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チョン・ヤギョンなんて知らない 「第五回」

 

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 杉本さんからデートに誘われた時に、きっと南さんの話をもっと聞きたいのだろうと考えた仙石さんが、約束の日までの数日間に回想していたのは、ざっとそのようなことだった。おかげで半ば忘れていた様々なことを思い出すことができた。特に大垣さんとの最後の出来事の想起は仙石さんをいまさらながら幸福感で充たした。スイカに塩をかけるように、乃里子さんへの罪の意識がまざりあって、その記憶はさらに甘くなった。あの時、たぶん、杉本さんはまだ生まれてもいなかった。自分がこれから逢いに行くのはそんな年齢の女性なんだ。これはありえないような僥倖なんじゃないか。自分という男にそんな魅力があるはずがない。やはり杉本さんが自分と会いたいと言ったのは南の思い出話を聞くためだ。あるいは共に南について語らうためだ。うぬぼれてはいけない。管理職としてそれなりの風格を身につけているとはいっても、自分の今の年齢を考えろ。そんな事をあれこれと考えながら、仙石さんは、一方で浮き浮きしながら、一方で、まるで就職試験の面接に向かうような気持ちで、待ち合わせの喫茶店にやって来たのだった。でも、その日、仙石さんに杉本さんが聞きたかったことは、南さんのことではなかったのである。まったく意外なことに、仙石さんが大学で学んだという朝鮮の話だったのだ。

 「ごめんなさい。わざわざお呼びだてして。実は、先日の話の中で、仙石部長が大学時代に朝鮮の李朝の歴史を研究されたとお聞きして、もっと詳しいことを知りたいと思ったんです。実は、わたし、ずっと韓国語を勉強していて、ソウルに留学したこともあるんです。」予想もしていなかった杉本さんの言葉に、仙石さんはしばらく言葉を失った。「へえ、それは驚いた。ひょっとして、杉本さんも『冬ソナ』で韓国に興味を持たれたんですか?」
 「冬ソナ」というのは「冬のソナタ」という韓国のテレビドラマ・シリーズのことで、2004年にNHKの衛星放送で話題となり、ついで地上波でも放送されて社会現象とも言われるほどの大人気になった。主演のペ・ヨンジュンは「ヨン様」と呼ばれて、日本の特に中高年の女性のアイドルになった。この番組によって、特に日本人女性の韓国への見方が劇的に変化したと言われる。それまでの一般的な韓国の印象は、軍事政権による圧政や、妓生観光に象徴される暗いものだった。韓国に旅行するのは脂ぎった男の団体ばかりで、女性はほとんどいなかった。ソウル五輪以後、韓国の民主化の動きもあって、この印象は少しずつ改善されてはいたが、まだ従来の暗い印象を払拭するには至らなかったのが、この「冬ソナ」によって、完全に暗から明に逆転したのである。ひとつのテレビ番組が国民の意識をこのように動かした例はあまりないだろう。このドラマが日本で放送された時、杉本さんはまだ京都の女子大学の学生だった。

「いえ、あのドラマがきっかけというわけじゃないです。」「それはそうですよね。あのドラマは中高年の女性に人気があったから。実は、うちの家内もはまった口でしてね。それまで私がいくら誘っても韓国旅行にうんと言わなかったのに、あのドラマを見てから、友人たちと春川とかソウルとかのロケ地探訪の旅行をしてきたんですよ。その間、ぼくは留守番。だからまだぼく自身は韓国に行ったことがないんです。韓国に興味を持ったのはぼくの方が早いのにね。それじゃ、杉本さんはうちの娘と同世代だから、きっかけは日韓W杯かな、それともKーP0Pの方かな。よく知らないけど、たとえば「東方神起」とかいう男性グループがありましたね。」 「私、サッカーにはあまり興味がなくて、KーP0Pも嫌いじゃないですけど、韓国語の勉強を始めたきっかけじゃありません。私のことはまたお話するとして、今日は仙石さんのお話を聞きたいんです。」「ごめんごめん、そうでしたね。」「すみません。勝手なことを言って。でも、仙石さんのお話をどうしてもお聞きしたくて。そもそも、仙石さんはどうして、朝鮮史を学ぼうと思われたんですか?」
 そう杉本さんに聞かれて、仙石さんはしばらく考えた。「うーん、その話をはじめると長くなるなあ。でもいいか。できるだけ簡単に話しますよ。」そう言って、仙石さんが始めたのは次のような話だった。

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 高校時代、仙石さんはクラスメイトから「仙人」と呼ばれていた。もちろん、仙石という名字のせいもあるが、一年生の時のホームルームでの自己紹介の時間に、愛読書が「老子」と「荘子」だとみんなに宣言したからである。中高生が読む本ではない。それを聞いたクラスメイトは一様に驚いた。それは嘘でもはったりでもなかった。若き仙石さんは、初心者向けの日本語訳や解説本を通してではあるが、本当に「老子」と「荘子」を愛読していた。老子と荘子は、孔子や孟子らの儒教思想を否定する古代中国の自由思想である。老子は中国の伝統的世俗宗教である道教の祖でもあった。「自然に帰れ」というのが、その根本思想である。まさに、桃源郷に隠れ住む仙人を理想とする教えだった。その老荘を怠惰の思想だと言ったのは、日本人最初のノーベル賞受賞者だった湯川秀樹博士だった。真面目すぎる日本人には、精神を自由にしてくれる怠惰の思想が必要なのだと。「昼は孔孟、夜は老荘」。これこそが、東洋の知識人のとるべき理想の態度である。湯川博士が老子や荘子を愛読していたことは有名な話だった。少年の頃の仙石さんは、日本で一番偉い人だと、湯川博士を誰よりも尊敬していた。だから、高校に入学した時点では、将来は理数系の進学コースに進むつもりでいたのだが、中学まではあれほど得意だった数学で挫折し、(要するに高校数学の微積分などというものが理解できなかったわけですが、)文系をめざすコースに変更を余儀なくされたのである。それでも、仙石少年の老荘への愛だけはずっと変わらなかった。仙石少年が生まれ育った町は、冬には厳しい寒さと大雪に苦しめられるものの、それ以外の季節には、澄んだ河川が流れ、緑の山々に囲まれたまさに桃源郷だったのである。もっとも、だからと言って、その町に生まれ育った少年達がすべて「老子」や「荘子」を愛読するようになったわけではないから、仙石さんは少年の頃から変わり者だったのだろう。


 でも、仙石少年は堅実だった。東京に行きたいなどとは一度も考えたことがなかった。大学も、自分の学力を考慮して、湯川博士が学んだ京都大学ではなく、県内の国立大学を受験した。それでも失敗した。当時は、国公立大学に一期校と二期校があったのだが、二期校は受験しなかった。もともと志望していた県内の私大の文学部に合格したので、浪人することなく進学した。大阪で万国博が開催され、三島由紀夫が腹切りをした年のことである。2回生になった時に、次年度からの専攻学科を決めることになった。仙石さんは東洋史学科を選択した。湯川博士の兄である貝塚茂樹さんが著名な東洋史学者であったことも選択の決め手のひとつだったが、もっと大きな要因は他にあった。当時愛読していた作家の影響である。その作家の名は、司馬遼太郎。新聞記者時代、京都の大学と社寺が担当だったという司馬遼太郎は、湯川博士だけではなく、桑原武夫や梅棹忠夫らの京大の学者たちと密接な交友関係を持ち、後には、「新京都学派の輝ける一員」だったと称されることになる。高校時代の仙石少年は、湯川博士の京大の同僚であるということから、仏文学者の桑原武夫教授(桑原教授の父親も有名な東洋史学者だった。また、桑原教授が心から尊敬していたのは父親の同僚でもあった東洋史学者の内藤湖南だった。)の数々の文章を読んで尊敬するようになり、その桑原教授と対談している白髪の歴史小説家として司馬遼太郎の存在を知ったのだが、その作品を試しに読んでみて、たちまち魅入られて愛読者になった。仏文学にしようか東洋史にしようかと最後まで迷っていた仙石さん東洋史の方に導いたのは司馬遼太郎であり、それどころか、研究対象まで決めさせたのも司馬遼太郎だった。仙石さんが専攻学科を決めようとしていた頃、その司馬遼太郎が「街道をゆく」という紀行文のシリーズを「週刊朝日」に連載していた。そこに「韓のくに紀行」が登場したのである。仙石さんは目が覚める思いがした。なんということだろう。自分は、中国のことは少しは知っているが、隣国である朝鮮・韓国のことを何も知らないではないか。これではいけない。東洋史学科に進学して、ぜひとも朝鮮の歴史と言葉を学ぶべきだ、そう堅く決心したのである。しかし、仙石さんが入った東洋史学科には、朝鮮・韓国史の講座はなかった。専門の教師もいなかった。仙石さんはどうしたのか?独学したのである。

 ゼミの主催者である大村教授がそれを許してくれた。教授は、ゼミのコンパの時、仙石さんが司馬遼太郎を愛読していると言った時、私は海音寺潮五郎を尊敬していますと言った人である。海音寺潮五郎は司馬遼太郎の師匠とも言える歴史小説の大家だった。司馬遼太郎が直木賞を受賞したのは、選考委員だった海音寺潮五郎の強力な推薦があったからだと言われている。それにしても、大学の歴史の教授が歴史作家を尊敬していると堂々と言うなんて。その時はまだ、海音寺潮五郎が「詩経」を翻訳したりして、中国文学や歴史についてもとても造詣が深い作家であることを知らなかった仙石さんは、それ以後、世間的には無名の学者にすぎない大村教授を、狭い専門分野に拘泥しない学者として尊敬することにした。もっとも、京大出身の大村教授は、その時、海音寺潮五郎とともに内藤湖南を尊敬していると言ったし、ぜひとも湖南全集を隅々まで読みなさいとも言ったのだが、仙石青年は、その事はすぐに忘れてしまったようである。大村教授が仙石さんに朝鮮史の勉強を許したのは、どうせ学部の学生だから好きなことをやればよいと思ったのかもしれない。教授は学生の研究テーマには一切干渉しなかった。放任というわけではない。質問すれば丁寧に教えてくれた。でも、仙石さんが卒論のテーマを朝鮮の歴史にしたい、ついてはどんな勉強をすればいいのかと訊ねに行った時、教授はこう言って、はずかしそうに笑った。「ぼくは朝鮮史については何もしりません。でも、漢文の史料の読み方なら教えられるかもしれないね。」教授は、仙石さんを買いかぶっていた。なぜなら、仙石さんがその後卒業論文のために読んだのは、漢文による一次史料ではなく、ほとんどが、日本人か在日の学者が日本語で書いた研究書だったからである。それどころか、一般向けの啓蒙書まで参考文献にあげた。仙石さんは、韓国語の勉強もしなかった。必要がなかったからである。仙石さんのために少し弁明しておくとすれば、当時は、外国語大学へ進学する以外、朝鮮語や韓国語を学習する機会がほとんどなかった。

 大学の東洋史学科に進んで、朝鮮の歴史を勉強しようと決心した仙石さんは、さっそく、朝鮮史の勉強にとりかかった。中学・高校と、ほとんど隣国の歴史を習わなかったので、それは新鮮な作業ではあった。檀君神話に始まり、日本の古代史とも密接な関係があった三国時代から、新羅、高麗を経て、李氏朝鮮王朝時代へ。その間ずっと隣の大国である中国の代々の王朝に朝貢する服属国だった。李氏朝鮮時代の末期、日清戦争で日本が清国に勝った結果、長年にわたって清の属国であった状態をようやく脱して大韓帝国として自立したかと思えばすぐに、東アジアの儒教的華夷秩序の下位にいたはずの隣国日本に併合されて屈辱を味わい、その日本がアメリカに戦争に負けて、いよいよ光復独立だと喜んだら、今度は国土が南北に分断されたあげくに内戦。アメリカと中国の代理戦争のようになった朝鮮戦争は結局勝負がつかずに休戦となり、南北分断の状態は固定されるに至った。いやはや大変悲惨な歴史である。あまり面白くない歴史だなあと仙石さんは思った。中国の「三国志」や「水滸伝」、あるいは日本の「平家物語」や「太平記」、さらには戦国時代に活躍した信玄、謙信から信長、秀吉といった英雄豪傑という者がほとんどいないのである。特に、李氏朝鮮時代が酷かった。李氏朝鮮は、日本の室町時代から明治初期に到るまで延々と続いた王朝である。その中期、秀吉の侵攻によって滅亡の危機に陥ったが、宗主国の明に助けられた。明は、もともと「朝鮮」という国号をさずけてくれた国である。秀吉軍と戦って国力が衰えたのか、その明が滅びて清が代わって宗主国になった。清は満洲人の国である。儒教思想に凝り固まった朝鮮から観れば野蛮人の国である。そのような国の属国であることに、誇り高き朝鮮両班貴族たちの自尊心は大いに傷ついた。しかし、現実世界においては、朝鮮は実に無力な国なのだった。新たな宗主国の清のみならず、辺境の野蛮な島国である日本よりも更に弱いのだった。もう、朝鮮両班の精神は荒廃せざるをえない。仙石さんにとって、李氏朝鮮時代の歴史を読むことは苦痛でしかなかった。陰湿な朋党の争いが果てしもなく繰り返される歴史だったからである。ずっと後になって韓流ブームが起こった時、李朝を舞台にした韓国歴史ドラマを見るようになってから、仙石さんは、これらの凄惨な権力闘争を、まるで政党や企業や役所の中の派閥争いみたいだなと面白がって見ることになるのだが、大学時代の仙石さんは、老荘を愛読しているとは言っても、清濁併せ飲むという大人の境地には至っておらず、まだ青臭い理想主義的なところが大いにあったから、李氏朝鮮の歴史に嫌悪感を持ったのである。もっとも、仙石さんは田舎育ちにしては軟弱な性格だったし暴力も嫌いだったから、青臭い理想主義者ではあっても左翼的な政治活動には一切参加しなかった。学生時代の仙石さんは、終始ノンポリを貫いた。後年、市役所の役人になって、部下を持つ身分になった時、かつての先輩達が、安保反対闘争で挫折した自身の過去を美化して語ったように、仙石さんもまた、自身の大学時代におこった連合赤軍事件で学生運動と距離を置くようになったと、さもそれまでは活動家であったかのように若い人達に語るようになるのだが、実は、はじめから一度も政治活動などしなかったのである。それはともかく、そもそも党派的な活動を嫌っていた仙石さんは、李氏朝鮮時代の両班たちの陰湿な党争の歴史を知って、朝鮮の近世史を勉強しようと思っていた気持ちが萎えそうになった。自らに正義があると信じたインテリ間の党争ほど陰惨なものはない。仙石さんはそう思った。それなのに、仙石さんは李氏朝鮮時代を研究テーマに選んだ。それはなぜか。東アジアにおいて、中国でも朝鮮でもなく、日本だけが近代化に成功したのは何故なのかを知りたかったのである。それは単なる地政学上の幸運だったのか。偶然だったのか、それとも、何か理由があるのだろうか。仙石青年が尊敬していた京大の桑原教授が、日本だけが西洋化に成功したのは、江戸時代の日本には出島があったからだと言っていたが、そんな単純なことじゃないのではないかというのが、仙石青年の思いだった。いや、その前に、李氏朝鮮時代に、日本の出島に相当するものがあったのかどうかを調べないと。というような事を考えながら様々な書物を読んでいた仙石青年がようやく発見したのが「実学者」の存在だった。実学者とは、要するに、朝鮮の洋学者である。李氏朝鮮にも洋学者がいたんだという発見は、仙石青年をいたく興奮させた。この発見を仙石さんにもたらしてくれたのは、姜在彦という在日の学者だった。運命というべきか、この学者は司馬遼太郎さんの友人だったのである。しかも、「街道をゆく 耽羅紀行」の旅で、済州島に同行した人でもあった。もっとも、その旅行が行われたのは1986年のことだから、この時点では、仙石さんはその事を知らない。当たり前だ。未来のことだから。後年から振り返って何かを書いていると、当時の人々が知らなかった、または知るよしもなかったさまざまな出来事を自分が知っているという、圧倒的に有利な情報の非対称性を忘れてしまうことがある。昔のことを書くときには、心してかからないといけない。当時の仙石さんはその事を意識していた。結果だけを見て、日本人は中国人や朝鮮人(韓国人を含む)よりも優れていたのだというような浅薄な結論には立たなかった。たとえ偶然による僅差の勝利ではあっても、勝てば官軍である。その後の歴史は勝者が書く。いかに謙虚な勝者であっても、自分は偶然あるいは間違って勝ってしまったとは書かない。でも、勝者と敗者は入れ替わっていたかもしれないのだから、敗者からも学ぶべきことはあるはずだ。仙石さんはそんなことも考えていた。当時の仙石青年は、なかなか見どころのある男だった。後年の、地方公務員としての保身を優先して生きてきた姿からは想像もできない。なお、現在では、日本と韓国の近世における国際交流の貴重な実例として、朝鮮通信史に大きな注目が集まっているが、仙石さんが大学に在学していた時代には、日本でも韓国でも、ごく一部の熱心な研究者を除いて、朝鮮通信史の歴史はほとんど知られていなかったし、研究書もほとんど存在しなかった。それでも、仙石さんは、数少ない資料(もちろん日本語)を読んで、卒業論文の中で、朝鮮通信使のことにも言及したのである。えらい。
          
 卒業論文を提出して無事に大学を卒業した仙石さんは、研究者の道に進むことなく、地方公務員の道を選んだ。そして、仙石さんと朝鮮・韓国との縁もそれきりとなった。NHKが1984年に「ハングル講座」(講座の名前を朝鮮語にするか韓国語にするか、いろんな議論の末に、ハングル講座という変な名称になった。)というものをテレビで始めた時、健気なことに、仙石さんは番組を録画したりテキストを買ったりして勉強を始めたのだが、結局はそれも一年しか続かなかった。でもそれは、仙石さんが酒と麻雀とゴルフに明け暮れる不勉強な社会人に成り下がってしまったという意味ではない。仙石さんは、公務員になってからも読書家で勉強熱心なことで周囲に知られていた。それは、上司の長谷部さんとの出会いのおかげだった。公務員でも一般の会社でも、あるいはどんな組織においても同様だろうが、よき仲間、良き上司との出会いが、その人の社会人としての一生を決めてしまうほどに大切なことであったと、定年を意識するようになった今、仙石さんは心から実感している。仙石さんにとっての良き友の一人が、あの河鍋さんであり、良き上司の代表が長谷部さんだった。もし長谷部さんとの出会いがなかったら、仙石さんの公務員生活は、まったく違ったものになっていただろう。

 仙石さんが杉本さんに話したのは、以上のような内容を大幅に省略したバージョンだった。なにしろ突然ふられた話題だったから、事前に準備ができていなかったのである。記憶があいまいになっているところも多くあった。だから、杉本さんに仙石さんの話の内容がどの程度伝わったかわからない。なかば冗談だったろうけれど、広告会社に勤めていた頃から企画書を書いたりプレゼンテーションをするのが天職だと思えるくらい好きだったと言っていた南さんと違って、仙石さんは子供の頃から口べただった。社会人になってからかなり改善されたけれども、いつも、夜になってからその日の会話を反芻して、あの時はこういうべきだった、あれは言うべきではなかった、と反省するのが習慣になっていたくらいである。杉本さんとのデートが終わった後の夜にも、仙石さんはベッドの中で、杉本さんに自分が話したことを何度も繰り返し脳内で再生して、あるべきだった話を再構成した。それが、先に書いたロングバージョンだった。ちょっと離れた隣のベッドで寝ている乃里子さんは、そんな仙石さんにはまったく関心をはらわず、ぐっすりと眠っていた。


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 その日、仙石さんが杉本さんに話したのは、それだけではなかった。杉本さんと仙石さんの話は、場所を喫茶店から全国チェーンの有名な豆腐料理の店に移してからも続いた。この店は個室になっていて、時々、着物姿の店の女性が料理を運んでくるのを除いて、人の耳を気にせずに話をすることができた。日本酒も飲んだので、会話は喫茶店の時よりもなめらかになった。でも、杉本さんに「仙石さんは、卒業論文でチョン・ヤギョンのことを書かれたんですか?」と尋ねられた時には、仙石さんは一瞬口ごもってしまった。「チョン・ヤギョン?」そう答えるのがやっとだった。「朝鮮の実学者のことを書かれたんでしょ? チョン・ヤギョンは韓国で一番有名な実学者じゃないんですか?私は韓国の歴史ドラマでしか知らないんですけど、韓国では教科書にも出てくる大学者だと聞いています。」杉本さんがそう話すのを聞いて、仙石さんはやっと気付いた。仙石さんは卒業論文の一章に「丁若鏞とその時代」とタイトルを付けたのだったが、チョン・ヤギョンというのは、まさに丁若鏞その人のことに違いなかった。なんと、仙石さんはこの時まで丁若鏞の韓国語読みを知らなかったのである。仙石さんにとって、丁若鏞はあくまでテイ・ジャクヨウだった。


 「ごめんごめん。学生時代から今までずっとテイ・ジャクヨウと覚えていたので、チョン・ヤギョンと聞いてすぐに思いつかなかったんですよ。マオ・ツォートンと聞いても毛沢東と気付かないようなものです。恥ずかしいけど、朝鮮史をやりながら韓国語を勉強しなかったんでね。それで卒論を書いたんだからひどいものです。確かに、卒論に彼の事を書きました。彼は朝鮮実学の大成者でしたからね。彼を重用した王様が早死にしなければ、あるいは彼が王の死後も流刑されずにずっと政治の中枢にいれば、その後の朝鮮の歴史は変わっていたかもしれない。日本からさほど遅れずに、あるいは先に近代化に成功したかもしれませんね。彼は荻生徂徠が書いたものも読んでいたし、日本の事情もよく知っていたようですからね。」 と、なんとか体勢をたてなおした仙石さんだったが、杉本さんの次の発言で再びパニックに陥ることになった。「わたし、その仙石さんの卒業論文を読んでみたいです。」
 息が詰まりそうになりながら、苦し紛れに仙石さんが答えたのは、「残念ながら、大学に提出した論文は控えもとっていないし、今は手元にないんです。当時は今みたいに簡単にコピーをとれなかったのでね。だいたい、卒業論文と言っても、ぼくの場合は、いろんな参考書を適当に切り貼りしただけで、とても論文なんて言えたものじゃないし。」というものだった。

 仙石さんは、そう杉本さんに言ったのだが、実は、その卒業論文は仙石さんの手元にあったのである。大学を卒業してから15年くらいが経ってから、大学の創立100周年記念で東洋史研究室の入っている建物が新築されることになり、保管場所がなくなったという理由で、卒業論文が大学から送り返されてきたのだった。久しぶりに見る手書きの卒業論文は、確かに論文などと言えるものではなかった。恥ずかしくて、とても他人に見せられるものではない。本来ならば焼却処分すべきものだった。仙石さんは話題を変えた。
「さっき丁若鏞、じゃなかった、チョン・ヤギョンが登場する韓国歴史ドラマがあるっていう話でしたけど、それは日本でも放送してるの? ぼくは「冬のソナタ」は見逃したけれど、「チャングム」以来、NHKが放送する韓国歴史ドラマはずっと見ているんだけど。」
 仙石さんが言った「チャングム」というのは、韓国の歴史ドラマの巨匠と言われるイ・ビョンフン監督のテレビドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」(原題は「大長今」)のことで、この長大なドラマはアジア各地で大ヒットしたが、日本ではNHKが2004年から2005年にかけて衛星チャンネルで放送し、2005年には好評に応えて地上波でも放送した。つまり、仙石さんと杉本さんが話しているこの時点からは4年前に放送されたドラマだったが、女性に人気のあった「冬のソナタ」とは違い、仙石さんのような中高年の男性ファンが多かったと言われる。先程も書いたように、朝鮮の実学を卒業論文のテーマにしようと決めた仙石さんだが、そう決める前に、何冊か本を読んで李氏朝鮮王朝の歴史を調べた。そして、そのあまりの暗さと救いのなさに、一時は、違う時代か、いっそ中国史に対象を変えようかと悩んだほどだった。まったく興味をひかなかったし、なんの共感もできなかった。そんな中でようやく「実学」を発見して、卒業論文を書くことができたのだった。仙石さんが大学時代以来抱いていた、そんな李氏朝鮮時代に対する長年の灰色のイメージが、「チャングム」を見ることで一気に変貌したのである。白黒のくすんだ画面がフルカラーの映像に変わった。このドラマで描かれているのは、確かに陰湿な両班たちの党争なのだが、なんて人間的で面白いんだろう。仙石さんは、初めて李朝の歴史がわかったような気がした。それ以後、韓国歴史ドラマの大ファンになったのである。

 「チョン・ヤギョンが出ているテレビドラマだと、たとえば、「『牧民心書』実学者チョン・ヤギョンの生涯」というのがありますよ。今、NHKが衛星で放送している「イ・サン」は正祖が主人公だから、いずれチョン・ヤギョンも登場するんじゃないですか。ドラマの後半になるのかな。」杉本さんがそう言うのを聞いてしばらくしてから、仙石さんはハッとした。「イ・サン」なら、仙石さんも毎週楽しみに見ているのである。このドラマの主人公である「イ・サン」は李朝22代の王である正祖になる人物であり、正祖こそまさに丁若鏞が仕えた王だったのだ。どうして今まで気付かなかったんだろう。この時も、杉本さんは正祖をチョンジョと呼んだので、仙石さんはすぐには気付かなかったのだが、「牧民心書」が丁若鏞の主著である事は知っていたので、杉本さんの話の内容をさも理解しているかのような顔をして聞くことができたのだが、頭の中では、チョンジョって誰?ああ、正祖のことかなと必死に変換していたのである。このまま杉本さんの話を聞いていると自分の知識のいい加減さがばれてしまうと焦った仙石さんは、こんな時には自分から質問するに限ると思って、杉本さんにこう尋ねた。「杉本さんはどうして、そんなに韓国の歴史ドラマに詳しいの?」


 杉本さんの答えはこうだった。「わたし、大学を卒業して京都の小さい出版社に就職したんですけど、そこを一年ほどで辞めて、韓国に一年間短期留学したんです。その時に友達になった同じ留学生がいましてね、その人が韓国歴史ドラマにとても詳しいんですよ。その人は韓国人の知り合いからドラマのビデオを送ってもらっているんです。「牧民心書」は、彼女の部屋で一緒に見たことがあります。けれど、あんまり面白くなかったんで全部を見たわけじゃないんですよ。」それを聞いて仙石さんはさらに驚くことになった。。「えっ?杉本さんは韓国に留学したの?それじゃ韓国語ができるんだ!」仙石さんは思わず大きな声を出した。杉本さんは、この日のデートの最初に、韓国語を勉強していて、韓国に留学したことがあると確かに言ったのだ。今日はてっきり杉本さんと南さんの思い出話をするのだと思い込んでいた仙石さんは、いきなり話題が朝鮮になった事に動転して、そのことをすっかり忘れていたのである。

                          (つづく)


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