ラス・ピニャスのバンブーオルガン
マニラ近郊の街ラス・ピニャス(Las Piñas)の聖ジョセフ教会には、世界最古の竹製のパイプオルガンがあり、「ラス・ピニャスのバンブーオルガン」として広く知られている。フィリピンがスペインに統治されていた18世紀末、聖アウグスチノ修道会のディエゴ・セラ神父がラス・ピニャス教区の初代神父として派遣され、教会とともにパイプオルガンも自ら作ったのだ。2003年にはフィリピン政府により国の文化遺産に登録された。このオルガンを中心としたバンブーオルガン・フェスティバルは毎年2月後半に開催され、1976年から50年近く続いている。また、セラ神父の誕生日の7月24日には、毎年地元で様々な文化イベントやコンサートが実施されている。バンブーオルガンは制作後約200年を経て、ラス・ピニャスのコミュニティのみならずフィリピンの重要な文化資源となり、また、海外のオルガニストや音楽家などグローバルな音楽・文化コミュニティともつながる窓にもなっている。
バンブーオルガンの制作経緯
ディエゴ・セラ(Fr. Diego Cera, 1762-1832)は、スペイン北東部のピレネー山脈の麓、ウエスカ県グラウス村出身のオルガニストで、1792年に宣教師としてフィリピンに渡った。着任後すぐ楽器を制作し始め、最初に作ったピアノは早速話題になり、スペイン王に献上することも検討されていた。1798年頃には、マニラの聖ニコラス教会にパイプオルガンを作り、一部のパイプに竹が使われた。その後もマニラ市中心のイントラムロスにあるマニラ大聖堂や聖アウグスティン教会ほか数多くの教会のためにパイプオルガンを制作した。これらのオルガンにも竹が使われていたが、地震や台風などの自然災害や、独立戦争、第二次世界大戦の戦禍により、そのほとんどが消失し、現存しているのはラス・ピニャスのオルガンのみとなっている。
1795年にセラ神父がラス・ピニャス教区に着任した時、ラス・ピニャスは人口1200人ほどの寒村で、人々は農業や漁業、そして製塩業で暮らしていた。村には、教会の施設は何もなかったため、神父はまず仮設の礼拝所と修道院を作った。現地で容易に手に入るニッパヤシと竹が材料として用いられた。因みに神父は村に初めて橋をかけたことでも知られており、楽器制作のみならず、建築や設計の才能もあったらしい。1796年には、小規模ながら聖歌隊や弦楽オーケストラが結成され、礼拝の際に伴奏していたという。神父が教会のための土地を購入したのは1797年だが、石造りの教会が完成するまでにはその後20年以上かかった。1916年ようやく教会の屋根がつき、側壁の塗装が始まった頃、神父はパイプオルガンの制作に取り掛かる。オルガンのパイプに竹が使えることは、それまでのオルガン制作で十分実証できていたため、ラス・ピニャスのオルガンはほぼ全て竹で制作することとし、まず、材料となる竹の準備に取り掛かった。竹の中に糖分や澱粉質が残っているとすぐに虫がつき、劣化が早くなるため、セラ神父は竹を伐採した後、近所の砂浜に半年ほど埋め、竹の耐久性を高めるための工夫をした。完成したオルガンの1000本あまりのパイプのうち85%が竹で、水平リード管など残りは金属製であった。また、オルガンを覆うケースや構造物には、竹ではなく、カリン、ビテックス、黒檀などが使われた。風箱には、水牛と豚の獣皮が使われた。オルガンの上部には、王冠の装飾が施されており、宗主国スペイン王国の象徴と見られる。バンブーオルガンは典型的なスペイン・バロック様式のオルガンで、以下のような特徴がある。(1) オルガンは、教会の側廊の後方左側に置かれている。(2) 半音階の一段鍵盤と手動の風箱、鍵盤のc/c#の間に分割ストップがある。(3) ペダルの音域は1オクターブ。(4) 装飾目的のダミーパイプの存在
バンブーオルガンのストップ一覧は、Organographia Philipinianaのウェブサイトを参照
バンブーオルガンの修復
バンブーオルガンは、1824年に完成したが、その5年後の1829年に地震が起こり、教会の建物の大部分が損壊し、オルガンも大きな被害を受けた。1832年にセラ神父が亡くなった後も、度重なる地震や台風があり、その度に教会やオルガンが被害を受け、歴代の神父が修復を続けてきた。しかし、1896年からスペインに対するフィリピンの独立戦争が始まり、ラス・ピニャスも戦乱に巻き込まれると、オルガンはすっかり見捨てられ、その後20年あまり使用不可能な状態が続いた。1917年になってようやくヴィクトール・ファニエル神父(ベルギーのカトリック修道会であるCICM(淳心会))のイニシアチブで全面的な解体を伴う修復が行われ、1924年には電動の送風装置が設置された。1926年、紀州徳川家第16代当主で音楽学者でもある徳川頼貞が東南アジア諸国を歴訪した際、フィリピンにも10日間滞在した。日本の知人の勧めで、バンブーオルガンを見にラス・ピニャスを訪れ、その時の印象を以下のように述べている。「オルガンは前面の一列のみを除き全部竹製で、私が想像していたよりも、ずっとスケールが小さかった。(中略)セラ神父はこれと同型のものを今一つ造って本国エスパニヤ王に献上したが、それは今日残っていない。一説にはマドリッド宮殿にあるともいわれているが、明らかでない。従ってこの竹製パイプ・オルガンは世界唯一のものである。1888年から1917年まで全く使用されなかったために、私がはじめて見た時、教会つきのオルガニストに弾いて貰ったが、調子はずれのところが多かった。音域も相当あり、音色も丸みがあってゆかしく、笙を連想させる。竹の多い日本などで、今後この種のものを造ったら、きっと面白いであろうと思う。」 頼貞はその後、第二次世界大戦中の1942年に、フィリピン島軍最高司令官顧問として一年間フィリピンに派遣され、文化面の宣撫活動に従事した。バンブーオルガンの文化的価値について理解していたので、当時の行政府長官だったヴァルガスに、このような文化財はフィリピン人の手により修理すべきとフィリピン政府を説得し、修復経費が政府予算では不足する分はマニラ大司教に働きかけて調達し、さらに自らの俸給も寄付した。オルガンは1943年初めにスペインから派遣されたパイプオルガン技師ロイナス父子により修復されたが、傷みが激しく完全な修復には至らなかった。その後第二次大戦終盤の爆撃でマニラは焦土と化し、ラス・ピニャスも大きな損害を受けた。
1960年、フィリピンに駐在していたドイツ大使がバンブーオルガンをドイツで修復しようと資金を調達したが、オルガンを国外に輸送することのリスクの点から現地から反対の声が上がり実現しなかった。当時、水平リード管や低音部のパイプは接続されておらず、23あるストップのうち音が出るのは3つだけだった。しかも風箱からは空気が漏れてしまう状況だった。オルガンの5分の1程度しか機能していなかったのだ。
1970年代に入り、オルガンの全面的修復について再度検討された結果、ドイツのオルガンビルダーであるヨハネス・クライス・オルゲルバウ社がドイツのボンで修復することになった。同社のハンス・ゲルト・クライス(Hans Gerd Klais)は、子供の頃からマニラのバンブーオルガンのことを父親から聞いており、いつの日かこのオルガンを修復できたらと夢見ていたが、1966年にオルガンの視察に来て、その深刻な状態を目にした際、「この美しい音色は徐々に消えていく」と懸念を抱いた。1972年にオルガンの状況の最終検査が行われた時もクライス自らが立ち合い、オルガンにとり最も適切な修復方法が検討された。その結果、竹管については、環境変化による損傷を避けるため、まず、気候の似た日本に送付し、日本で修復したのちにドイツに送り、ドイツでもフィリピンと同様の温度・湿度に設定された特別な工房で組み立てられることになった。1973年、バンブーオルガンが解体され、竹管は日本へ空輸され、それ以外のパーツや全体構造部分はドイツに向けて船便で送られた。日本には、クライス社で研修を受けたヤマハの日本人技師が2人おり、1970年の大阪万博では竹製のオルガンを共同制作し出展した経験があることも修復地に選ばれた理由である。
ドイツでのオルガン修復にあたり、修復後もフィリピンで継続的にオルガンの維持管理ができるように、フィリピン人のオルガン技師の養成がなされた。レイテ島でピアノ会社を経営しピアノの修復もしていたマルシアーノ・ハセラ(Marciano Jacela)に白羽の矢が立てられた。ハセラは、カール・デュイスベルク財団の奨学金を得てドイツに渡り、ドイツ語を習得してからボンでのバンブーオルガン修復チームに加わった。クライスのバンブーオルガンの修復方針は、可能な限りセラ神父が製作したオリジナルのオルガンの状態に戻すことを旨とした。1000本あまりのパイプのうち、新しく入れ替えられたものは86本のみで、そのうち53本が竹管、33本が金属管だった。それ以外のほとんどの竹管はオリジナルのまま修復されたのだ。1975年、クライス社での修復が完了し、同年2月18日、ボンで完成記念コンサートが開催された。
ボンでオルガンが修復されている間、ラス・ピニャスでは、教会の建物自体の修復も進められた。これには、地元の多くの住民がボランティアで参加し、ラス・ピニャスのコミュニティが一体になって取り組んだという。壁には古来のレンガが使われ、彫像や装飾も修復され、地元の素材を使ったシャンデリアやランプがかかり、天井は竹で覆われた。
バンブーオルガンは、輸送のため再度解体され、1975年3月、ドイツからフィリピンに空輸された。ベルギーのサベナ航空が輸送協力をした。ラス・ピニャス到着後は、クライス社のオルガン技師と共に帰国したマルシアーノ・ハセラがオルガンを組み立て、5月9日にはオルガン帰還記念コンサートが行われた。演奏者は、ボンでの記念コンサートでも演奏したドイツのトリア大聖堂のオルガニスト、ヴォルフガング・エームス(Wolfgang Oehms)ほか、ラス・ピニャス少年合唱団、フィリピン文化センター交響楽団などで、ヨーロッパのオルガンのスタンダード曲のほか、フィリピンの作曲家に委嘱された曲も演奏された。
バンブーオルガン・フェスティバル
ラス・ピニャスにバンブーオルガンが戻った翌年の1976年2月、エームスによるコンサートシリーズとオルガンワークショップが開催されることになった。ドイツによるオルガン修復事業の一貫で、フィリピンのオルガニストのための研修機会を提供するものだ。スペイン統治時代に作られたこの特殊なオルガンのことは当時のフィリピン人にはほとんど知られていないという問題意識もあった。戒厳令下のフィリピンでは、このオルガンフェスティバルは中立的なイベントであり、メディアにも多く取り上げられ、結局、その後毎年恒例のイベントになっていった。
ラス・ピニャスのバンブーオルガンは、このフェスティバルによって、フィリピン国外のオルガニストたちにも知られるようになり、海外から多くのオルガニストがフェスティバルに招かれた。ドイツのエームス、オーストリアのヨハン・トルマー(Johann Trummer)、スイスのガイ・ボベット(Guy Bovet)は何度も招かれ、今までに延べ20か国近くの国からオルガニストが参加している。日本からは、1982年に久保田清二氏が参加している。また、オルガニストのみならず、指揮者、ピアニスト、歌手、室内楽アンサンブル、オーケストラ、合唱団も海外から招聘され、招聘音楽家によるワークショップ、セミナーなども行われてきた。
歴代のフェスティバルの芸術監督(Artistic Director)は、Fr. Leo Renier (ベルギー、1976〜1982年)、Miles Morgan(アメリカ、1983〜2000年)、Della Besa(フィリピン、2001〜2008年)、Armando Salarza (フィリピン、2009〜2022年)で、2023年はBevely Shangkuan-Cheng(フィリピン)が務めている。
2023年のバンブーオルガンフェスティバルの概要は以下の通りである。
(1) 名称:The 48th International Bamboo Organ Festival
(2) 会期:2023年2月23日〜3月4日
(3) 主催:バンブーオルガン財団(The Bamboo Organ Foundation)
(4) コンサート(ラス・ピニャス地域):
2/23、2/24、2/25 ヨーロッパとラテンアメリカのバロック音楽【聖ジョセフ教会】
出演者:Armando Salazar(オルガン)、Carolyn Kleiner-Cheng (ハープシコード) 、Raphael Leone (ピッコロ/オーストリア) 、Collegium Vocale Manila(合唱)、Manila Baroque Ensemble(室内合奏団)、 Eudenice Palaruan(指揮)
演目:ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ《2台のチェンバロのための協奏曲》、ヴィヴァルディ《ピッコロ協奏曲RV 356》、コレルリ《合奏協奏曲作品6第4番》、ウィリアム・バード《Laudibus in sanctis(モテット)》、Cristóbal de Belsayaga《Magnificat sexti toni a 8(16-17世紀コロンビアで作曲された合唱曲》、ビリャンシーコ(17世紀のスペイン歌曲)
2/26 フェスティバルのミサ 【San Ezekiel Moreno Oratory教会】
2/27 リュク・ポネ オルガンリサイタル 【聖ジョセフ教会及びJohann Trummer Auditorium】
出演者:Luc Ponet(オルガン/ベルギー)、Raphael Leone (フルート、ピッコロ)
演目:【前半/聖ジョセフ教会】フランシスコ・コレア・デ・アラウホ《Tiento de medio registro》、アブラハム・ファン・デン・ケルクホーフェン《Salve Regina》、マルティン・シュミット《Sonos mo Organo – Piezas del Primer tono》、ウェーバー《ピッコロとオルガンのためのコンチェルティーノ》、ベンジャミン・ブリテン《Pan》
【後半/Johann Trummer Auditorium】バッハ《カンタータ 第29番シンフォニアニ長調》《前奏曲とフーガBWV547》《トリオ・ソナタハ長調 BWV 529-ラルゴ》、ベートーヴェン 《音楽時計のための小品》、ジョゼフ=エクトル・フィオッコ《組曲ト長調》、ジョン・ラター《古風な組曲》
3/2 聖週間の音楽 【San Ezekiel Moreno Oratory教会】
演目:19世紀ラス・ピニャスの合唱曲《Hosanna》、バッハ《コラール BWV727, 622, 630, 543》《マタイ受難曲BWV244(抜粋)》
出演者:Armando Salazar(オルガン)、Collegium Vocale Manila、Las Piñas Boys Choir、Stefanie Quintin-Avila(ソプラノ)、Ryan Arcolas(アルト)、Ervin Lumauag(テノール)、Manila Baroque Ensemble、Carolyn Kleiner-Cheng (ハープシコード)
(5)アウトリーチプログラム(ラス・ピニャス以外でのコンサート)
2/25 リュク・ポネ オルガンリサイタル【マニラ市San Beda教会】
3/2 リュク・ポネ オルガンリサイタル【パンパンガ州BetisのSantiago Apostol教会】
3/4 聖週間の音楽 【マニラ市セント・スコラスティカ大学内チャペル】(3/2のコンサート内容と同様)
(6)その他のプログラム
2/25 Dr. David Kendall(サントトーマス大学客員教授)による特別レクチャー「スペイン統治時代のフィリピンの音楽とオルガン文化」
オルガン関係者の育成
バンブーオルガンフェスティバルは、バンブーオルガン財団(Bamboo Organ Foundation Incorporated)によって運営されている。1978年にバンブーオルガンの保存と普及を目的としてCICM修道会関係者が中心となってラス・ピニャスに設立された非営利組織であり、この財団を通じて、フィリピン人のオルガン関係者が何人も育成されてきた。アルマンド・サラルザ(Armando Salarza)はオルガンと教会音楽を、ゲラルド・ファハルド(Gerado Fajardo)は合唱指揮を学び、エドガー・モンティアーノ(Edgar Montiano)およびシーリン・タグル(Cealwyn Tagle)は、オルガン制作を学んだ。
彼らは、オーストリアのグラーツ音楽大学の教会音楽研究所長だったオルガニスト、ヨハン・トルマー(Johann Trummer)が中心となり、ラス・ピニャス少年合唱団の団員の中から選抜された。タグルは、オーストリア、ドイツ、ベルギーで研鑽ののち、フィリピンに帰国し、1994年にラス・ピニャスに設立されたディエゴ・セラ・オルガンビルダー社(Diego Cera Organbilders, Incorporated)の中心になっている。ラス・ピニャスのバンブーオルガンのメンテナンスのみならず、フィリピン各地に残っている歴史的に重要なオルガンの修復や、新しいオルガンの制作も国内外で行っている。サラルザはオーストリアに渡り、グラーツとウィーンの大学で学位を取得し、フィリピンに帰国後は、ラス・ピニャス少年合唱団で指揮と団員の指導をしているほか、セント・スコラスティカ大学等でも教鞭をとっている。同大学には5年間のパイプオルガン専科があり、オルガン演奏の学士号が取得できるフィリピン唯一の教育機関となっている。
参考資料:
バンブーオルガンフェスティバル
ウェブサイト
Facebook
公式プログラム(2015年及び2023年)
ラス・ピニャス市ウェブサイト
『The Bamboo Organ of Las Piñas (Second Edition) 』(Helen Samson-Lauterwald著、Bamboo Organ Foundation, Inc, 2006年)
『オルガンの芸術−歴史・楽器・奏法』(日本オルガニスト教会監修、道和書院、2021年)
『頼貞随想』(徳川頼貞、河出書房、1956年)
ヤマハホームページ(パイプオルガンの仕事について)
「世界最古の“竹製”パイプオルガン「バンブーオルガン」、ドイツと日本の技術で蘇った音色(フィリピン)」(福田美智子、サライ.jp)
Organographia Philipinianaウェブサイト
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