だった。彼のドライブテクニックは実に驚異的だった。どんどん車線変更して、他の車を追い越してしまうのだが、乗っている我々に、不安な気持ちを一切抱かせないのだった。今回のツアーは、現地スタッフに恵まれたと言えるだろう。
さて、天壇公園だ。ここには、20年前の旅行の時に夫婦で来ていた。ガイドなしの自由行動の時である。以前にも書いたが、ホテルから地下鉄で前門へ出て、そこから歩いた。北京の市街図を見ると、歩けそうな距離に思えたのである。しかし、それは大きな間違いだった。歩いても歩いても着かない。歩き疲れた我々は、あやうく夫婦げんかを始めるところだった。今回は車である。しかも、我々専用のガイドが付いていた。チケットも買ってくれる。なんとも楽ちんだった。天壇公園は、北京にいくつかある世界遺産のひとつである。いかにも中国らしく、規模が大きい。その役割から言えば、北京の街中に伊勢神宮があるという感じである。明清朝の皇帝たちは、毎年ここで天に祈った。そのせいか、チケット売場がある、門の前の広場には、中国各地からやって来たと見える観光客の団体がひしめいていた。旗を持ったガイドが先頭に立って統率しているのは、日本でもおなじみの光景だ。ただ、やたらと賑やかだった。我々は南門から入った。なにしろ20年ぶりに訪れるので、それに気づくのが遅れた。中に入って、圓丘壇や木造の円形建物「皇穹宇」をあおぎ観た時、あれ?記憶よりずいぶん小さいなあと思った。これは、家内も同じ感想だったようだ。この疑問はすぐに解けた。「皇穹宇」の北側にある塀を抜けると、目の前に長大な大理石の路がまっすぐに続いていて、その先に、「皇穹宇」と同じ形をした、さらに巨大な藍瑠璃瓦の円形の木造建築が、佇立していたのである。これが20年前に見た「祈年殿」だった。記憶通りの巨大さ、美しさだった。
ここでやっと思い出した。20年前、前門から歩いてやってきた我々は、天壇公園の北門から入ったのだ。そして、巨大な「祈年殿」に驚嘆して記念写真を撮り、そのまま引き返して、前門から大柵欄、瑠璃廠と歩いたのである。まことにハードな徒歩旅行だった。だから、「皇穹宇」を観るのは、今回が初めてだったのだ。20年前に見たのは、天壇公園の北側半分だけだったのである。今回初めて、南から北まで、公園を縦に貫いて歩いたことになる。おかげで、「皇穹宇」の周囲にある、有名な「回音壁」を体験することができた。これは、壁に耳を近づけると、遠くの音も鮮やかに聞こえるという壁で、ガイドの任さんが実演してくれた。姿は見えないのに、彼が呼びかける声が、はっきりと我々の耳元で聞こえた。それはまるで天の声のようであり、不思議な体験だった。
今回の北京旅行で、私が一番楽しみにしていたのは、人力三輪車に乗っての胡同めぐりである。北京旅行の初日に、さっそくその機会がやってきた。胡同(ふーとん)というのは本来、横丁という意味だが、今では伝統的な家屋群という意味合いで使われているようだ。日本で暮らし、日本語で小説を書くアメリカ人の作家、リービ英雄さんは、ここ十数年、日本と中国を何度も往還して、中国各地を舞台にした私小説を書き続けているが、地上から消えつつある胡同を愛し、胡同を「石の京都」と表現している。今回、私もまさにそう実感した。どんどん再開発で壊されているとはいえ、胡同は今でも北京中にある。什刹海の胡同は、その中で最も観光地化されたものに過ぎない。しかし、古き良き北京の情緒を最も味わえる地域でもある。故宮のすぐ西側に縦長に延びる大きな池、北海、中海、南海の更に北側に、永という漢字の上の点のような形に細長くつらなった西海、后海、前海を総称して什刹海(しーちゃーはい)と呼ぶ。いずれも、飲料水の確保と水運のために、古い時代に作られた人工の池である。車で連れて行ってもらったので地理がよくわからないのだが、あとで地図で確認すると、北海公園の北側を東西に走る地安門西大街から前海西街を北に入ったところに、「北京胡同文化遊覧公司」というのがあった。これが人力三輪車の運営会社である。壁際に何十台もの人力三輪車と車夫が並んでいた。我々は、ここから人力三輪車に乗って、郭沫若記念館の壁際を北上し、三叉路を右へ曲がって前海沿いに出た。
沿道には土産物屋や飲食店が並び、観光客があふれていた。その間を、世界各国からの観光客を乗せた人力三輪車が列をなして通り過ぎる。あまりに観光地すぎる気がした。しかし、前海沿いの路は、よく葉が茂った古い柳の街路樹が大きな日陰をつくり、まるで、風に吹かれて琵琶湖畔を散策しているように快適だった。人力三輪車はしばらくこの前海北沿を走り、「銀錠橋」で止まった。ここは、この辺りで一番の名所であるらしい。前海と后海をつなぐ、最も狭い部分だ。昔、胡同を舞台にした映画で、冬になると凍る海でアイススケートをしている、この辺りの光景を見た記憶がある。作家の中薗英助さんによると、銀錠橋付近の海は、かつては一面の蓮池だったそうだが、衛生上の理由から、掃除されてしまったのだという。
ここで人力三輪車を降りた。ここからは徒歩である。自転車で三輪車についてきた紅衛兵世代だという、公司所属の男性日本語ガイドが、歩きながら胡同の説明をしてくれた。玄関を見ると、かつての住人の身分がわかるという。胡同に並んでいるのは、四合院と呼ばれる、灰色の煉瓦造りの伝統家屋である。中庭を囲んで四つの建物がある。かつては、ひとつの家族が住んでいたが、解放後は公有化され、数家族が共同で住むことになった。当然ながら、いろいろともめ事があるという。そんな話のあとで、一軒の四合院の中に入れてくれた。ここは、ひと家族の所有らしい。剪紙細工の職人の家族が住んでいるという。中庭の頭上に藤棚のようなものが作られていて、とても住み良さそうな雰囲気だった。日本の昔の長屋の雰囲気である。家の主婦らしき人も現れた。しばらく中庭におかれた長椅子にすわって休憩して雑談した。中国人らしく、鳥かごに鳥を飼っていたり、鉢植えを育てていたり、まったく下町の庶民の生活である。なかなか良い。こんなところで住んでみたいと思った。そろそろ失礼しようという時に、この家の商いである剪紙細工の工房に連れていかれた。なるほどなるほど。そのまま何も買わずに出てくることもできたのだが、気が小さい私は、マルク・エンゲルス・レーニン・毛沢東の顔を切り抜いた剪紙を土産に買った。150元、日本円で約2千円である。安くはないが、まあ良いだろう。見学料である。四合院を見学した我々は、再び徒歩で海沿いに出た。ここで、先の三輪車と合流して、后海沿いをしばらく走り、左折して、観光客でいっぱいの恭王府の前を通過して、元の出発地点へ戻った。以上が、今回の什刹海ツアーのすべてである。地図を見れば、什刹海のごく一部を周回したに過ぎない。このあたりの散策は、また今度、北京に来るときへの宿題にしておこう。
以前にも書いたが、今回も、パッケージツアーを選んだ理由の第一は、食事する場所を探す手間がないことだった。よく知らない街で、いい料理屋を選んで予約するのは困難だ。それに、私は糖尿病患者だから、何でも腹一杯食べるということができない。旅行会社に選んでもらったものなら、身体に悪かったり、気に入らなければ残せばいいのだ。
最初の夜、我々が連れて行ってもらったのは、東直門内大街にある四合院レストラン「花家怡園」という店だった。大通りの両側に紅い提灯が何列も並び、伝統家屋のレストランがたくさん軒を並べる「鬼城」と呼ばれる地域にあって、このレストランは、なかなか有名な存在だそうだ。映画監督のチャン・イーモウが贔屓にしているという。そういえば、玄関口に、「紅いコーリャン」に主演した名優、ジャン・ウエンの来店時の写真が飾ってあった。内部は、四合院を現代風にした造りで、建物だけではなく、中庭部分にもテーブルが置かれてあった。料理は、中華料理を基本にした創作料理だ。野菜や豆腐や肉類がバランスよく使われていて、見た目にも綺麗な料理だった。味も悪くなかった。食事の料金は、もちろん、ツアー料金に含まれているが、飲み物は別料金だった。私たちはアルコールではなく、お茶を注文した。有料である。ちゃんと、お茶のメニューがあった。適当に緑茶を注文したら、グラスのコップにお茶の葉っぱが入ったものが出てきた。コップの中で、お茶の葉が海草のように揺れている。お茶が減ったら、ウエイトレスが、湯をつぎ足してくれた。コップを眺めながら、これは「緑茶」という、ヴィッキー・チャオの映画と同じだなと思った。その時に思い出した。ジャン・ウエンは、その映画で、ヴィッキー・チャオと共演していたのだった。
北京での宿泊は「ペニンシュラ北京」を選んだ。家内が選んだので、選択理由はわからないが、王府井(わんふーちん)に近いのと、サービスや設備が安心な5つ星ホテルだったからだろう。ホテルは、王府井の大通りに歩いて行ける、金魚胡同という大通りに面して立っていた。中国風の屋根を持った、大きな建物だった。初日の夜、風呂の湯が抜けないというアクシデントがあったが、それ以外は、さすがにペニンシュラ、高級なホテルだった。朝食は、ホテル地下のビュッフェでとったが、料理はすべて、最上の味付けだった。ただ、部屋の窓からは、隣のビルしか見えないのは残念だった。
ホテルに荷物をおいてすぐ、夜の王府井を散策することにした。20年前の旅行の時には、最終日にほんの1時間程度訪れて、土産をいくつか買って帰った。その時に買った景徳鎮の湯飲みは、今も我が家にある。王府井までは、ホテルからは、歩いて10分もかからなかった。着いて驚いた。広い王府井の通りが、歩行者天国になっていたのである。それも、日本の歩行者天国と違って、普段は車が通るアスファルトの道路を開放しているのではなく、道路に敷石を敷き詰めて、まるまる歩道になっていたのだ。そういえば、上海一の繁華街もこうなっていた。さすがに中国は、やることのスケールが大きいと感心した。銀座をこんな風には出来ないだろう。私権が制限されている社会主義ならではだ。
大通りは、世界各国からの観光客や中国人で賑わっていた。私たちはしばらく散策しただけで、どの店にも入らなかった。家内が疲れていて、早くホテルへ帰りたいと言ったからである。ただ、通りに「王府井外文書店」(実際は簡体字で書いてある。)という外国語の書籍を売る店を見つけたので、そこにだけ入ることにした。私は、どこへ言っても、本屋があると無視できないで、覗いてみたくなる。そこで、老舎の「茶館」の英漢対訳本を見つけたので、土産に買うことにした。98元(約1300円)である。一般の中国人の感覚では、高価な本だろう。あとで確かめると、香港の中文大学が出版した本だった。だから、漢字が簡体字ではなく、繁体字だったのである。老舎のことは、後ほど書くことにしよう。とにかく、こうして北京の旅1日目が終わった。
翌朝7時半に、ガイドの任さんとホテルのロビーで待ち合わせた。7時半に間に合わせるためには、朝食の時間を考えると、朝6時頃から身支度しないといけない。どうしてそんなに早いのかと聞くと、万里の長城は遠いし混雑するから、少しでも早く現地に着きたいのだと言う。でも、考えてみると、北京の7時半は日本の8時半だ。まだ身体が日本時間で生活していた我々には、決して無理な時間ではなかった。ロビーで会った任さんに浴槽の話をした後、我々は予定の変更を交渉した。万里の長城には20年前に既に行っているので、他の観光地に変えられないか。でも、だめだった。ガイドの権限ではコースの変更はできないという。車にGPSが付いているので、どこへ行ったか全て記録されているという。すぐに諦めて、私たちは万里長城へ向かった。20年前に行ったといっても、それは慕田峪であり、今回の八達嶺とは違う場所だったから、見ておきたいという気持ちも少しはあったのである。
渋滞がなかったのと、ドライバー君の素晴らしいテクニックのおかげで、八達嶺には1時間ほどで着いた。ロープウエーの乗り場の列も、いつもの半分くらいだと任さんは言う。それでも、30分近くかかって、我々はロープウエーに乗った。6人乗りの古めかしいゴンドラである。ちょっと怖かった。無事に山頂駅に着いた。素晴らしい景観である。毎度おなじみの長城だ。観光客が溢れていた。山頂駅から、このあたりの最高地点を目指して歩き始めた。ところどころで記念撮影しながら、急な石段を何百段も上る。目的地に着かないうちに、家内が音を上げた。もう十分だから、この辺で引き返そうという。別に、目的地に着いても何もなさそうだから、私も賛成した。というわけで、万里長城見物は、あっけなく終わった。長城を吹き抜ける風はとても冷たかった。ほんの少し歩いただけなのに、私の膝は、少し痙攣していた。
長城見物を短時間で終えたことが結果的に幸いした。大幅に時間が余ったのである。ガイドの任さんは、いきたい所があれば、有料オプションで案内すると言いだした。私は迷わず、頤和園を希望した。ここには、明日の自由行動の日に行くことにしていたのである。車とガイド付きで行ければ、これに勝ることはない。しかも、オプション契約をすれば、「鳥の巣」にも案内するという。ここも見たかったから、実にラッキーだった。すぐに契約締結となった。20年前の旅行で、北京の世界遺産の中で、頤和園にだけ行っていなかった。頤和園は、西太后ゆかりの地である。数年前に浅田次郎の「蒼穹の昴」シリーズを読んで以来、頤和園を見たいという気持ちは、更に高まった。頤和園は、清朝の夏の離宮である。18世紀に乾隆帝が造営したが、19世紀後半、英仏連合軍に破壊された。それを西太后が再建したのである。当時、欧米諸国や新興の日本から圧力を受けていた情勢の中で、本来は海軍の増強のために使うべき資金を、頤和園の再建に蕩尽したということで、西太后は、現代中国の歴史教科書では、悪女の筆頭にあげられているという。そんな西太后の像を一新したのが、浅田次郎の小説だった。浅田次郎は、滅び行く大帝国清朝を女一人で最後まで支えようとした名君として、西太后を描いている。
頤和園は、離宮と言っても、日本の桂離宮などとはまるで異質なものである。土木技術の結晶と言っていい。面積の大半を占める広大な昆明湖は人工湖である。湖畔に聳える、標高60メートルの万寿山は、その人工湖を造るために掘り出した土を盛り上げて造った。乾隆帝があこがれた江南の古都、杭州の西湖の景観を模した頤和園は、18世紀における、皇帝のための、一種のテーマパークだったと言えないこともない。その、清朝最盛期の皇帝である、乾隆帝にあこがれていたのが西太后だった。
私たちは、東宮門から頤和園に入った。ここにも、中国各地からやってきた団体客が溢れていた。実に賑やかだが、京都あたりの観光地と似ていないこともない。中にはいくつかの古い堂があった。西太后の甥である光緒帝が幽閉されていたという、出入口が煉瓦でふさがれたお堂や、西太后の居室だった楽寿堂にあるシャンデリアなどを、任さんの説明を聞きながら、見物して歩いた。しかし、頤和園で最も私の印象に残ったのは、「長廊」である。昆明胡沿いに、楽寿堂から排雲門を経て、有名な石の舟「清晏舫」に至る、長さ728メートルの木造屋根付き回廊だ。雨の日にも湖を眺められるようにと造られたという。長い回廊の天井近くには、三国志や水滸伝から題材をとった極彩色の絵が延々と続く。最初は、1枚ずつ眺めて歩いていたが、すぐにやめた。あまりに数が多すぎるし、人とぶつかる。これらの絵が、歩行するにつれて、パラパラ漫画みたいに動きだしたら面白いだろう。きっと西太后は夢中になったろう。いや、動画に見とれて、途中で転んだに違いない。そんなくだらない想像をしてしまった。ここは、人を幻想に誘う異次元空間である。とにかく、長い長い回廊だった。万寿山にある仏香閣には上がらなかった。もう登るのは万里長城でたくさんだ。代わりに、「清晏舫」の近くから龍の形をした船に乗った。湖上から仏香閣を眺めるのである。素晴らしい景観だった。湖上を渡る秋の風が気持ちよかった。私たちは、船が着いた新宮門から、頤和園を後にした。
頤和園から昼食場所に移動する間に、オリンピック公園の前を通った。見物する時間はないが、遠くから「鳥の巣」を撮影することができるというので、車を道路脇に停めて、歩道橋の上から写真を撮った。見物はそれだけである。すぐに車に戻って、昼食会場へ向かった。なにしろ、この寄り道はサービスだから、文句は言えない。北京に支店が3カ所あるという、台北が本店の「鼎泰豊」で小籠包の昼食をとったあと、天安門広場へ向かった。北京に来たら、やはり天安門と故宮を避けるわけにはいかない。20年前に訪れた場所ではあったが、何度でも見る価値がある。まず、天安門広場へ入った。この広場に入るには手荷物検査があるのだそうだが、この時は、ガイドの任さんと一緒だったせいか、免除された。100万人が入れるという天安門広場はやっぱり広かった。ここにも観光客が溢れていたが、まだまだ余裕がある。広場の中央に、10月1日の国慶節のための巨大な紅提灯のモニュメントが飾られ、競馬場にあるような長大な液晶画面が2つ置かれて、映像を流していた。20年前というと、あの天安門事件から2年目の年だった。広場に立った私は、事件の時に戦車が通った後を探して、見つけた。今ではそんなものは発見できないだろう。しかし、天安門事件は、今でも中国ではタブーだという。天安門広場の西側に、巨大な人民大会堂の建物がある。日本の国会議事堂にあたる。私たちが北京を訪れる一週間ほど前に、初めての北京公演をするSMAPが、ここで記者会見をした。尖閣諸島の事件から1年目である。日中間にも中国国内にも、問題は山積している。こんな大きな国を率いていくのは大変だろうなと、中国の首脳部には同情する。
20年前に来た時には、午門の近くまで車で運んでもらったので、天安門をくぐるのは、今回が初めだった。巨大な毛沢東の肖像画を見上げながら、トンネルのような通路を北に抜けた。門の向こうも広大な空間である。しばらく歩いて、やっと懐かしい午門に着いた。実に威圧的な巨大な赤い門である。ここが、故宮の正門だった。今も故宮博物院の入口である。チケット売場周辺には、世界中からの観光客が溢れていた。ここでは、空港と同じような手荷物検査があった。故宮内部の紹介は省略する。とにかく広大で、中央部を南から北へ、ごく一部を見学しただけなのに、歩くだけで疲れる。映画「ラストエンペラー」の世界である。ただ、浅田次郎の小説で教えられた「珍妃井」を見られなかったのは残念だった。ここを見物するには、別料金がかかるそうだ。入場料が別途なのか、ガイド料が別途なのか、確認しなかった。いずれにしても、故宮内部をじっくり探索するのは、また今度の機会にしよう。故宮全体で、着々と修復工事が進んでいて、公開されるエリアがどんどん拡がっているようであるから。故宮の一隅に、清朝皇帝の血をひくという、愛新覚羅なんとかという書家が事務所というか、店舗をかまえていて、ガイドの任さんに連れていかれた。その場で、好みの文字を書いてくれるという。料金は1万円程度だったが、赤や黄色の絹に書くといので、趣味ではなく、結局、注文せずに出てきた。申し訳ないような気はしたが。
故宮を出た我々は、オプションで申し込んだ、「功夫(かんふー)ショー」の会場へ向かった。20年前には、梨園劇場で京劇を見たが、今回のツアーでは、夜は散策にあてようと思って、オプション観光を何も申し込んでいなかったのだが、専属のガイドが付いてしまうと、勧めを断るのが難しくなった。それで、京劇、雑伎団、カンフーと選択肢を提示された中で、カンフーを選んだのである。時間の関係から、カンフー・ショーは夕食の前に観ることにした。場所は、天壇公園の東方、幸福大街にある「紅劇場」である。劇場の前で車を降りると、すでに入場を待つ人たちがたくさんいた。西洋人が多い。カンフーの人気は世界的である。出し物は単なるカンフーの実演ではなく、ストーリーのあるミュージカルのようなものであった。タイトルは「功夫伝奇」。子供の時に母親と別れて、山奥の寺院に入り、老師の元で武術の腕を磨き、さまざまな誘惑に勝って、ついに老師の後継者になった男の半生記を7部構成で見せる。セットや演出も、なかなか凝ったものだった。出演するのは、単なる役者ではなく、鍛えられた肉体と体技を持つ、本物の若い武術家たちだから、実に迫力がある上に、バレーのように美しかった。カンフーによる武闘場面を期待していた人にはちょっと物足りなかったかもしれないが、私は十分満足した。
この夜の食事は、有名な「全聚徳」の北京ダックだった。支店がいくつもあるので、我々が連れて行ってもらったのが、どの店だかわからないが、もし二人だけで旅行していたら、見つけることも入る勇気もなかったろうから、有り難かった。とはいえ、テーブルにどっさりと出された北京ダックや豚肉の半分くらいを残してしまったのは、もったいない事だった。日本人の年寄りには、あまりに量が多すぎたのだ。北京ダックなんて、ほんの少し食べるから値打ちがある。いずれにしても、北京の2日目はこうして終わった。歩き疲れたので、ホテルに戻って風呂に入り、すぐに熟睡した。(つづく)
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