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これは映画に”まつわる”本だ。「まつわる」ということは「について」ではない。「渚にまつわるエトセトラ」が渚についての話だけではなく、メリケン波止場やさみしそうなペリカンも含めるように、そのものの周辺もひっくるめる。この本に印刷される言葉や写真達は映画との距離を長短しながら自分達が適度だと思える範囲を浮遊する。よしんば映画と一体になれるなんて思わない。フラッと近づいては遠ざかりながら、なんだか心地いいところを探してみる。さて、そんな夢みたいな地点があるのか、という問いこそが今回のManiecのテーマ、「ユートピア」だ。

まず、僕たちが書きたいのはユートピアにまつわることではなく、映画にまつわることなのだから、今更20代も中盤にさしかかった男女4人が大真面目に「ユートピアってなにさ?」とか「私にとってのユートピア」みたいな戯言を書きはしないだろう。そんなぬるい戯言では私たちは満足しないのだ。もっと諧謔的に、もっと無稽に、もっと妄誕に、ユートピアと戯れていく。

「四畳半襖のユートピア」と書いてみる。僕たちが書きたいのはこの言葉から立ち現れてくるナニモノかについてなのだ。四畳半という小さな部屋で生まれる慎ましくも心が充足している、そんな些細な幸せに気づく、みたいな綺麗事を想像するのであれば、この本を閉じたって構いやしない。そうか、「裏張り」こそがユートピアなのだと試しに断定してみる、そんな勇気あるヘンテコリンに向けてこの本は生まれた。こんなことは僕たちにとって朝飯前で、「ユートピアよこんにちは」とつぶやいてみては、主演がジーン・セバーグでいいものかと頭を悩ましてみる。つまり、たった120年やそこらしかない映画のありもしない歴史を「ユートピア」というあてがいぶちのキーワードで検索をかけ、キュレーションしてみると、意外と面白いじゃねえかという荒唐無責任さが、恥ずかしげもなく「映画に”まつわる”本だ」という言葉を紙に定着してみせる莫迦さや可笑しさが、この本を貫いている。

だからこの本に書かれるであろう言葉たちが、映画そのものになったり、ユートピアそのものとなったりすることはない。ただ、 もしこの本が印字してみせるユートピアなる地点が、僕たちがユートピアだと思ってたどり着いたどこか遠くが、既に存在するある映画のどこかを映し出していたら、これほどの喜びと悲しみはない。

前文 高橋壮太

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