演ずるということ
元演者であるお友達と久しぶりの再会。
演ずるということについて語り合う中で、彼女は長年活動した演者としての経験談を語ってくれた。
ある演出家から公演直前で、昨日までと全く反対の要求をされた。積み上げてきたものが変わると演者は不安な気持ちになる。
「いま不安やろ?でもその不安な気持ちをお客さんは観にきてるんだよ。」と演出家は答えたらしい。
突然の話題に、私は意味をすぐには読み取れませんでした。
人は悪かった時には振り返るが、よかった時にはあまり振り返らない。
どのように良かったと感じたのかも振り返る。
でもそれをただ技法として繰り返すだけはそれは「加工」。
いい状態を型にはめすぎない。
だからといって型が全てにおいて悪いわけではない。
プロが調子が悪い時に良い出来の型を知っていることはある。
ただ、アマチュアの場合は毎回自分の演技と同じ感動がまた得られるということはない。
だから加工せずに同じ演目でも一から作り出す意識が大切。
技術に秀でて向いてる、技術がなくても向いてる。色んな人がいるけど、感性は大切。
技術だけでは「ようできてはる」の感心で留まる。感動はお客さんの心に残る。
そこで原点回帰。
演出家の言葉はそういうことなんだなと理解した。
うまくできないことを深刻になっているだけは何も産み出さない。
深刻ではなく真剣であれ。
歌にしても演技にしても観る聴く人がいる。
相手に伝わることが大切だが、その伝えも受けとる側で違って当然。押しつけることはできない。
演じる側の主観が強すぎても独りよがり。
客観的視点は大事だがどちらにも偏りすぎるとよくない。指導者は演者が客観や主観に寄りすぎるのを調整する役割。
演じて表現しているが、そこに少し距離をおいて考える。
人形劇士はそういう面では自分自身の少し前に演ずる主体が存在するので、客観視しやすいのかもしれないね。と演出家は彼女に話したらしい。
そういう視点で指導者の言葉を聞き取ると、いま自分がどのような状況になってるかを少し距離をおいて見れるかもしれないと感じました。
「演ずるものに距離をおく」と表現すると理解しにくい人もいる。
これも感覚的なもので人に伝える時には自分のやり方でしか伝えられない。
人は正解を求めすぎる。
正解があると安心するから。
でもそれは人の答えであって、必ずしも自分の答えになるとは限らない。
自分で感じられるようになるまでには時間がかかる。
何年も前に演じたものも、いまならこう表現するかなと思うことはよくある。
指導で言われたことが心に残るのもそう。
意見が違ってぶつかったとしてもその感覚は起こり得る。
その時、心が揺さぶられたから月日が経っても残る。
人形の表現にもここまで横に傾けるなど、一定ラインを越えないことが演ずる中での「自然」動作として求められる。
ただ、そのラインをほんの少しだけ越える。
そこに伝えるもの、感動があることもある。
ずっと越えっぱなしは「不自然」となる。
そこから同化と異化の話題へ。
話は尽きない。
心が揺さぶられる
そんな演奏を私もしたい。
好きなことに一生懸命であることを恥じるな。
真剣であれ。