ブロンコ・ビリーにまつわるエッセイ 西部劇であることの必要性について

 どの映画にも当然のように映っていながら、まるで映っていないかのように扱われているモノがある。映画だけではない。私たちの暮らしにはそんなものが山のようにある。しかしそのあまりにも当然すぎて見逃していた細部が、ふとしたときに映画の中にいる者や物を動かしたとき、忘れ去られていたその存在を急に主張したときは感動的だ。 だからといって「ブロンコ・ビリー」の主人公であるクリント・イーストウッドがかつて存在した西部劇のカウボーイをアメリカ各地で今更ながら演じている姿を見て、「西部劇」やそれを構成する「テンガロンハット」「リボルバー式の銃」「インディアン」といった要素がその忘れ去られている細部であるということを主張したいのではない。映画を見ることは「西部劇」の歴史や意義や背景といった知識のある者のみに許された行為ではなく、視力ある者なら誰しもに許された行為のはずだ。

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