子供心と僕らが夢見てきたもの
少し前は「子供心」っていうやつがすっかりなくなってきているような気がしてた。20代前半ってそんな時期で、無理して背伸びして、子供時代をスレて見下して見て、僕らはもう子供なんかじゃないって言ってみたかったのかもしれない。
でも、20代後半に突入も間近になると、子供心っていうやつをどんどん取り戻しているような気がするんだ。
大学を卒業した僕らに待っていたのは、絶え間ない労働で、利益を追従するために、試行錯誤を繰り返す日々だった。挫折しそうな自分をなんとか支えきって、大人として責任を持って生活していこうと努力する。当然、楽しくないこともたくさんあるし。大人はみんなこうだったのか、と頭がさがる思い出もある。
まぁそうなってくると、自分にとって本当に大切なものはなにかってことに気づいてないとやってられない。私の場合、辛い時に支えてくれるのは、幼少時代の記憶だった。自分の中の記憶に、自分にとって大切なことがなにかってことを教えられる日々だ。
でも、記憶って曖昧なものだ。時間を客観的に閉じ込めておくものがカメラで撮った映像だとしたら、記憶は都合よくふくれたり縮んだりした、編集済みの時間で、本当にあったこととは違うのだと思う。本当にあったこと、って想像による補完にどんどん侵食されてって、本当にそれが本当にあったことなのかどうかはすっかりわからなくなる。記憶は、私のなかにある、そんな風に伸び縮みしたユートピアであり、ディストピアだ
人間は進化の過程で、自分にとって辛くて苦しい思い出のほうが、記憶しやすくなったらしい。生命の危機に近い出来事をよく覚えていられるように、学習して危機を回避するように、そうなったようだ。
ズートピアに暮らすニックも、幼少時代の記憶から、志したことを諦めてしまったひとりだった。
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