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【2/5】誰かを好きになれたら
誰かを、好きになれたらー『何でもないふりして生きているけれど』2/5
「ありがとうございました!」
下北沢のこじんまりとした四階建ての雑居ビル。その三階にある小さな舞台で、彼が真剣な顔で頭を下げる。この顔を見たのは四度目だ。
一度目は六年前、私が大学三年生、彼が大学一年生の時だ。アルバイト先の居酒屋に新人バイトとして入ってきた彼は、初々しくて無邪気な男の子だった。初めのうちは慣れない新生活にてんやわんやしていたようだけれど、周りの空気を読むのが得意で、器量と人当たりの良さを持ち合わせた彼は、あっという間にムードメーカーになっていった。アルバイト同士は同世代が多く仲が良かったけれど、どこか馴染みきれていなかった私も、周りを巻き込むのが上手い彼のおかげで、休日に彼らとバーベキューに行くまでの仲になった。
彼がバイト仲間でのクリスマスパーティーを企画していた頃、これでもかとまちを照らすイルミネーションと師走の喧騒をくぐり抜けて居酒屋にたどり着いたお客さんたちは、皆どこか浮足立っていた。私はネクタイがすっかり緩んだサラリーマン五人組の席に、何度目か分からないオーダーを取りに行った。注文を尋ねてもすぐに返事は来ず、代わりに男たちがニヤニヤした顔で目配せをし合っている。またか、と思った。またかと思いながら、お決まりですかともう一度尋ねると、五人の中で一番声の大きい男が私の腕を掴んで、
「おねーちゃんくだちゃい」
と言ってきた。暑いくらいに暖房がかかっている店内で、一気に鳥肌が立つ。周りを見渡したけれど、忘年会シーズンで込み合う店内で、他の卓を気にする余裕のあるスタッフはいない。
冷静に。冷静に。何でもないふりをしてもう一度オーダーを聞こうと息を吸うと、汗ばんだ気持ち悪い手が不自然に私から離れた。反射的に横を見ると、彼が男の手を心配になるくらい強く握っている。
「そういうのは他所でやってください」
見たことのない真剣な顔をした彼が、聞いたことのない低い声でそう言った。
五人の中で一番まともそうな男が、
「すみません。生五つください」
と言ってくれなかったら、あのまま喧嘩になっていたかもしれない。そのくらい、いつものおちゃらけた様子が全くない、真剣な眼差しだった。
二度目はそれから一年と少し経った後。私が大学卒業を目前に控えた一月のことだった。二つ年下の彼はその日が成人式で、式の後は高校の同窓会に行くと、前日の電話で教えてくれた。私はクローズまでシフトに入っていて、お客さんが誰もいなくなった店内の清掃をしていると、何やらバックヤードが騒がしい。キリの良いところで切り上げてバックヤードを覗いてみると、いつもと違うビシッとしたスーツ姿に、いつもと同じ明るい笑顔の彼がいた。
「麻衣さん!」
私を見つけて、もともと笑っていた顔が、もっとフニャンと、かわいい子犬のような笑顔になる。
「無事成人を迎えましたってことで、いつもお世話になってる店長と皆さんに、晴れ姿見せに来たっす!」
本当にこの人は。そういうところだぞ、と思う。人の心にするりと入り込んで、結果的にみんなを巻き込んで幸せな時間を作る。この人のそういうところを、私は尊敬していた。
彼はみんなと写真を撮って、
「お邪魔しました!大人初日に皆さんと会えて最高っした!」
と調子の良いことを言って、台風のようにお店を後にした。私もシフトを終えて、私服へと着替える。店を出て従業員用の駐輪場に行くと、背中を丸めてしゃがみ込んでいる彼がいた。近づいてみると、何かボソボソ言っている。名前を呼ぶと、うわー!とまるでお化けでも見たかのように飛び跳ねた。
「麻衣さん、あ、えっ、お疲れさまです。これはその、ストーカーとかではなくて、えっと……」
「私を待ってたの?」
そう言うと彼は伏し目がちに頷いた。
「あの、俺。本当は麻衣さんに見せたくて来たんです、スーツ姿」
「え」
「俺、今日誕生日で。成人式もしたし、ちゃんと大人になりました。だから……」
二度目に見た真剣な顔で彼が言った言葉を、私は生涯忘れないだろう。
「俺の彼女になってください。必ず幸せにします」
今まで誰のことも好きになれなかった私の遅い初恋が、実った瞬間だった。
それからは彼と穏やかな毎日を過ごし、三度目の真剣な顔を見たのは五年後のこと。一緒に過ごす彼の五度目の誕生日だった。私は社会人五年目の二十七歳、彼は三年目の二十五歳。この頃の彼は残業が多く、さらに仕事終わりも何かと忙しいようで、なかなか二人の時間が取れずにいた。久しぶりに私の家に来た彼は、すっかり板についたスーツをいつもの場所にかけると、キッチンへ手伝いに来てくれる。
「美味そう。ありがとう」
そう言って、キッチンに立つ私に後ろから短くて弱いハグをしてくれる。彼の笑顔はもう、フニャンとした子犬のような笑顔ではなく、一人の立派な男性の顔になっていた。
二人でビーフストロガノフを盛り付けて、彼が買ってきてくれたワインを開ける。久しぶりに二人で食べる夕食が嬉しくて、私は浮かれてたくさん話をしたけれど、彼の相槌はどこかぎこちない。いつもは私をまっすぐに見つめながら笑顔で話を聞いてくれる彼が、今日はビーフストロガノフばかりを見つめている。
「ごめん、美味しくなかった?」
と尋ねると、彼はハッとして慌てて顔を上げる。
「いや!めちゃくちゃ美味しいよ!麻衣さんのビーフストロガノフは何度食べても美味しい。もう毎晩でも食べたいくらい!」
「えっ」
その言葉に過剰に反応してしまったのは、心のどこかでプロボーズを期待していたからだろう。そして私の過剰な反応に、彼もそんな期待を察してしまったらしい。彼はスプーンを置いて私を見る。
「麻衣さん、食事中でごめん。大事な話、しても良い?」
私もスプーンを置いて、ドキドキしながら頷く。
「俺ね、今年度いっぱいで仕事を辞めようと思ってる。やりたいことができて、それに挑戦したい」
「やりたいことって?」
「劇団を立ち上げて、演劇をやりたいと思ってる。俺って何をやっても人並だし、今まで本気でやりたいこととかもなかったから、麻衣さんと付き合えたのが、人生最上級の奇跡で。そこそこの会社入って、営業やって、そこそこ出世して、麻衣さんと理想の家庭みたいなのを作って、幸せにしたいと思ってた。だけど俺、初めて本気でやりたいことを見つけられて。演劇ってすごくて、俺のそういう何もないところ、今まで必死に隠してきたそういうところが武器になるんだって思えて。だから俺、いい歳してこんな無謀な夢語るの、馬鹿みたいだって分かってるけど、でも俺、挑戦したいんだ」
本当にこの人は。そういうところだぞ、と思う。申し訳なさと恥ずかしさで声を震わせる彼を、私は強く長く抱きしめた。だって、すごく素敵だと思ったから。周りにいる人たちを巻き込んで、笑顔にすることが得意な彼にぴったりな、素敵な夢だと心から思った。私だって仕事をしているし、私は彼さえいれば、誰かが描いた「理想の家庭」じゃなくていい。
「すごく素敵。ぴったりの夢だね」
そう伝えて目が合った彼は、想像していたのとは百八十度違う顔をしていた。
「だからごめん。麻衣さん、俺と別れてほしい。俺じゃあなたを、幸せにできない」
彼の夢に私はお荷物なのだと突き付けられたあの日、私は彼に、それでもそばにいたいと伝えることはできなかった。どんな形になろうと彼の未来に自分がいると信じて疑わなかった、思いあがっていた自分が恥ずかしくて、自分が当たり前のように夢見ていた未来が夢のまま終わってしまうことがわかって、私は余裕なふりをして、「分かった、応援してる」と言うのが精一杯だった。私のその言葉を聞いた彼はありがとうとだけ言って、静かに涙を流しながら、ビーフストロガノフをすべて食べてくれた。喉を通らなくなってしまった私の分もすべて。そうして空になった二枚の大きなお皿だけが、部屋に残った。
* * *
二つ並んだ歯ブラシとか、色違いのお箸とか、そういうものを丁寧に捨てて、彼のいない週末に慣れてきた六月の半ば、久しぶりに彼から連絡が来た。
〈お久しぶりです。連絡が迷惑だったらごめんなさい。劇団を立ち上げて、八月に初めての公演をします。もし良ければぜひ、麻衣さんに見てほしいです〉
下北沢のこじんまりとした四階建ての雑居ビル。ドキドキしながら階段を登る。友人には、一方的にフラれた男の舞台なんて見に行くことないよ、と言われたけれど、私はどうしても彼が本気で作り上げる世界を感じたかった。
公演が始まると、舞台の中央にスポットライトを浴びた彼が現れる。そこにいるのは確かに彼なのだけれど、顔も声も別人みたいで、演じるってこういうことなのだなと思う。
夢の中に理想の世界を作り上げ、貝殻に閉じこもったまま出てこないヤドカリ。彼が演じる主人公は、そのヤドカリを何とか殻から出そうと苦闘していた。その過程でヤドカリに投げかけたたくさんの言葉たちは、彼が彼自身に向けて叫んでいるのだろう。悩みながらも発する言葉、どうにかヤドカリを殻から出そうと苦闘する姿に、主人公が元カレであることも忘れて物語に没頭していた。純粋に目の前で繰り広げられる物語にただただ感動して、涙があふれて止まらなくなった。
物語が終わり、ステージが暗くなる。再びステージが明るくなると、出演者が一列に並んでいた。その真ん中にいる彼は、今まで見たなかで一番真剣な顔をしている。
「ありがとうございました!」
という彼のまっすぐな声に続いて、出演者たちが頭を下げる。再び顔を上げると、そこには私が知っている彼がいて、仲間と共に達成感に満ち溢れた表情をしていた。
本当にこの人は、と思う。こういうところをもっと見せてくれてよかったのに。こういう胸の内を、もっと聞かせてほしかったのに。背伸びをして伝えてくれたどんな口説き文句より、今日の君の口から出てくる言葉が、私は一番好きだった。私のために理想の家庭を作ろうと無理する君よりも、殻を破って舞台に立つ今日の君が、六年間で一番かっこよかった。そう思いながら溢れる涙を拭っていたら、同じ列に座っていたお姉さんの帰り道をふさいでしまっていた。いけない。私も外に出なくては。
余韻に浸る帰り道。あんなに素敵な人と五年という歳月を過ごすことができて、私はとても幸せだったのだと改めて感じた。そして願わくば、私はあの人と、この先も一緒に生きていきたかったなと思う。彼の夢に私はお荷物なのだと突き付けられたあの日、どんなあなたでも一緒にいたいと、大好きだと泣いてすがれなかったのは、大人の余裕ではなく私の弱さだ。舞台上で声を大にして叫ぶ彼の姿を見て、そう痛感した。
今からでもこの思いの丈を伝えたら、君は寄りを戻そうと言ってくれるだろうか。ううん、やっぱり伝えてあげない。私じゃなく夢を選んだ彼への、ささやかな抵抗だ。次に誰かを好きになったら、どんなに自意識過剰と思われようが、私は声を大にして、何度だって好きだと伝えよう。何度だって、一緒にいたいと伝えよう。そう決意しながら、角を曲がる。さようなら、私の初恋。
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2024年7月に制作した全5編からなる短編小説集の第2話でした。
『何でもないふりして生きているけれど』
1.夢の向こう
2.誰かを好きになれたら
3.彼女の背中
4.私を閉じ込めていたのは
5.そして、海へと向かう
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