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過去に囚われているようで今の劣等感に囚われている

自分の今の状態が、世の中一般に「普通」とみなされるものでない自覚は多分にある。
それは、自負ではなく引け目だ。

30年以上の時間、ゆるやかに繋がりが途切れずに付き合いの続く友人がいる。自分と真逆で、真っ当に就職しずっとその会社に勤め、結婚し子供を育て、どこにも瑕疵のない人生。(良し悪しではなく、私の見方)でも、濃い薄いはあれど、ずっとゆるやかに関係を続けてこられた貴重な友人だ。
その彼女から、共通の古い友人へ連絡先を伝えて良いかとLINEが来た。懐かしい、しかし高校卒業後全く交流のなかった友人の名前。久しぶりにクラス会が計画されているのだという。連絡先は伝えて欲しいと返信したものの、若干の躊躇いと居心地の悪さを感じた。

中学時代、私はそれなりに良い思いもしたが、辛い思いもした。でも、後の人生に必要なものを装備するために必要な時間だったと思う。その後の高校時代で得たいものを得るために抜かすことのできないステップだったはずだ。
今の自分は、その通り過ぎたように感じた場で出会った人たちと、今は会いたいとあまり思わない。嫌いな人はいるし、大勢との久しぶりコンタクトを重ねるヘビーさは、想像するとげんなりする。
それは、過去に囚われているからなのかと思ったけれど、その実、今の引け目やそこに関わるネガティヴな被害妄想に囚われているだけだと気づく。結局、今の自分がずっと好きじゃない人生なのだな。寂しい諦観。シンプルに旧交を温めよう、とストレートに思えないことが残念でしかない。

具体的な連絡はまだない。どうそれらしく断ろうか今から妄想する自分の浅ましさよ。

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