ラーダーラーニーの慈悲深い眼差し
『ラーダーラサスダーニディ3節』(RRS3_170901)
“シュリーラーディカーの美しい蓮華の御足の誇りは、ブラフマー、シヴァなどの偉大な人物でさえもなかなか得ることができない
シュリーラーディカーの慈悲深い眼差しは、最高に驚嘆する威力を持ち、人類が追い求めている、人生の目的のエッセンスの甘露の豊雨を降らせる
私はそのブリシャバーヌマハラージの令嬢、シュリーラーダーの輝かしい栄光に心から敬意を表します”
シュリーラーディカーの慈悲深い眼差し、クリパールドラ・ルディッシデス
よくラーダーラーニーの眼差しは、横目の眼差しと言われる
その眼差しというのは素晴らしい威力を持つと書かれている
『チャイタンニャチャリタームリタ』によれば、人生には、4つのメインの目的がある
ダルマ、アルタ、カーマ、モクシャ
ダルマとは宗教的、あるいは様々な義務
ダルマをすることによって、アルタ…お金、経済が潤う お金を得たならば何があるかというと、その時には自分の感覚を満足させることができる
感覚を満足させた後どうなるかというと、この世の輪廻転生からの自由、解脱を求める
この4つが人生の4大目的と言われている
ところが、クリシュナへの愛、プレマこそが人生の第5の目的だと『チャイタンニャチャリタームリタ』では述べられている
このプレマに比べると、開放で得られる喜びというのは、甘露の喜びの大きな大海があるとして、その一滴にも満たないということがここで述べられている
このクリシュナプレマを、実はバクティをやっている人は、ゴールとしている
ところが、このクリシュナプレマは得難いと通常考えられている
サーダナバクティを何年、何十年もやって、何回生まれてもやって、それでもプレマは得られるか、確かではない
ところが、ここに書いてるのは、もしシュリーマティラーダーラーニーが、慈悲深い横目の眼差しをチラッと投げかけてくだされば、その人は何の努力もしなくてプレマが得られると書かれている
ただ単に、「キショーリー、キショーリー」と、ラーダーラーニーの名前をセーヴァクンジャのところでただ唱えて、それだけで慈悲深い眼差しを得て、その人は人生の完成を得た、プレマを得た、という話がある
これはすごいことなのだが、何の特別な努力なく、という、これがすごい
ラーダーラーニーがもしその人を好んだならば、その人は、特別な努力をしなくていい、これがまさしくラーダークリパであり、グルクリパである
私たちのグルデーヴァはよく言うのだが、ヴリンダーヴァンにいて、ただ食べて寝ているだけでもそれでも良い、ただラーダーラーニーの慈悲を乞い願うだけでも良いと、そのようなことを言われる
このアナンタダースババジの解説の中には、パドマプラーナの中で、ナーラダムニが、シュリマティーラーダーラーニーに初めて会った時の経験が書かれてある
「私は、ラーディカを見た後に、ゴーヴィンダへの蓮華の御足へのこの愛の海をこれほど感じたことは今まで一度もない」と言っている
つまりラーダーラーニーを見ただけでプレマを得られると
このラーダーラーニーの心情でチャイタンニャマハープラブが現れた
チャイタンニャマハープラブは、ラーダーラーニーの慈悲深い性質を持って、そしてプレマを気前よく配った
『ブリハットバーガタムリタ』には次の節が書かれている
シュリークリシュナチャンドラの偉大なシュリークリシュナが降誕したことによって、
そしてラーディカが降誕したことによって、
つまりラーディカに会うことを通して、プレマが経験できると
そしてシュリーマティーラーダーラーニーの慈悲深い一瞥というものは、人生のゴールの局地であると
つまりこれは、クリシュナへの愛というのは、ラーダーラーニーの、シュリーラーダーの愛によって、さらに甘さを増す、ということ
この『ラーダーラサスダーニディ』の80節に、こう書いてある
ラーダーラーニーを崇拝しないで、クリシュナだけを崇拝する人、その人は、神聖な愛の、ほんの1滴しか持っていない、プレマの1滴しか持っていない、と
ラーダーラーニーを崇拝しないでクリシュナだけを崇拝している人は、プレマのほんの1滴しか持っていないのだ
チャイタンニャマハープラブがパールバティに言った節がある
クリシュナを瞑想し、崇拝している、そしてクリシュナの聖なる御名を唱えている、でももし、ラーダーを崇拝しなければ、その人は罪人である、と
これはマハープラブの意見なのである
これはすごく簡単にいうとわかりやすいこと
そもそもラーダーラーニーの名前はどういう意味かというと、クリシュナの最高の献身者、信者、ということ、つまりクリシュナを最高に喜ばせる信者というのはシュリーラーダーなのである
最初に、至上主は1人だけだった
しかし1人では楽しむことができない
そこで主は、ラーダーの姿になり、ラーダーを通じて喜びを得るようになった
実はラーダーだけでも不十分なのである
2人っきりで楽しむだけでは、そこにラサは少ないからである
ラサはどういう時に現れるかというと、出会いがあって、別れがあって、ハプニングがあって、アクシデントがあって、それでまた出会う、離れてまた出会う、これがないと、ラサが起こらない
ラサとは簡単にいうと、感動、心のときめき、わくわく感ということ
ラサを味わうには、ラーダーラーニーの友人、サキーが必要
そして、ラーダーラーニーの側近のマンジャリーも必要
全て揃って、ラーダーとクリシュナが様々な嬉戯ができる
2人だけだと楽しみが完全、完璧ではない
つまり、ラーダーラーニーを抜きにしてクリシュナを崇拝するとはどういうことかというと、マドゥーララサがないということ
特に、最高のウジワリャラサがないということ
恋人関係の、結婚以外のラサがないということ
5種類のラサの中で最高に甘い部分が、いわゆる結婚外の、パラモ、というラサ
それがないとするならば、非常にヴリンダーヴァンリーラーは、満ち足りていないリーラーになる
『ラーダーラサスダーニディ』の80節にはこう書いてある
ゴーヴィンダ、クリシュナの、個人的な交際を望んで、ラーダーの奉仕を放棄する人、その人は満月の夜も経験しないで満月を楽しむ人、そして、シャーマ、クリシュナの大きな喜びのほんの1滴しか味わえない人だと書かれている
例えばすごく美味しい食べ物、飲み物があるとする
特別に美味しいヴリンダーヴァンのラッシーがあるとして、暑い時にそのラッシーを1滴だけ飲んで、満足しますか?という話
満足しませんよね?
夏の暑い時は、コップ1杯飲んでももう一杯飲みたいくらい
とするならば、1滴というのは、どれほどの価値があるかということ
つまりこれは比喩だが、ヴリンダーヴァンのリーラーというのは、ラーダーとクリシュナで初めて成り立つ、このラサの海が完璧に満たされる、ということ
ですからラーダーなしでクリシュナだけを崇拝する人には、何かが欠けている、ということ
これは実際に、ヴリンダーヴァンのラサを味わっている人には、よくわかります
このような形で、このシュリパーダナプラボーダナンダサラスワティは、ヴリンダーヴァンのラサにおいて、ラーダーラーニーの栄光、ラーダーラーニーの一瞥がどれほど素晴らしいかということを述べている
『ラーダークリパカタクシャストトラ』というのがある
これは主シヴァが言ったのだが、ラーダーラーニーのこの慈悲深い一瞥をどうやったら得られるのだろうか、そういう祈りである
これはヴリンダーヴァンにいる、特に、ラシカ、と呼ばれる人々は日々唱えているもの
例えば第一節に何が書かれているかと言ったら、
三界の全ての嘆き、悲しみを簡単に破壊する、と
プレマをくれるわけなので、三界の嘆き悲しみは簡単に消し去るのである
そして、ラーダーのこの一瞥は、全ての望みを叶えてくれる、と
そして、シャーマスンダラのダルシャン、クリシュナのダルシャンも簡単に与えてくれる
そして、このラーダークリパカタクシャというのは、ラーダーをクリシュナの永遠のリーラーの中に入る資格を与えてくれる
私たちは資格がない
ところが、ラーダーラーニーのクリパ、ラーダーラーニーの一瞥を得ることによって、私たちは資格ができて、ラーダーのリーラーに入っていくことができる
ジャイジャイシュリーラーデー!