【短編小説】ちふれ473
「もう少しあったかくなったらさ、2人でピクニックに行こうか」
冬の終わりに彼と交わした約束。
彼からの連絡が来る日と来ない日を繰り返しながら、少しずつ、春が近づいてくる。
「お先に失礼します」
そう告げると、彼はパソコンから顔を上げ、
私の方を見て小さく右手を上げる。
私は、彼にだけわかるよう、少しだけ口角を上げて頷く。
カップルみたい。
だなんて浮かれた独り言を心のなかで呟き、職場を後にする。
職場の前の桜並木。
はち切れそうなほどに膨らんだ蕾が、今か今かと春を待っている。
あとちょっと。
きっとあとちょっとで、この蕾は綺麗な花を咲かせるだろう。
帰り道に立ち寄ったドラッグストアで、何気なく通った化粧品売り場。ふと目に入ってきたブラウン寄りのオレンジリップをそっと手に取る。
春の穏やかな空気を詰め込んだようなその色を身にまとった私と、
隣で微笑む彼の笑顔が浮かんで、リップをカゴに入れた。
「昨日までの寒さから一転、本日は最高気温が十度も上がり、
温かい一日となるでしょう。
日当たりの良いところでは、桜も徐々に開花し始めています。」
彼は今日も家で仕事かなと思いながら、
気象予報士の声をベッドの中から聞く休日の昼さがり。
何の気なしに開いたSNSを見て、体温が下がっていくのがわかった。
芝生のうえにレジャーシートを敷いて、急須と湯飲みを二つ並べて、
花瓶に花を一輪生けて、お弁当を二つ並べて。
何度見返してもそれは、3日前の帰り道に、
何度も私にキスした彼がアップした写真だ。
写真の端には、綺麗に揃えられた女性ものの靴まで。
仕事が忙しくて、しばらくは休日も出勤なんだよねと言っていた彼が、
どうしてこんなことをしているのだろう。
あれ、私いま、どうしてこんなところにいるのだろう。
「昨日に引き続き、本日も暖かい一日となるでしょう」
どんなに会いたくなくても、仕事は仕事だ。
化粧台に座り、化粧をする。
彼のことを思うと平日だって楽しくて仕方なかったメイクも、
今日はただの義務でしかない。
憂鬱なまま化粧をして、最後にリップを悩む。
「あ、そういえば」
ドラッグストアの袋に入れたままだったオレンジのリップを取り出す。
楽しみにしていた彼とのピクニック。そのために買ったリップスティック。もっとウキウキした気持ちで使うはずだったのに。
でももういい。
もう、いい。
半ばヤケクソでキャップを外すと、
ふわっと春の風が吹いたような気がした。
リップの断面が、色が、艶が、あまりにも美しかった。
静かに、その色を唇に落としていく。
「春だ」
憂鬱な色をしていた顔に、パッと春の日差しが差し込んだような気がした。
あぁ、なんだ。
隣に彼がいなくたって、私はしっかり、春を楽しめるじゃないか。
「お先に失礼します」
そう告げると、彼がパソコンから顔を上げ、
私の方を見て小さく右手を上げるのがわかった。
けれど私は、もう彼の方は見ない。
自分を大切にしてくれない人は、もう、いらない。
職場の前の桜並木。
待ちきれずはち切れた蕾が、綺麗な花を咲かせている。
時折、枝を揺らす柔らかい春の風が、花びらを何処かへ運んでいく。
私はオレンジ色の唇をふっと緩め、桜の下を一人で歩いていく。