月と六文銭・第二十一章(02)
アムネシアの記憶
記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。
<前回までのあらすじ>
武田は運用部門の主要会議である運用戦略会議が終わった途端にメンバーに「議事録」を送っていた。議事録担当の土屋良子と後輩の三枝のぞみが会議室を出て自席に戻るまでの間に送りつけられ、げんなりしていた。
会議室に万年筆を忘れたのを発見したのぞみは土屋と武田の部屋に届けに行ったが、のぞみは土屋の予想外の行動に血の気が引いていたが、大人の対応をする武田とは事なきを得た気がしていた。
02・部長室
土屋とのぞみの二人は顔を突き合わせた。
<議事録を半分ずつ作れということだよね?>
「それでもいいですか?
私たちが二人で半分ずつを担当し、完成したら送るということで」
「先ほども言ったように、会議の結果を持って行動を起こすのでは遅いので、早く会議の結果を手元に置いておきたいのがメンバーの考えです。
もちろん、会議に出席したので内容は分かっていますが、メモが手元にあると自分の行動が間違いないことを確認できるわけです。
『言った、言わない』を防止する目的もあります」
「はい、承知いたしました。
そのつもりで次回以降対応したいと思います」
「いや、次回と言わず今回からお願いします」
「はい!
それでは失礼します」
二人は立ち上がり、会釈をした後、ドアに向かった。
「あ、土屋さん、ちょっといいですか?」
「え、あ、はい」
土屋は武田に呼び止められて、戸惑っていた。もうウンセンに出なくていいと言われる可能性があった。大将である武田に反論するなど、副長格の副田でさえしないのに、たかが4年目と3年目の小娘たちが、一人で会社に毎年数十億の利益をもたらす運用部長に楯突くなどあり得ない話だった。それを武田は後輩である三枝のぞみの前で言わず、一人にしてから諭すつもりなのか。
のぞみは心配そうに先輩・土屋を見ながら、お辞儀をしてから扉を閉めて、自席に戻っていった。
土屋は座り直し、武田の方を真剣な眼差しで見つめ、言われる前に謝ろうと口を開いた。
「あの、部長、先ほどの発言の真意は」
「土屋さん、アナタの発言の真意はどうでもいいです」
化粧を取った土屋の顔色はあまりよくなく、すっぴんでは人前に出られないと自覚していたものの、今は化粧をしていても血の気が引いているのを自分で感じていた。
<げ、やばい、完全に怒っている。温厚な人ほど怒るとまずい結果になる…>
「すみません、出過ぎたことを申し上げまして」
「いや、出過ぎたこととも思わないよ。
自分の考えを簡潔にまとめたいい意見だと思いましたよ」
「は、はぁ、ありがとうございます。
では、何が問題なのでしょうか?」
「君の発言には問題があるの?」
「呼び止められたので、お叱りを受けるものと」
「いや、ごめん、口封じの交渉をしようと思ったのだが」
「は?」
<私が武田のどんな弱みを握っているというのだ?>
「君がこの万年筆を会議室で拾ってくれたのかね?」
「はい、あ、いいえ、のぞみ、あ、三枝さんが会議室のテーブルの上に忘れてあったのをみつけ、部長が会議室に忘れたから届けに行こうと提案して、ここに来たわけです。
議事録の件は私の個人的な意見です」
「そうですか」
「はい」
「ならば、後で三枝さんも口止めしないといけないな」
「は?」
「この万年筆は銀座のフォース・フロアというクラブのママからもらった物なんです」
「はぁ」
土屋にはこの会話の向かっている方向が分からなかった。
「そのことを内緒にしておいてほしいのです」
「はぁ、貰って困るものではないと思いますが…」
「君は私の評判を知っているでしょ?
私はゲイで、いまだに結婚できないのはそのせいだとみんなは思っている」
「はぁ」
「だから内緒にしておいてほしいのです」
「はい、私の口からは誰にもいうことはありません」
「ありがとう。
席に戻られたら、三枝さんに私の部屋に来るよう伝えていただけますか?」
「はい」
「ありがとう。
そして、議事録の件、私のことは気にせず、作成をお願いします」
「はい、承知しました。
では、失礼します」
土屋は立ち上がり、扉に向かって歩き始めた。緊張していたのか、若干震えていることに武田は気が付いた。
30秒もしないうちに扉の枠を叩く音がした。
「部長、お呼びですか?」
のぞみが部長室に首を半分突っ込んだ状態で聞いた。
「ああ、三枝さん、入って、閉めて」
「あ、はい」
扉を閉めるということは個人的な話だということで、土屋も直前まで閉じられた部屋で武田と話していた。のぞみも同じように入室後、扉を閉めて椅子に座った。
武田の部屋のガラスはスイッチを押すと曇りガラスに変わる仕様だった。それを付けていないということは外から会議・面談の様子が見えても良いということだった。もちろん防音なので、何をしゃべっているのかは分からないが、時折武田と副田が激論を戦わせている様子が見られたり、評価面接で打ちのめされて首を垂れている中堅社員の様子も見られたりした。
そして、今回は土屋良子に続き、株式運用のホープ・三枝のぞみが投資運用部長である武田の部屋に呼ばれたのだ。かつては株式の若手、渡辺と鈴木が震えあがった、あの部長室だった。
「三枝さん、君がこの万年筆を拾ってくれたそうだね」
「はい、部長が会議室に忘れていたので、回収し、先ほど土屋さんと届けに来ました」
「ここに『お誕生日おめでとう!フォース・フロア一同』と彫刻してあるのが分かりますか?」
「はい、回収した時に見ました」
「これは銀座のクラブ『フォース・フロア』の順子ママが僕のために特別に作ってくれたものです。
皆さんに誤解を与えないよう、口外無用でお願いします」
「はい、承知しましたが、誰も気にする人はいないと思います。
部長の前の楠木部長はクラブのマッチやライターをそこら中に置いていて、いかに自分がモテるか自慢していました。
もちろん、会社のお金で行っていたのをみんな知っていましたから、誰も本気にする人はいませんでしたが」
「僕の場合は自分のお金で行っていましたが」
「それを気にする人はいないのが現状です。
親会社からのパラシュート組は会社の金を使うことに抵抗がないのが私達新卒組の気になるところで、誰がどうモテようが関係ありません。
早くそういった人たちがいなくなって欲しいと若手は本気で思っています」
「分かりました、ありがとう」
「では、席に戻っていいでしょうか?」
「はい」
「あ、気になることがあるので、お話ししてもいいでしょうか?」
「はい、どんなことでしょうか?」
「実は部長が良く会議室にペンやノート、消しゴムなどを忘れるようで」
「それではこれも内緒にしていただけるなら話しますが」
「はい、口外しません」
「実は私の脳は特殊な働き方をするようになっていて、一部の事実を記憶できないのです」
のぞみは「?」という顔をした。
「シナリオのシミュレーションのような計算量の多いことを考えるために、本来は記憶のために確保されている大脳の領域の一部をそうした計算をするために使用しています」
「コンピューターのROMとRAM、ハードディスクのような関係ですか?」
「そうです」
のぞみはそんなことを初めて聞いたし、部下として聞くよりも恋人を心配する女性として話してほしい内容だとすぐに感じた。
「待って、哲也さん、それって記憶に障害みたいなものがあるということなの?」
「のぞみさん、ここは職場ですよ」
「でも、そんな大事なこと、これまで一度も話してくれなかったじゃない?!」
「今まで誰も気が付かなかったから」
「私は記憶力抜群のこの人がどうしてペンとか消しゴムとか、筆箱を置き忘れちゃうのかすごく疑問だったのよ」
「そして、今回、土屋さんにも気づかれてしまったよね?」
「ごめんなさい、私は軽い気持ちで、『あ、また忘れ物してる』って感じで届けようと思ったんだけど、良子先輩の議事録の件も気になって」
「どうして僕の議事録があんなに速く正確にできているか分かる?」
すっかり、二人はいつもの感じで話していた。職場では徹底して上司・部下、或いは同僚でいるよう気を付けることにしていたのに、武田の問題となるとのぞみの心配は何よりも優先してしまうのだった。
のぞみはじっくり考えてから発言した。
「もしかして、その記憶障害のせいなの?」
「記憶障害と言われると病気みたいじゃない?
特殊な記憶の仕方というのが正しいと思うんだけど」