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可能性の育て方は色々。
日曜の朝、図書館から借りてきた「仏教図鑑」を夫に読んでもらう娘たち。「みーちゃん、神様になりたいから、これをやろうと思う」
そう唐突に言いながら、見せてくれた仏教図鑑の1ページには、
[ マネしちゃいけない!お釈迦様の苦行の数々 ]
そう、書かれている。神様(お釈迦様)になるために、娘は苦行をするらしい。
「えっと….」どこから会話を始めたらいいか迷う。「この前は、絵描きになりたいって言ってたよね…?」そうさりげなく聞く私に、娘は少々照れながら言う、「それは、もういいの 」と。
「あと、マネしちゃいけないって書いてあるよ?」一応確認する。すると「みーちゃんは大丈夫」と。何が大丈夫なのかはわからない。でも、自信たっぷりに娘は言う。(絶対真似しないでね)
「食べ物を何日も食べられないよ?」食べることが大好きな娘には、結構きついと思うけど...そう思いながら伝えると、「水は飲んでいいんでしょ?」意外な答えが返ってくる。
ー
娘は結構しぶとい。そして、目的のためには、それなりの努力をも惜しまないタイプだ。
最終的には、「そもそもさ、なんで神様になりたいの?」そう聞く私に「だって神さまって偉いんでしょ?」娘は、解りきったように言う。
『うーん….確かに偉いけど、偉くなるために神様を選ぶのは、ちょっと違う気がする。』そう思うも、私がなんと言おうと娘の意思は変わらない。だから、「神様になれるといいね。」そうとだけ、伝えることにした。
「ありがとう」娘は素直にお礼を言い、また黙々と仏教図鑑に目を通す。
小1時間ほど過ぎたところで、おやつの時間。すると、苦行のことは何処へやら、ケラケラと笑いながら双子の相方とお菓子を食べる….
ー
結果はどうであれ、すぐに好奇心を抱き、夢中になる娘たち。ぽわん、ぽわん、ぽわん、ぽわわんと、あちらこちらで好奇心の芽が出ては消え、出ては消えていく。
その一つ一つを、全力で夢中になって見にいく娘。『自分なら出来る!』そう信じきっている。そして、すぐまた別の事に夢中になり、やりっ放し状態も少なくない。
でも、大人になると、ついつい先のことを考えてしまう。自分を世間の物差しで測って、『これだったら大丈夫』とか、『これは先ず、あり得ない』とか、そう言う基準がいつの間にか出来上がる。
それは、当たり前といえば当たり前だけれど、そんなモノサシ無しで、ただただ自分の『好き』とか『好奇心』の赴くままに全身全霊で取り組む大人が増えたら、どうなるだろう?
簡単なことじゃないけれど、
きっと大人だからこそ出来る面白さが、
そこにはあるはず。
とはいえ、仕事や家族、求められる役割、自分の固定観念などなど、そんなに軽やかに子供のようにはいかない。
だとするならば、先ずは自分の可能性の種みたいなものを、のんびりと育ててみるのは、いかがでしょう。
『ちょっと面白そう』
『なんとなく、好き』
『理由はないけど、やってみたい』
なんの役に立つかもわからない、説明のつかない小さな好奇心をすくい上げ、それが消える前に小さく関わってみる。その先を考える隙すら自分に与える前に。
そんなことをたくさん経験し、自分の可能性を放牧するように、ゆるく育てていく。無理に意味をもたせようとか、何かの役に立てようとか、そういうモノは今は一旦置いといて。
すると、いつの間にか自分の求めている応えが意外な形で見つかるかもしれません。
ほぼ、自分に言い聞かせているんですけどね…
皆さんも、よろしかったら一緒にどうでしょう? 可能性の放牧を。