月と六文銭・第二十一章(16)
アムネシアの記憶
記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。
<前回までのあらすじ>
武田は新しいアサインメント「冷蔵庫作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店への訪問を決定した。津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の隠された仕事の日程を固められた。
出張当日の朝、武田は人身事故の混乱に巻き込まれ、銀座駅で動けずにいた。ディーラーの橋場紗栄子と同じ車両に乗り合わせた。
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橋場は懐かしそうに武田を見つめ、武田との食事を望んでいることを伝えた。
「武田さん、今度またご飯に連れて行ってください」
「いいですよ。
何がいいですか?」
「カニ、かなぁ」
「橋場さんも浜松町の中華に興味があるんですか?」
「私もって?」
「総務の女性陣に今度行きましょうと誘われて」
「そして、武田さんが全部払うんですよね?」
「うーむ、この場合、どうしたらいいのだろう?
会費制は変だし、私が誘ったわけではないので、私が全部出すのもちょっと違うような気がします。
各自が自分の飲み食いした分を払うのは冷たすぎるし」
「日本ですと割り勘がいろいろと無難ですが、武田さんの人気が落ちますね。
武田さんにご馳走してもらうのを期待しているんじゃないですか、皆さん?」
「そうですよね」
「そもそも、そういう店は武田さんみたいな人が一緒じゃないと行けないし、勝手がわからない人もいるんじゃないですか?
私はニューヨークであちらのマナーというか習慣をお聞きできたから恥をかかずできていますけど、教えていただけなかったら知らなかったこともありましたし」
「そんなことないですよ。
橋場さんはきちんとしていると思いましたよ」
「ありがとうございます!
あの時聞いてなければ、そして宮田君に説明しておかなかったら、BBGとのランチミーティングでは恥をかいただけでなく、ファンドの縮小も有り得ましたよ」
「そんなことはないと思いますが、確かにタイミングが悪いと見直しファンドに入れられちゃうケースもありますからね」
「あの時は円安に振れたから、それを材料に日本株に誘導できましたけど、そもそも、BBGの社内レストランの件を事前に教えてくださったから心の準備もできていました」
「BBGはニューヨーク外発祥のブティックですから、ニューヨークのマナーを良しとしない伝統が残っていて」
「でも、どうしてあんなことを知っていたのですか?」
「大庭監査役を覚えていますか?」
「損保から来た、いつも暇そうにしていたオジサンですか?」
<その年齢と立場でそういう言い方をするのは絶対やめた方がいいと思う、が、まぁ、今は放っておこう>
「そう、損保から来た監査役。
で、あの人、比較的若い頃、コロンビア大学に留学していて、本社から来るお偉いさんの接待と地元金融機関とのコネ作りが大事な仕事、いわばミッションだったんだ。
BBG最上階のレストランに飾ってある浮世絵はあの人が仲介してBBGが購入した物で、30年近く経った今でも季節ごとに入れ換えられているほど彼とBBGの関係の深さを示している。
損保とBBGの取引はそこから始まり、今でも1年に1人研修生をBBGが受け入れてくれるのはその関係の深さからだ」
「武田さんはどうしてそんなことを知っているのですか?」
「大庭さんがNYに出張兼NYオフィス視察にいらした時に朝食や夕食をご一緒させてもらって、懐かしい話を聞く機会があったからです」
「でも、BBGはかなり具体的ですが?」
「損保に加えて、当社AGIからも研修生を受け入れてもらえないか交渉に行った時にご一緒して、あの最上階のレストランでお食事しながら浮世絵やボストン・クラムチャウダー、BBGがなぜ航空会社に投資しないのかなどを伺ったんですよ」
「航空会社?」
「パンナムやユナイテッド、アメリカンなど」
ディーラーである橋場はファンドマネージャーが投資する個別の会社の名前などはよく知っている。しかし、どうしてそこへ投資するのかとなると値動きを見ているだけで、理由はニュースに載っていればいいが、そうでない場合は謎だった。
武田は一時ディーリングルームのディーラーたちにも運用戦略会議に参加してもらって投資の方針を知ってもらい、注文等にスピード感をつけてもらおうと考えたこともあった。しかし、自己勘定取引を扱う彼らが変に投資をして、他社のディーラーやファンドマネージャーにAGIの狙いが漏れる可能性がかなり高まることを避けるために断念したことがあった。
当然、橋場はこのことを知らず、ディーリングルームでは部長の木下しか知らない情報だった。
そう話しているうちに電車は虎ノ門駅に到着し、二人は降りて長い地下通路を歩き始めた。
「武田さんは日本政府が大昔に東京に地下トンネルをたくさん掘っていたって話、信じますか?」
「今の地下鉄が走っているのは大昔に掘ったトンネルということですか?」
「そうです、戦争中、第二次世界大戦の戦争中に皇居とか中央官庁を結んで行き来をしたり、必要なら脱出をしたり、できるようにしたという話です」
武田が対テロ狙撃をした際に、テロリストがそうしたトンネルを利用して国会議事堂の地下にある文書庫に侵入したのも事実だったし、狙撃後に武田が公安警察官から逃げる際にもそうしたトンネルを利用したのも事実だった。
もちろんすべてのトンネルを知っているわけではないので、国会議事堂下のトンネルについては肯定できるが、それ以外も同様の構造かは知らなかったので、否定もできた。ここは相槌を打つのが正解だろう。
「へぇ~、そうなんですか!
だから東京の地下鉄は数年で、つまり比較的短い期間の工事で開通できるんですね」
「そうなりますね。
最近、第二銀座駅の見学がサマーホラーアドベンチャーとして公開されていますが、戦後60年以上もの間、天井などが崩れる可能性があるから公開されていなかったんですよ」
「え、それは見に行かなくちゃ!」
「やっぱり興味がありますよね、そう言うの」
「と言いますと」
「ニューヨークの地下鉄の話をした時、メチャクチャ詳しかったので、東京の地下鉄も興味があるんじゃないかと思って」
「興味はありますが、ニューヨークの地下鉄は半端で、ほとんどの路線が溝を掘って線路を設置してから蓋をした感じで、日本のように完全にトンネルを掘ったケースとは別物ですけどね」
「あ、そういえば、どこかの駅に機関車のモザイクがありましたね」
「56丁目駅のことかな」
武田は思い出せないでいた。
「多分…」
「だからニューヨークの地下鉄は深くないし、トンネルも丸くないし」
「屋根というか天井がやわなイメージでしたね。
ワシントンの地下鉄はいかにも防空壕という感じでコンクリートの巨大な岩盤みたいのを組み合わせてトンネルを形成していましたね」
「あれは何かロンドンの空襲から学んだ感じの無骨さがありましたね」
橋場は頷いているとビルの地下鉄口まで到着し、二人でエスカレーターを上がり、虎ノ門のオフィスビルに到着した。
「あ、私スタバ寄っていきます」
「そうですか。
それでは、今度お食事に行きましょう」
武田はそう言って、電車の中での会話を忘れたわけではないことを伝えたが、基本的には橋場にお約束の確定を任せた。行きたいなら連絡してくるだろうし、社交辞令なら次に電車か会社の廊下でぶつからない限り出てくることのない話だろう。
武田はエレベーターホールの奥のかごに乗って一旦自分のオフィスのあるフロアに向かった。
だいたい良くないことがある時に自分の個室の前に人が立っている。今回はカブの渡辺が立っていた。何度か目である。「初めて」は外部講習会の交流会を勝手にサボって年齢の近いアナリスト達と飲み会をしていた翌日だった。
あれから渡辺は運用戦略会議のメンバーになり、運用の何たるかを毎日勉強してきたが、今回は武田が青森の津軽銀行に出張すると聞いて同行を申し出ていた。
武田は渡辺が納得いくプレゼンを用意して来たら同行を許すつもりでいたが、締め切りは昨日の正午だった。もちろん渡辺には告げてはいなかったが、準備を完璧にしておいてから出張する武田の性格を考えたら、直前まで変更が許されるはずもなく、少なくとも24時間以上前に何らかのプランを提出するのが普通だと思われた。