母の黒豆
※今年1月4日ブログに記載したものの転載となります。
5日、年末年始の恒例となった、実家の母からの黒豆が、今年も届く。
今年は、黒豆以外にもいろいろなものを入れてくれた。数の子、餅用のクルミペースト、煮物、七草粥の素……。
残念ながら煮物は傷んでしまっていたが、それ以外は食べられそうだ。クルミペーストは本当に久しぶりで、また私の大好物でもあるので、ちょっとしたサプライズになった。焼いたお餅を絡ませて食べると、あっという間に5個、消えてなくなった。
一応、年末にメールで黒豆送ってくれーと頼んだら、「今回、ちょっとしょっぱくなっちゃいました…」と、めずらしくしおらしい返事が返ってきた。
スプーンで一口すくって食べてみると、なるほど、確かにいつもより甘めな感じは薄い。だが、これもこれで美味しいので、メールでお礼がてらそう伝えたが、そのことの返事はなかった。
ほかの届いたものを、まずはちゃんと食べられるかどうかを試しながら、「また父が何か言ったのかな」と思いを巡らせる。
父は亭主関白というタイプでもないし、いわゆる男尊女卑といった印象を受けたこともないのだが、出された食事の味がいつもと違うと、「その言われ方はキツいだろうな」くらいの口調で指摘する人だ。
* * *
母はかなり感覚的に料理をする人で、調味料をしっかり計量してとか、そういうことはほとんどしない。
だからまあ、味のブレを個人的にはほとんど感じたことがほとんどないことのほうが驚くべきことなのかもしれないし、他の家庭ではきっちり計量して味が変わらないことのほうがふつうのことなのかもしれない。
ただなんにせよ「いつも」と違う味なら、「まあ今日はこうなのね」と、それはそれで楽しめばいいのに、とも思う。
コンビニのおにぎりじゃあるまいし。
* * *
……なんてことを考えながら、一方でまた「いつもの味」のなんたるすごいことか、と思う。
……考えてみれば、雨の日だろうが、体調がすこし悪かろうが、心配事があったり、どこか何かを言われてへこんだりしていても、作るご飯の味は「いつもと同じ」ことを求められ、しっかり作り続ける。
毎日、毎日。うちの母なら、40年以上。
これってすさまじいことじゃねーか、と、ちょっとした畏怖すら込めながら、慄く。
私なんか、カレーを作るたび、親子丼をつくるたび、その出来の浮き沈みに一喜一憂しているというのに。
40年も当たり前を求められるのは、私はちょっと無理だ。
* * *
「食事がでてくることや家事を当たり前のことのように扱う夫」とか、「家事・炊事を賃金換算したら」とかで、たびたび世間は賑わう。
すこしでも「あんた(家事や炊事をしない側)にそれができるんか(アイフル風)」と考えを巡らせることができるなら、もうちょっと状況は変わるんだろうにな……などと、たしかに味はいつもと違うけど、ちゃんとおいしく、また寒くなった台所で作ってくれたんであろう黒豆を食べながら、また思いを巡らせる。
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