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復活節の福音から。:走れ、ペテロ!(復活の主日)

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週のはじめの日、朝まだき暗きうちに、マグダラのマリヤ墓にきたりて、墓より石の取除けあるを見る。
乃ち走りゆき、シモン・ペテロとイエスの愛し給ひしかの弟子との許に到りて言ふ
「たれか主を墓より取去れり、何處に置きしか我ら知らず」

ペテロと、かの弟子といでて墓にゆく。
二人ともに走りたれど、かの弟子ペテロより疾く走りて先に墓にいたり、屈みて布の置きたるを見れど、内には入らず。

シモン・ペテロ後れきたり、墓に入りて布の置きたるを視、また首を包みし手拭は布とともに在らず、他のところに卷きてあるを見る。

先に墓にきたれる彼の弟子もまた入り、之を見て信ず。
彼らは聖書に録したる、死人の中よりその甦へり給ふべきことを未だ悟らざりしなり。

遂に二人の弟子おのが家にかへれり。

ヨハネ傳福音書 第二十章一節~十節
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イースター。春分の日のあとの最初の満月に最も近い日曜日と定められていて、今年は4月4日。
日本ではキリスト教最大のイベントはクリスマスだと思われがちですが、本当はこちらが最大のイベントですからね?ニーチェが言うよりはやく神が死んで甦って、そんでもって人が死を克服しちゃいますからね!どったんばったん大騒ぎなんだからね!?

さて、復活の主日のミサの福音朗読は、上記の「使徒ヨハネの福音 20章1-10節」が定番。
キリストが復活して墓からいなくなっているといういわゆる「空の墓」エピソードは4つの福音書にあって、それぞれちょっとづつエピソードが違っています。この違いってのを福音記者の個性や成立の背景みたいなところと照らし合わせるとすごく面白いのですが、説明すると長くなるので(いつかいつかと言いながら20年ちかく経ってるけど)パスして、今回はヨハネ書から、空の墓を目の当たりにした三者三様の行動に絞っておハナシしましょうか。

まず登場するのはマグダラのマリア。
俗説ではイエスの愛人とも元娼婦ともいわれるイエス様ファンクラブ代表みたいな扱いの彼女。週が明けてすぐ、真っ先に墓にやってきます。ほかの福音書にも共通する、この婦人たちの行動についてのちょっとした考察は少し前に書いたので、よろしければ。

独断的聖書解説:復活祭「推しの墓に泣きに行く。」

それで。ほかの福音書だとここで婦人たちが天の使いに会ったりするんですけど、ヨハネ書ではそれに先行してすっごくあざといエピソードをひとつ追加してるのですね。ソレがこの使徒ふたりが空の墓を訪れるパート。ある意味で唯一、復活したイエスを目の当たりにする以前に使徒たちが能動的な行動をとったエピソードだったりします(ので史実かどうかとても胡散臭い、しかもヨハネ書だし)。あ、ルカ書にも1節だけ似た記述があるんですが、そこは後世の加筆と言われています。

えー、動転したマリアはとりあえずどこかの隠れ家にいた使徒たちに事態を告げに行きます。
「たいへんたいへん!だれかがイエスさまの遺体を盗ってっちゃったみたい!あたしの…じゃなくってみんなのイエスさまなのに!!」的な感じかな。

そりゃ大変と真っ先に駆け出したのはご存じペトロ。脳筋行動隊長の面目躍如ですね。
後に続くは十字架上のイエスさんから「ウチの母ちゃんのこと、よろしくたのむな」って言われたことで一躍有名になった「イエスに愛された弟子」ことゼベダイの子ヨハネ。若さに任せた健脚でペトロさんを追い抜き、先にお墓に到着します。

…ところで、キリスト教絵画では割とおじいちゃん風に描かれちゃうペトロさんなんですが、考えてみると「ヨハネ教団から独立して地元で新団体を旗揚げしたイエスさんに心酔して、一緒に故郷ガリラヤ湖畔を後にした血気盛んな漁師の兄ちゃん」なんで、この頃まだ30代なんじゃないのかなとも思うんですけど、それはさておき。

先についたヨハネくん、外から覗き込んでたしかに遺体を包んだ布だけがあるのを見ますが、この時点では中に入らずにとりあえずペトロパイセン待ち。
遅れてきたペトロパイセン、ずかずか墓に入ったと思えば意外に細かい観察眼を発揮して「遺体をくるんだ布と、頭部を覆ってた布が別のところに置かれている」ことに気づきます。

「おかしいと思わないか、ヨハネくん。誰かが持ち去ったのであれば布はまとめておかれているはずだ、いやむしろ布をにくるんだままで運び出すのが普通だろう…これは、もしかしたら。」「も、もしかしたら?」「もしかしたのかもしれないぞ…ヨハネくん」みたいな?

ここで振りかえってみると3人の「空の墓」についての認識はこんな風。

マリア「お墓の蓋が空いていて、あたしのイエス様のご遺体が持ち去られてしまったっぽいんですぅ」(空の墓を見ていない・復活を信じてない)

ゼベダイの子ヨハネ「はい。たしかに墓は空でした。遺体を持ち去ったにしては不自然で、ペテロさんはなにか気づいているようです」(空の墓を見た・復活を信じてない)

ペテロ「えーと、信じらんねーけど、もしかしてコレさ、イエスさん、生き返ってんじゃね?」(空の墓を見た・復活を信じはじめた)

まあ、福音記者ヨハネはそこまで書いてはいないし、むしろ「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」って書かれてるんですけど、なんでか割と伝承的には「ここでペトロさん、ちょっとピンときた!」って扱いになってるんですよね。ふしぎ。

それじゃあ、なぜペトロはなんとなく気づくことが出来たのでしょー?。

答えは簡単。「だってよ、イエスさん、生きているうちに散々そう言ってたじゃねーかよ!」です。

なにせペトロさん、イエスさんがエルサレムに入城してこのかた「このままの流れだとオレ刑死するけど大丈夫、甦ってくるから」って言うたびに「縁起でもねえこと言うんじゃねえ、てめえはオレがカラダ張って守ってやんよっ!」って言ってたし、実際にイエスさん捕縛されたときには戦士スキルもない漁師なのに剣で切りかかってうっかり相手の耳そぎ落としちゃったりしてますから。

まあその割には捕縛された後は逃げちゃって未練がましく様子をうかがって「鶏が啼くまでに私を三度否む」なんて予告を実現しちゃったりしてるんですけどね。空の墓に全力疾走できたのだって週末は隠れ家にずっと籠ってたからだろうし。

まあペトロさんは「いつも一言多い単細胞で脳筋な兄貴分」ポジションで、ガリラヤ湖の畔からエルサレムまでイエスさんのすぐ脇をずーっといっしょに歩いてきた人なんで、このとき「よくわかんないけどなんだかわかった。イエスさんの言ったこと信じていい気がする」って言えた感じなんだろうなあって思うんですよね。

さて。今回はここまで。

復活節の福音はイエスの「死からの復活」を描いたいくつかのエピソードを通じて初代教会の信仰と信徒の在り方を教えています。
復活節の終わり、聖霊降臨の主日の福音を読んでからもう一度復活の主日からの「使徒たちの宣教」にもどるとなかなか面白いので、そこらへんを踏まえてぼちぼち更新していく予定(たぶん時間かかりますけど)。少なくとも全8回ぐらいにはなるんだろうなあ。

では、神の光があなた方の足元をいつもあかるく照らして下くださいますように。

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