復活節の福音から。:かわいそうなトマのはなし(復活節第二主日)
カラヴァッジオ「聖トマスの懐疑」(1599年頃 サンスーシ宮国立美術館)
この日すなはち一週のはじめの日の夕、弟子たちユダヤ人を怖るるに因りて、居るところの戸を閉ぢおきしに、イエスきたり彼らの中に立ちて言ひたまふ「平安、汝らに在れ」
かく言ひてその手と脇腹とを見せたまふ、弟子たち主を見て喜べり。
イエスまた言ひたまふ「平安、汝らに在れ、父の我を遣し給へるごとく、我もまた汝らを遣す」
かく言ひて、息を吹きかけ言ひたまふ「聖霊をうけよ。汝ら誰の罪を赦すとも其の罪ゆるされ、誰の罪を留むるとも其の罪とどめらるべし」
イエス来たり給ひしとき、十二弟子の一人デドモと呼ばるるトマスともに居らざりしかば、
他の弟子これに言ふ「われら主を見たり」
トマスいふ「我はその手に釘の痕を見、わが指を釘の痕にさし入れ、わが手をその脇腹に差入るるにあらずば信ぜじ」
八日ののち弟子たちまた家にをり、トマスもともに居りて戸を閉ぢおきしに、イエス来たり、彼らの中に立ちて言ひたまふ「平安、汝らに在れ」
またトマスに言ひ給ふ「汝の指をここに伸べて、わが手を見よ、汝の手をのべて、我が脇腹にさしいれよ、信ぜぬ者とならで信ずる者となれ」
トマス答へて言ふ「わが主よ、わが神よ」
イエス言ひ給ふ「汝、我を見しによりて信じたり、見ずして信ずる者は幸福なり」
この書に録さざる外の多くのしるしを、イエス弟子たちの前にて行ひ給へり。
されど此等の事を録ししは、汝等をしてイエスの神の子キリストたることを信ぜしめ、信じて御名により生命を得しめんが為なり。
ヨハネ傳福音書二十章 十九節~三十一節
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復活節、第2主日。ここで読まれる福音の主要登場人物は聖トマです。
毎年、この個所の朗読を聞くたびに「トマさん、ずいぶんワリを食ってるよねえ」って思います。だってフラットに読むと…トマさんって、たまたま間の悪いことに復活したイエスが弟子たちの前に現れた時にその場にいなかったってだけなんですよね。
でもって戻ってきたら「イエスさん生き返ってきた!」ってみんなが盛り上がっていたわけです。その場にいたら「え、ええ?」って戸惑いながらでも、トマだって絶対わくわくしてたはずなんですよ。
でも自分はその盛り上がりに出遅れちゃったわけで。そりゃもう超「ぼっち感」あるじゃないすか。まわりが盛り上がれば盛り上がるほど孤独感が増すじゃないですか。そしたら「そんなのオレ信じねっすよ、だって見てないっすから。バッカっみてえ、みんな」ぐらい言いますよね。トマさんの気持ちわかるなあ、ワタシ。
なのに、まさかの戻ってきたイエス当人からゴリゴリ詰められるってゆー。
「なんだコラ。信じないっていうなら、手の釘穴にてめえの指でも突っ込んでみろや、オラ」って凄まれるのって理不尽じゃない?だってほかの弟子さんたちだって「イエスさんに会って、見て、信じた」わけじゃないすか。
そのうえで「まあね、見て信じるなら誰でも出来っからね、見ないで信じられたらチョーいいよね…オマエには出来ないけど」って、イエスさんけっこうヒドくない??
ここから言葉を真面目にして語るなら。
聖トマは極めて理性的であったのかもしれません、でも「師イエスの復活」を信じられなかった弱い心の持ち主だったのかもしれません。「見ないのに信じる人は、幸いである」と復活した主イエスによって、その弱さを自覚した彼の行動はどうだったか?
まさに彼は「見ないのに信じる」幸いな人々を探し出す旅の果てに命を落としたのでした。彼は十二使徒の中で最も遠くまで、当時ローマ人と交易のあった最果ての地であるインドへと布教に行き、そこで全身に槍を受けて殉教したと言われています(考えてみると最後までコミュニケーションエラーに祟られた人生ですね)。
思い返せば、師イエスの処刑を翌朝に控えた夜、処刑の前にひと目でもイエスに会うために公邸に潜り込む情熱家ペトロ(…前回は「脳筋」とか言ってたくせに)は、その行動ゆえに、師イエスの言葉通り、朝を迎える前に三度「イエスの弟子である」ことを否認します。
イエスの一番弟子であることを本当に誇りに思っていたはずの彼が三度イエスを否んだ時、鶏が朝を告げ、師の言葉を思い出したペトロは激しく慟哭します。
初代教会の宣教において聖ペトロと並ぶ立役者である聖パウロ。じつはイエス自身とは直接の関与が無い唯一の使徒です。もともと熱心なユダヤ教徒でイエスの弟子(初代のキリスト教徒)たちを弾圧して廻っていました。そんな彼が主イエス・キリストの光に触れ、「キリストを伝えるもの」となった時、かつての「迫害者」である自分とどうやって折り合いをつけていこうとしたのか。
ご存知のとおり二人は、激しい弾圧のなかユダヤからギリシア、ローマの教会を歴訪し熱心にキリストの福音を述べ伝え、最後はローマで殉教を遂げます。伝説では十字架刑にかけられようとしたペトロは「主イエスと同じ死に方は畏れ多い」と逆さ磔で死んだのだといいます。
僕はなんとなく、彼らのこの無茶としか思えない「キリストを述べ伝える」エネルギーの出所を「一旦は主イエスを否定したこと」、そして「にもかかわらず主によって使命を与えられたこと」に見出してしまうのです。それはずいぶん独善的なのかもしれないし、初代教会の信仰の捉え方として間違っているのかもしれませんけれど。
さて。今回はここまで。
復活節の福音はイエスの「死からの復活」を描いたいくつかのエピソードを通じて初代教会の信仰と信徒の在り方を教えています。
復活節の終わり、聖霊降臨の主日の福音を読んでからもう一度復活の主日からの「使徒たちの宣教」にもどるとなかなか面白いので、そこらへんを踏まえてぼちぼち更新していく予定(たぶん時間かかりますけど)。少なくとも全8回ぐらいにはなるんだろうなあ。
では、神の光があなた方の足元をいつもあかるく照らして下くださいますように。
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