あなたに首ったけ顛末記<その17・闇で目を凝らすから星は輝く>【小説】
あなたに首ったけ顛末記<その17>
◇◇ 闇で目を凝らすから星は輝く ◇◇
(21100字)
<1>御崎十緒子・天地より降りて昇る星
(4000字)
『それで、十緒子。そろそろ目を開けてみてよ』
とみちゃんの声が、聞こえたような気がした。
でも、とみちゃん。
やっぱり私、怖いんだ。
『……目を開けてもいい、閉じててもいい、それは十緒子が選ぶこと。
それでいいんだ、十緒子はそれでいいんだよ』
うっすらと、目を開けて。
いつもの自分の部屋のベッド、布団の中にいる、とわかった私は、まぶたの重さに抗わずに、そのまま目を閉じた。
長かった夢の、終わり。
眠りと覚醒の間でふらふらとした意識が、つかまるところを探すように、私の記憶のあちこちに触れる。
昨日、は。
付き合っている彼、春臣と一緒に、お互いの誕生日のお祝いをして、お泊りもした。
たくさんキスをして、ハグしあって……。
だから、そう。
ここにいる私は、26歳の……じゃなくて、27歳の私。
6歳の私、ではない。
……そして、昨日までの私とも、違う。
いまの私には、記憶がある。
あのとき失ってしまった、6歳より前の記憶。
ついさっき、顔を合わせた、男の人。
あれはやっぱり……おとーさん、だった。
頭の中で糸がこんがらがって、ぐじゃぐじゃの、繭のようになって。
ほんの一瞬だけ、私ってなんだっけ、と思う。
とみちゃんや思い出した記憶の中の人々が、私を呼ぶ声を手掛かりに、糸に絡まれたようになっていた、自分の名前を、引っ張り上げる。
いまここで、ベッドに横たわっている、この体の持ち主。
私は……御崎、十緒子。
そして、おとーさんの名前は、御崎、玄。
十匹のヘビのみんな、が……さっきも、おとーさんのことを『玄』と、名前で呼んでた。
そう、昔から。
おとーさんのことを、おとーさん、と呼ぶのは、私だけだった……。
「……だけど、ね。高緒様と真緒が、大広間に来る前に。しまったことに、彼らの邪が、急に活性化して……」
少し遠くから、私の耳に流れてくる、男の人の声。
おとーさんの声、だ。
懐かしさを通り越して……胸が、きしむように痛い。
「……そうこうしているうちに。邪にすっかり取り憑かれてしまった人間が激昂して、俺を罵倒して……その様子を目の当たりにさせられた、邪に侵されていなかったほかの親族たちも。増殖した陰の気と邪に囲まれ、毒気に当てられて、陰の気を増してしまって……」
これは、夢じゃない。
そして、たぶん。
「……結局、そのとき。幸か不幸か、御崎本家にいたほとんどの人間……招かれていた親族、使用人たちが、その大広間に集まっていて。あとは高緒様と真緒を待つだけ、という状態だったんだ……」
御崎本家、大広間……高緒様、真緒……。
耳が拾う単語、ひとつひとつが。
さっきまでの、夢の中で思い出していた、記憶の情景と重なっていく。
私は、その昔語りに耳を傾ける。
忘れていた過去の、いくつもの場面が、私のまぶたの裏に流れてくる。
目を、開けているのか、それとも閉じているのか。
開けたいのか、閉じたいのか。
どうして私は、まだ選べないんだろう……。
「……真緒と高緒様はね、『もっと早く決断して、大広間に向かっていれば』と言った。華緒子ちゃんも……」
つかの間止んでいた声が、ふたたび語りはじめた。
知っている、やさしい声……でも少し、悲しそうな声だと思った。
◇◇◇
真緒と高緒様はね、『もっと早く決断して、大広間に向かっていれば』と言った。
華緒子ちゃんも、『私が目を離しちゃったから』と言って、たくさん泣いて。
でも俺は、俺のせいだと思ったよ。
俺があんな、ふがいないところなんか見せなければ。
もっと上手く立ち回っていれば、あんなことにはならなかったのに、と。
いま思うと、誰のせいでもなかったんだな、と思う。
もちろん、十緒子のせいでは、決して、ない。
だけど、十緒子にはつらい思いをさせてしまっただろうから、それだけは……俺のせいだと、思うんだ。
十緒子は。
俺を、守ろうとしたんだから。
……そう。
陰の気と邪が満ちてしまった大広間に、十緒子が来てしまったんだ。
華緒子ちゃんと一緒に、大人たちから避難していたはずの十緒子が、大広間の続きの間から突然、飛び出してきたんだ。
俺は、声も出なかった。
そうやって、俺が呆然としてる間に……十緒子が、おとーさんをいじめちゃダメ、みんなおねがい、おかたづけして、って叫んで。
十匹のヘビ様たちそれぞれが、邪や陰の気を浄霊しはじめた。
……そこまでは、まだ、よかった。
十緒子が俺を守ろうとして……邪と、目を合わせてしまうまでは。
目が合う、それだけのことが。
ひどく危険なことなんだって、水野くんなら知ってるかな?
怪異と目が合う、それはつまり。
怪異にこちらの存在、居場所を教える、というのと、同じ意味だ。
俺は過去にそれをやらかして、車の事故を起こして、死にかけたことがあってね。
事故から何年も経って痛み出したこの足も、その後遺症。
それなのに。
そんな代償を支払ったことがあるくせに。
十緒子にはまだ、怪異と相対する術を、ちゃんとは教えてなかった、それもわかっていたはずなのに。
大事な場面で油断して……邪を纏い、邪に乗っ取られかけた人間に、押し倒される、なんて。
それを十緒子に見せてしまう、とか……。
邪は乗っ取った人間ごと俺を喰らおうとして、俺の持つ黒のヘビ様の守りに弾かれた。
でも十緒子がそこで、俺を守るように俺と邪の間に入り、邪と向き合って。
しまった、と思ったときには、もう遅かった。
十緒子の目をふさぐ前に、十緒子は邪に気付かれ、そして。
邪としっかり目を合わせてしまった十緒子は、その力を、暴走させてしまったんだ。
……ヘビ様たちはそのとき、十緒子のすぐ近くにいて、十緒子を守るようにしながら、浄霊していた。だから、十緒子に危険なんか及ぶはずもなく、目が合ったとしても……邪がそれで、十緒子を襲おうとしても、それは絶対に不可能だったんだ。
でもそれは、俺の見解であって。
十緒子には……怪異とほぼ初めて向き合った、6歳の十緒子が、そういう理屈で安心できる訳なんかない。
俺の気付くのが遅くて、十緒子に怖い思いをさせてしまった。
邪に見つかって、のぞき込まれる、というあの……俺でも我慢できない不快感を、もろに浴びせてしまった。
そもそも十緒子は普段から、陰の気すらも、過剰に気持ち悪がっていた。だから、余計に……。
……十緒子の。
悲鳴……叫び声が、響いて。
その次の瞬間、十緒子の体が、その場に崩れ落ちて。
そこには、幽体になってしまった十緒子が、いたんだ……。
◇◇◇
『おとーさんをっ、いじめちゃダメーっ! みんなおねがい、おかたづけしてっ!』
かつて、自分が発した声音を、思い出す。
私は、おとーさんを守りたかった。
ただそれだけ。
だから、あのときも。
とっさに、おとーさんを襲おうとした邪の前に立った。
なんの考えもなかった……見つめちゃダメ、って言われてたことも、忘れてた。
……記憶と共にずるずると、芋づる式に掘り起こされる、様々な感覚。
あの、邪にこちらをのぞき込まれてしまったときの、背中から這い上がってくるような、気持ち悪さ、までも……。
『や……やだっ、っ、やああああああああああっっ!』
6歳の私は叫び、それを拒絶する。
それが自分に侵入してくる、耐えがたい気持ち悪さ。
私はたぶん、本能で逃げた。
その方法を突然理解して、そのとたん。
私は体から離れて軽くなり……そうして、つながった。
あの……集合知、とも呼べる場所。
それとつながると得られる、途方もない全能感。
子供だったそのときは、ただ。
『わたしはなんでもできる』、そう思った。
私は、知っている。
どうすれば奴らを、消し去ることが出来るのかを。
この怒りと憎しみを、気のおもむくまま、発散する方法を。
……とおこ、わかるよ。
おかたづけするのなんて、かんたん、だよ。
なんでもね、できちゃうんだから。
あれは、わるいヤツ、だから。
ぜったいに、ゆるさないんだ。
とおこが、おとーさんをまもるから。
おとーさんを、まもる。ぜったいに。
だから……。
みんなを、呼んだ。
十匹の、ヘビのみんな。
でも、いつもの呼び方じゃない。
幽体になった私は、みんなと直接つながった。
……だって、そのほうが手っ取り早くて、楽だから。
私の思う通りに、みんなが動く。
私とみんなは、すごく深いところでつながっている。
私はみんなを、私の体として使う……みんなの意思を、無視したままで。
そして。
そう。
ふたつの『星』を作って。
そのふたつを、重ねれば、いい。
みんなと、あの場所とつながった私は、それを実行する。
……白。
それには、紫と灰、青と桃。
白は星の核となり、4つと結ぶ。
紫、灰、青、桃はそれぞれと結び、白を囲んで、星をつくる。
……もうひとつは、緑。
それには、黄色と橙、茶と赤。
緑もまた、星の核となり、4つと結ぶ。
黄、橙、茶、赤はそれぞれと結び、緑を囲んで、星をつくる。
それは邪を、すべての障りを呑み、浄化する星。
天と地から、それらは降りて昇る。
ふたつは……ここで、この手で、ひとつの星となる。
そしてその、ひとつの星は。
おまえたちの存在を、許すことはない……。
……それは。
理屈とか、そういうのじゃなく。
息をする方法を知っているのと、一緒だった。
私は十匹のみんなを、自分の体のように操り。
大広間に、ふたつの星を産み出してしまったのだ。
<2>水野春臣は昔語りの星を知る
(6500字)
十緒子の、アパートの部屋で。
昨日27歳になった俺、水野春臣は、この日初めて会った相手の話を聞いている。
ちゃぶ台の向こう側、リビングの壁に寄りかかって座る十緒子の父、御崎玄。
彼がゆっくりと、穏やかな口調で話すのは。
能力を暴走させてしまった、6歳の十緒子の話……なのだが。
これは、十緒子の暴走を止められなかった男の話、だ。
そのことばの端々に感じる、苦さ、のようなもの。おそらくそれは、彼の穏やかさで隠そうとしても、隠し切れない後悔や自責の念なんだろう、と。
彼からすれば、それこそ小僧にしか過ぎない俺にも、想像がついた。
二十年前の、出来事。
……二十年という、時間。
御崎玄はこれまで、この話を。
こうして、俺のような第三者に話したことは、ないはずだ。
他言出来ない内容だということもあるが……そういうことじゃない。
……これは、少し後になって思い付いたことで。
そんなことを考える余裕なんか、そのときの俺にはなかったのだが。
俺は、彼から聞かされる十緒子の過去、それを咀嚼して呑み込むのに必死で。そして時折、俺の知っている十緒子の、いくつかの場面をフラッシュバックさせていた。
「……そこには、幽体になってしまった十緒子が、いたんだ」
彼がそう言ってからことばを切り、ひとつ息を吐いたときも。
脳裏に、幽体離脱した十緒子の、ひどくきれいな幽体……まっさらな白の、淡く内側から透き通るように光る、その姿を思い浮かべていた。
「幽体離脱……水野くんは、したことあるかい?」
唐突に訊かれ、だが彼がコーヒーを口に含む間にも反応できなかった俺を見て、彼は「いきなりすぎたよね、ごめん」と言い、そして続けた。
「俺は、ないんだけど。ヘビ様を従者に持つ彼女たちには、造作もないことなんだそうだ。というか、幽体になって『つながる』ことで、真の力を発揮するのだそうだよ」
「……『つながる』?」
「ヘビ様と、それから、あの巫女神と、ってことらしい。自分が知らないはずの知識や方法が、つながることでわかるんだそうだ」
「っ、神と、つながる?」
と、急に視線を感じ、そちらに目を向ける。
ちゃぶ台の上。
その巫女神から遣わされたヘビの一匹、ピンクの……十緒子が『もーちゃん』と呼ぶ桃色のヘビが、俺をじっと見つめていた。
改めて周囲を確認すると、その桃ヘビの隣に、やっぱり俺を見つめる青ヘビがいて。
それ以外のヘビはどうやら、戸を開け放ったままの寝室、ベッドで眠る十緒子のほうへ行ってしまったようだ。
十匹の中でも特に、ペラペラとうるさい、桃ヘビと青ヘビ。
いまは、こいつらさえも、無言のままだ。
……いや。
なにか、俺に言いたがってんのか?
「心配、なんだろうね」
御崎玄が言い、俺は奴らから視線を外して彼を見た。
「青、そして桃、か……フフッ、大丈夫だよ。こんな話をしても水野くん、全然動じてないじゃないか。……あ、そうか。水野くんは、十緒子の幽体を視たことがあるんだね?」
「え、っええ、はい。何度、か」
何度『も』、と言うのは、マズいかもしれない。
ってか、そもそも俺が、初めてあいつと会ったのは……あいつの幽体、だったんだが。
なんで十緒子が幽体離脱したのか、を。
……訊かれたりは、しねぇよな?
知らず首に手を当てていた俺は、それをごまかすようにシャツの襟に触れる。
彼はまだ、ヘビたちに目を向けていた。
「そっか。俺もね、仕事で、真緒の幽体は何度も視てるんだけどね……でも、何度体験してもあれは、慣れるもんじゃないね。目的のために体を、容赦なく置いていくんだから。ヘビ様がいるから大丈夫だとわかっていても、なかなかね……」
「そう、なんですね」
『真緒』は十緒子の母親のことで、彼はずっとそう呼んでいる。十緒子の姉、華緒子のことは『華緒子ちゃん』、そして御崎家の当主だという、『高緒様』。
話のはじめのほうで彼は、ちゃぶ台に俺が置いた彼の名刺の裏に、『高緒 真緒子 華緒子』と、ジャケットから取り出したボールペンで書いていた。十緒子の家族の名前でもあり……十緒子以外の三人の能力者、神の御遣いのヘビを従える者の名前、でもある。
自分の妻を、その歳でもそうやって呼ぶんだな、と頭の隅で思う。ってか、妻の幽体離脱を何度も視てる、ってのも……そっちもなにやらかしてんだ、と思うが、それ以上は訊けない。
「ごめん、また……というより、ずっと、余計な話ばかりしてるね。思ったより感情に引っ張られてしまったな」
彼は顔を上げて、やわらかな視線を俺に寄こした。
「俺も、青と桃と、同じ気持ちなのかもしれないね。でも……」
彼はまた、ちらり、と十緒子のほうを見た。
そのタイミングで青と桃も、宙をスウッと泳ぎながら、十緒子のほうへ移動していく。
「つまりね。十緒子を暴走させてしまった……十緒子を怖がらせてしまった成り行きを、ちゃんと知っておいてほしかったんだ。どれひとつ取っても十緒子のせいじゃない。彼女の、彼女たちの持つ能力のせいじゃない、ってことをね。
まず、それが一つ。それと……うん、あと二つ、だから全部で三つの、知っておいてほしいことがあるんだけど。
二つ目は……それでも十緒子の持つ力は、蛇神の力の片鱗なのだということ」
ふう、と息を吐き、黙ったままの俺の様子を少し見て。
「それで、あのとき。十緒子は幽体になって、巫女神の力とつながってしまったんだ」
御崎玄が言い、そのまま続けた。
「それから十緒子は、ヘビ様たちを自分の支配下に置いた。いや、言い方がキツイかな。でも、なんというか……自分の体の一部のようにして、ヘビ様に指示を出しているようで。いつもと違って、ヘビ様たちの意思が感じられない、強制力の強いつながり方をしているように見えた。
で、ヘビ様たちが目の前で、5匹ずつに分かれて。正四面体って言って、わかるかい? 正三角形4枚で出来た立体……ああ、こっちのほうが早いか」
彼は取り出したスマホに「正四面体」と声で入力し、画面を俺に向けた。検索結果として表示されたそれを見た俺の中で、まさか、というある考えが湧く。しかしいったんそれを無視し、話の続きに意識を集中させた。
「これがね、二つ現れたんだ。どうやらヘビ様の一匹をほかの四匹が囲んで……一匹が中の核に、四匹がその四面体の頂点になって、それらがつくられたようだった。
それを実際に目にしたのは、視える力を持つ俺だけで、大広間にいたほかの人間は、突然たくさんの光に包まれてなにも見えなくなった、という形で、それを体験したらしい。それは、後々に聞いた話」
彼は数秒目を閉じて、またゆっくりと開けた。
「……きれいだったよ。あんまりきれいなんで、この世の終わりかとも思えた。四面体は光って、目を凝らすたびにそれぞれの面の色が変わって、ゆっくりと回転を続けて。一つは寒色系で白っぽくて無機質な感じ、もう一つは、アースカラーというのかな? 無機質の対極というか、生き物というか……。あとから考えたんだけど。あれは天と地の象徴、だったのかもしれない。
ヘビ様たちはあれを、『星』と呼んでいた。これも、後々に聞いたんだけどね」
光りながら回転する、二つの正四面体。
神の御遣いのヘビたちが創り出した、『星』。
やはり……それは、つまり。
「それで、その『星』が。それぞれに縮んだり広がったりを繰り返しながら光り、色を変えて。スッと、二つともその場から消えて、次の瞬間。同じ大きさになったそれらが、大広間の中央にパッと現れた。
それらは上下に位置していて、回転しながら……こう、互いに近寄って。砂時計のような形になったかと思ったら、そのまま重なって、組み合わさった」
言いながら彼が、両手を上下になるように離してかざし、それらを近付けていって、両手をポン、と組み合わせた。
「するとそこには、二つが一つになった『星』が出来た。これもあとで調べたら、星型八面体とか、八角星とか呼ぶものだったんだけど」
御崎玄はまたスマホを操作し、星型八面体の検索結果を俺に向けた。
話を聞きながら頭に思い描いていたその形を、そこではっきりと目にした途端……背筋にゾッ、と戦慄が走る。
形が、完璧すぎる。
これがもし、結界、なのだとしたら……。
俺が予想していた答えと、御崎玄が口にした過去の現実は、同じ意味のものだった。
「……これが、そこで強く光り出して、大きく広がって。その場の、光に呑み込まれたなにもかもを、浄化してしまったんだ」
◇◇◇
『星』とは、要するに。
巫女神とつながった十緒子が、十匹のヘビどもを遣って創り出した、結界。
正四面体だの、星型八面体だの。
そんなものを場に顕現させる、ということが、どういうことなのか。
これは、あのヘビどもだから出来たことで……人の及ぶところではない。
そもそも、正四面体の時点で、多重結界の一種だよな。
例えば、符を三角形や四角形、それこそ五芒星などの図形を描くように張ることで、結界を強固にすることが出来るのだが。だがそんなのを通り越して立体、正四面体なんて形に紙の符を配置しようとしても、物理的にほぼ不可能だ。
結界をかたどる頂点が、神の遣いという人外だからこそ、出来ることであって。
だというのに、そんな非現実的で非常識な正四面体二つが……合わさって?
『二つが一つになった』、星型八面体の結界、だと?
御崎玄はまた、ふう、と息を吐き、マグカップを手に取りコーヒーを飲み干していて、話の続きを待つつもりだった俺の口からは、無意識にことばがこぼれていた。
「……ありえねぇ、そんな結界」
「わかるのかい?」
「っ、多少、ですけど」
俺は濁し、黙る。彼はそれにかまわず、話し始めた。
「そう。ありえないんだ。蛇神、その巫女神の力が、最大限に発揮された結界……そんな空間。確かに、邪や淀んだ陰の気は一掃され、跡形もなくなって消滅した。一瞬俺は、これで助かった、と思ってしまったんだけど、それは間違いだった」
「……間違い?」
いやな予感がした。
「その空間はね、なにもかもを浄化してしまうんだ。浄化のレベル、いやそもそも、空間としての、次元、が違う。で、そんな空間……大広間にいた人間はみな、次々と意識を失って、倒れていった。人それぞれが持つ気の陰と陽のバランスに強制的に介入されることで、意識が保てなくなる、とか、そういうことらしい。
俺だけは、黒のヘビ様の加護があったからか、しばらくは無事だった。けど、ひどく体が重くて、意識は飛びそうになって、だけど十緒子を止めなくては……そう思って、倒れていた十緒子の体を抱えて、呼びかけて。
とにかく幽体を実体に還す、そう考えて……必死だった」
十緒子の、幽体のほうではなく、実体である肉体に働きかけたんだな、と、俺は意識にのぼらない場所で理解する。それよりも……『空間としての次元が違う』?
「十緒子は……体に還って来てくれた。『みんな死んじゃったの?』って、十緒子が言って。正直そんなのわからなかったんだけど、そこはヘビ様たちを信じてたからね、そこまでのことはしないだろう、と。十緒子には大丈夫だと言って、とにかく安心させなくては、と思った。でも俺も意識が飛びそうで、なにを言ったのか……。
ただ、十緒子の、死んじゃったの、が耳に残っていて。俺はそこでも失敗したな、って思う。大広間の様子なんか、見せないようにしなけりゃならなかったのに」
そこで、再び寝室のほうに顔を向けた御崎玄が、ひとつ瞬きをした。「十緒子?」と彼はつぶやき、身を起こして立ち上がる。
振り返るように見ると、仰向けになった十緒子の腕が上がり、手で顔を覆っていた。
俺も反射的に立ち上がり、だが彼の、歩いて十緒子の元へ向かうその様子を見ながら、その場に立ち尽くす。杖を玄関に置いて部屋に上がっていた彼は、狭いリビングをさっきと同じように、ゆっくりとではあるが危なげなく横断した。
そして、十緒子が横たわるベッドに「よいしょ、っと」と言いながら、腰を掛ける。
俺も寝室の入口に寄り、見ると、十緒子は顔のほとんどを手で覆い隠しながら、不自然に揺れていて……その様子を宙に浮いたヘビどもが、円陣になって見下ろしている。
こらえるようにしゃくりあげる十緒子の片手に御崎玄が触れ、抵抗しないそれを、ゆっくりとつかんだ。
「十緒子。頭痛いとか、気持ち悪いとか、ないかい?」
「っ、しん、……っ、しん、じゃった? みんな、っ、わ、たしのっ、せい、でっ」
「話、聞いてたんだ? 死んでないよ、だいじょうぶ。ごめん、俺の説明で不安にさせたかな」
彼が十緒子の手を両手で包み込むように握ると、「ふっ……うぇっ」と、こらえきれなかったらしい声が上がる。
「っ、……死んで、ないっ? ほんと、に?」
言いながら十緒子は、もう片方の手で目をこすって涙をぬぐい、うっすらと目を開け御崎玄を見る。そして肩を震わせながら起き上がろうとし、それを見た御崎玄が手が引っ張ってやるのに身を任せて、ベッドの上に身を起こした。
「死んでない。全員、無事。一部の人間はむしろ、元気になったよ。取り憑いていた邪が一掃されたわけだからね」
うつむいていた十緒子が顔を上げ、目を見開いた。
「おとーさん、は?」
「俺も、なんともないよ。……あぁ違う、そうじゃなくて、」
言い直した御崎玄のことばにビクリ、と体を震わせた十緒子に、彼は続ける。
「十緒子。あのとき、俺を助けてくれて、ありがとう」
彼の元にまた、無数の丸い光の玉、オーブたちが近寄って、それらのいくつかが十緒子の周りにも浮かぶ。「こだまたちも、ありがとう、って言ってる、たぶんね」と彼が言うと、それらがふわふわと点滅するように光った。
十緒子が、なにかを言おうとしてその唇を開きかけたところで固まり、御崎玄を見つめる。彼もそこで口を閉ざし、十緒子に顔を向けていた。長い前髪のせいで、こちらから彼の表情は見えない。
彼が、口を開いた。
「俺は十緒子に、心配かけてばっかりだったんだな。昔っから……十緒子はまず覚えてないだろうけど、死にかけの俺の命を救ったこともあるし。俺は、頼りない父親だなぁ、本当に」
「っ、ちがっ、そんなんじゃ、」
「十緒子のヘビ様たちから、聞いたんだ。あのとき、大広間で……真緒、おかあさんの代わりに、俺を助けようとしてくれたんだよね?」
「っ、ごめんなさい、ごめんなさいっ、とおこはっ、」
「十緒子は、ひとつも悪くない。絶対に、だ。むしろ俺たちのほうが、十緒子に謝らないといけない。その後、十緒子にしたことも含めてね。いろいろ説明しないとだけど、その前に……十緒子、ちょっとだけお願い、聞いてくれるかな」
御崎玄が、握っていた十緒子の手を解放しながら言い、俺はそのやわらかな声音に、取り繕った明るさを感じた。
「照れるんだけど……ハグ、していいかい? 嫌だったら、頭を撫でるだけでもいいから。……っ、十緒子?」
彼が言い終わる前に、十緒子がベッドから下り膝立ちになる。
ハグ、と口にしたところで腕を広げていた彼のシャツを両手でつかんだ十緒子は、ひたいを彼の胸につけるように寄りかかる。彼はそれを両腕を被せるようにして抱え、それから片手で彼女の、嗚咽に揺れる黒髪を撫でた。
ゆっくりと往復するその手をぼんやりと眺めていた俺は、ふと気付いてそこから視線を外した。十緒子と御崎玄から少し離れた空中、オーブたちより遠い位置で、十匹のヘビたちが、ふたりの様子を眺めている。
奴らがなんで、円陣組んだまんまなのか、さっぱりわからねぇけど。
張り詰めた感じは、なくなった、な。
俺は寝室に背を向け、立ったままちゃぶ台のコーヒーカップを取り上げた。ほとんど減っていない冷めたコーヒーを、いくらか口に含んで飲み、飲み切っていた彼のカップとともに、キッチンに運ぶ。それらをシンクで水に浸してから、やかんに水を足して火にかけ、カップを洗いはじめた。
<3>御崎十緒子・星の代償
(5900字)
……スマホの、着信音?
私は反射的に、でもゆっくりと、音のするほうに顔を向ける。
すると、頭の上から、「……俺のだ。ごめん十緒子、取ってきてもらってもいいかい?」と、おとーさんの声が降ってきて。
スマホを取ってくる、それだけを考えて、おとーさんから身を離して立ち、ちゃぶ台のスマホを取ってきて、おとーさんに渡した。
おとーさんが通話をはじめたところで……私はハッ、と我に返る。
ぼーっとしてた……あれ、私、いままで……うわ、うわぁぁぁ……。
急に火照ってきたほっぺに両手を当てながら、寝室を出て洗面台に向かう。
たくさん、泣いちゃった……子供みたいに。
おとーさんに抱っこしてもらって頭を撫でられるの、好きだった。ハグしたい、って言われたとき、6歳の感覚でおとーさんの腕の中に入って……でも私の体、ここに収まんないな、と思い、身を縮めるようにして。
だけど、肩におとーさんの腕の重みを感じ、頭を撫でられたら、そんなことは頭から飛んでいた。
はっきりとは、思い出せないけど。
私はこの感覚を、覚えてる。
おとーさんの記憶を。
ちゃんと、持ってた……。
ちゃぶ台を通り過ぎリビングを出たところで、腕を組んでキッチンのシンクに寄りかかる彼……春臣と、目が合った。
「あ……」
「顔、洗うんだろ。コーヒー、飲むか?」
「……うん」
じわり、とまた涙がにじみそうになって、目をこする。
そうだ、私、彼を引き留めて……。
「こすると腫れるだろ。早く冷やしてこい」
「うん」
うながされ、脱衣所に入って扉を閉め、立ち止まって目を閉じる。
思考の渦、なのかな。いろんな考えがあちこちからあふれてきて、渦になって、ひとつひとつの事柄が、渦の中でアップアップ溺れそうになってる。
混乱してる……と、目元がヒリッとして、まず顔を洗わなくちゃ、と思った。
洗面台で顔を洗いながら、頭の中はやっぱりごちゃごちゃしていて。
いろんなことが浮かんだり、沈んだりして……。
そういえば……おとーさんは、春臣に話をしてた。
あの星を、私が創り出してしまった、話。
ヘビのみんなを、いいように操ってしまった、私。
みんな……。
「っ、あれっ? みんな、みんなどこっ?」
タオルで顔を拭いたところで急に思い出し、私は声を上げる。
私のいる洗面台前の脱衣スペースにポンポンポンッ、と音がして、ヘビのみんなが現れた。
十匹十色の、透明に光るヘビのみんなが、私をぐるりと囲むようにして、宙に浮かんでいる。
いなくなってない。
ここに、私のそばにいてくれる、みんな。
だけどあのとき、私は……。
「……みんな。ごめん、なさい」
そう言ってから私は、円を描きそこでゆっくりと回るみんなの、一匹ずつの顔を見つめる。
みんなはそれぞれの仕草で首をかしげていて、でも黙ったまま聞いてくれた。
「あのとき、みんなのことを……その、一方的につながっちゃって、みんなに、いい? って訊かないまんま、みんなの力を使っちゃった」
星を創り出した、あのとき。
私は自分勝手で傲慢で、自分の気を済ませることしか、考えてなかった。
そうやって、ヘビのみんなとつながって、その結果が。
大広間に人がたくさん倒れてる、あの光景……。
おとーさんも、私のせいで倒れてしまった。
6歳の私の記憶を、追体験して。
あのときの私が、無知だった私がやってしまったことが、怖くて苦くて、苦しい。
私はみんなを、あんなふうに……まるで自分の持ち物のように扱ってしまった。
みんなは、私の持ち物なんかじゃ、ないのに。
「あんなのダメ、だからごめん。私、ひどいことした」
……怖い。
あのとき私が抱いた、全能感。
私は、あれを……またみんなに、ぶつけてしまうのではないの?
(十緒子。ひどいことなんて、ひとつもなかったのよ。でも十緒子は、それじゃ納得しないのでしょうね)
透明なグレーの体をふわりと光らせた、はーちゃんが言った。それから、べにちゃんの赤が濃淡を変えて光る。
(十緒子ちゃん。ボクたちと一緒にいるの、イヤじゃない?)
(オレらのことをよー、面倒だとかぁー、怖いとかさー)
あおちゃんの、青のグラデーション。むーちゃんの紫、もーちゃんのピンク、ちゃーちゃんの茶色、だいちゃんのオレンジ、きーちゃんの黄色、それぞれの光が、うんうん、と、うなずいて揺れる。
(我らは幼い十緒子を、止められなかった。結果、十緒子に怖い思いをさせ、そして玄にも、つらい思いをさせてしまった)
みーちゃんが左右に首を振って、その緑の光がゆらゆらと揺れる。
そして白く光る体、しーちゃんは、うつむいているように見えた。
(十緒子様に見限られても、おかしくはありません。十緒子様は、もう目覚めたくない、と思われるかもしれない。ワタクシ、そう考えておりました)
目覚めたくない。
確かに、そう思った。
でも、違う。私が怖かったのは、みんなじゃない。
「……私ね、怖かった。っ、でも、みんな、のことが、怖かったわけじゃ、ない。っ、そ、だかっ、だって、みんな、は、」
……私のこと、キライにならなかった?
続けられなかったことばを、しゃっくりと共に呑み込む。
ダメ、やだなあ……涙腺、ゆるくなっちゃった。
「面倒なんて、ないっ、っ、怖くなんっ、ない、っ、……一緒に、るの、イヤなんて思わないっ、ううっ、そんなのっ、見限る、なんて……っ、やだっ、ふうっ、うえっ、えぇっ……」
どうしよう、止まんない。タオルを顔に当てたまま顔も上げられず、私は泣きじゃくってしまう。あんなことしたのにみんなは、私と一緒にいてくれて、でも私は、みんなをたくさんたくさん待たせてしまって、またみんながいなくなったら、を考えたら喉の奥が痛くなって、涙があふれてきて。
みんながいなくなっちゃうなんて……怖い、そんなの……。
タオルに顔を伏せたままの私の耳に、脱衣所の扉が開く音と、春臣の声が飛び込んできた。
「んっだよ、つつくな、蹴るなっ! 口で言やぁいいだろ! わかったから……十緒子?」
私が顔を上げたところでパタン、と春臣の背で扉が閉まり。狭い脱衣所で私と春臣は、十匹のみんなに囲まれていた。
彼の肩あたりで、ペシペシと彼を尾ではたくのは、あおちゃんときーちゃん。それに、もーちゃんとちゃーちゃんが、彼の後頭部をつんつんとつついている。
「どうした? なんかこいつらが、こっち来いって急かすから……なんだよ、顔洗ったのに、泣いてんのか?」
(いいから、ハグしてやるんだよ)
(春臣っち♪ オレっちたちの♪ 手足になって♪)
(十緒子ちゃんっ、春臣ちゃんプレゼントするからっ、元気出してっ)
(春臣ぃー、男見せろよー)
「っだと? おまえら、なぁ……」
言いながら春臣が、私を引き寄せ、腕の中にすっぽりと収める。
「それで? おまえらの手足はこのあと、どうしたらいいんだよ」
(えー、どうするー?)
(もっともっとっ、ぎゅうううってするとっ、いいと思うよっ)
(熱い抱擁……ハグ以上……んふっ)
(あらあら。それで、十緒子は泣き止んだのかしら)
(そうだねぇ、このあとどうしたらいいか、アタシが玄に訊いてこようか?)
「っ、待て待て待て、この状況を父親にどう説明すんだよ。チッ、ったく、おまえら、俺で遊んでるだけだろ」
……怖さが、和らいでいく。
ヘビのみんなのこと、あのときやってしまったこと、おとーさんのこと。
頭の中はごちゃごちゃで、胸が痛くて、暗い澱のようなものが溜まってる感じもあって……落ち着かない、どうしたらいいのかもわかんなくて、宙ぶらりんな状態なのだけど。
現金な私は彼の腕の中で、それらを棚に上げて、その気持ちよさを優先してしまう。
みんなに謝ってたのに、そんなのって、ひどいよね?
ひどい私のために、みんなは彼を連れてきてくれた。
そんなのって……みんな、私にやさしすぎるよ。
この腕の中は、すごく居心地がいい。
みんなは、どうして私のこと、そんなにわかるのかな?
春臣も……。
…………。
あれ?
なんか私……すっぽりと、収まってる。
彼の腕の中で。
自分の泣きじゃっくりをどうにかなだめながら、私はそんなふうに思う。
さっきまで、おとーさんの腕の中が狭くなった、と感じていて……。
ああ、そっか、だから。
私はいま、27歳の私、だ。
私はもう、あの6歳の頃には戻れない、だけど。
私はいま、ここにいて……。
「……よかった」
つぶやいた私に、春臣が「聞こえなかった、なんて言った?」と訊き返した。
私は少しだけ身を離し、彼の顔を見上げて、言い直す。
「帰らないでくれて、よかった」
「……ああ。大丈夫か?」
「うん……」
「だから、目ぇこすんなって」
彼は抱いた腕でポンポン、と私の背を軽く叩き、身を離す。扉に手を掛け、「顔洗ったら、とっとと出て来いよ」と言って、出て行った。
「ふふっ」
私は、急におかしくなってしまう。
いつの間にか泣き止んでる自分と、泣き止ませようと頑張ってた、ヘビのみんな。
そうだった、小さい頃も私のこと、みんなはたくさん考えてくれて。
くるくる回ったり、消えて、また突然姿を現してみせたり。
……おとーさんやおかあさんを、連れてきてくれたり。
「ありがと。みんなのおかげだね」
みんなを、ひと通り見渡して。
まだ、呑み込めないこともあって、ちょっと混乱もしてるけど。
私はちゃんと、ここにいるんだ。
十匹のみんなと、一緒に。
とにかく、そう思えた。
◇◇◇
顔を洗い終わって扉を開けると、「……飲みますか?」「いや、もう飲まないでおこうかな。あ、少し水が飲みたいんだけど、頼んでいいかな?」という、ふたりの声が聞こえてきた。
「水道水しかないんですが」
「ああ、かまわないよ」
キッチンにいたおとーさんが私に気付き、ニッコリと微笑んだ。
「だいじょうぶかい?」
「うん」
「おとーさん、少ししたら出なくちゃいけなくなって。洗面所、借りるね」
パタンと扉が閉まったところで、氷を入れたグラスに水を入れる春臣に近寄ると、私を見てマグカップにお湯を注ぎ、それを渡される。「砂糖とミルク、そっちだから」と言いながら彼も、もうひとつのマグカップと水のグラスを持って、リビングのちゃぶ台に移動した。
戻って来たおとーさんが、ちゃぶ台のグラスが置かれた側に、壁に寄りかかるように座って、そして私に向かって、言った。
「三十分くらいしたら、迎えが来ることになったから。仕事で……依頼人との面談が入って。元々その予定もあって、こっちに来たんだけどね。急きょキャンセルされて、だから十緒子とゆっくり話せると思ったんだけど、キャンセルがキャンセルになっちゃったよ」
おとーさんはグラスを手に取り「ありがとう」と春臣に声を掛け、水をひと口飲む。それから、傍らにあった封筒に手を伸ばし、「そうそう、忘れないでよかった」と私に差し出した。
「アパートの契約更新の書類。名前書いてハンコ押すだけなんだけど」
「あっ、うん。ハンコ……」
立ち上がって、仕事用のバッグからペンケースとハンコを取って戻る。春臣がマグカップやなんかを端っこに除けてくれたちゃぶ台の上で、私は渡された書類の付箋と鉛筆のしるしに従って、名前を書いてハンコを押していった。
「……水野くんには、たくさん話を聞いてもらっちゃったな」
「いえ、聞きたかったことなんで。それに、まだ……知っておいてほしいことの三つめ、を」
「あ、そうだね。そういえば途中だった。三つめ……うーん、でも。水野くんはもしかしたら、もう知ってるのかもしれないな」
春臣が黙ったので顔を上げて見ると、いつものように眉根を寄せ、「俺が、知ってる……」とつぶやきながら、考え込んでいる。おとーさんは「フフッ」と笑いながら、手にしていたグラスをちゃぶ台に置き、契約書類を取り上げた。
「うん、忘れてるとこ、なさそうだね。更新料はないから安心して、って伝言預かった」
「えっ」
「御崎の系列の会社だからね。そこはアパート探しのとき、彼女も抜かりなくやってくれたから」
確かにアパート探しは、私担当の使用人さんに手伝ってもらって……あれなんだろ、なにか引っかかる、ような……。
「水野くん、思い付いた?」
「ええ……その、」
おとーさんに訊かれ、なぜか言い淀む春臣を、いつの間にか周りに浮かんだりちゃぶ台の上に乗ったりしていたヘビのみんなが、じぃーっと見つめている。
「……力を使い過ぎて、体力とか……精力が消耗する、あの現象でしょうか」
「うん、当たり。もしかすると、すでに経験済みかな?」
「そう、ですね。すごい食欲で……まぁ、作りがいあるんですが」
「やっぱり、あの紙袋のタッパーは、水野くんが? ああごめん、十緒子は料理しないようなイメージがあって……真緒、おかあさんと勝手に重ねてるのかも」
おかあさん、と?
そこでふと、おとーさんとおかあさんって夫婦なんだ、ということに思い至り、また少し混乱した私は、なにも答えを返せなかった。
「……『星』の結界。あのあとの十緒子は、どうなったんですか」
春臣の、低い声がして。
おとーさんが「うん」と答える。
「十緒子はね。あれから一か月ほど、ほとんど意識を失ったままだったんだよ」
ヘビのみんなが、私のそばに寄って来た。
すぐそばで、心配そうにしてくれているのがわかる。
一か月……意識を失ったまま? 私が?
「医学的には原因不明、眠ってるだけ。たまに目を覚ますのだけど、またすぐに意識を落としてしまう。ヘビ様たちに訊くと、あの星を創り出してしまったことで、精力を使い果たしてしまったのだと教えてくれた」
おとーさんは、黙ったままの私と春臣を交互に見、また口を開く。
「ヘビ様たちが尽力して、十緒子に精力を分け与えようとしてくれて、でもそれが追いつかなくて。それだけのものを創り出してしまった、その代償は大きかったし、なにより6歳、いや7歳の十緒子の体には、負担が大きすぎたんだね。それに、」
おとーさんが、ふう、と息を吐いてから続けた。
「あの『星』のときの、つながり方が。十緒子とヘビ様たちのつながりが深すぎて、そのままになってしまったのだそうだ。それはつまりね、ヘビ様が十緒子のそばにいるだけで、精力を消耗してしまう状態……本当は十緒子のほうからそのつながりを断てればよかったんだけど、それが出来ないままになってしまって」
「っ、だから、私」
私がたまらず声を上げると、おとーさんが少し困ったような顔をして、言った。
「そう。だから俺たちは、十緒子の元にいるヘビ様たちを一度、封印することに決めたんだ」
<4>御崎十緒子・瞳の中の星
(4700字)
「封印はね。黒のヘビ様とおかあさんが『夢渡り』、というものをして、それに、銀と金のヘビ様も加わって。だけど、封印のベース、基礎部分は、十緒子自身にやってもらったんだ。ヘビ様たちが眠る、それに許しを与える、という形で、ね」
おとーさんがゆっくりと、ことばを区切るように説明するのを、聞きながら。
私はそれを知っている、と思う。
私がさっき、思い出した……みんなに、『おやすみ、眠っていいよ』って言った、あれ。
そしてあの、みんなが円になって、昇っていく夢。
闇のカーテンが、向こう側とこちら側を分けて、私の記憶は見えなくなった。
月の光は、おばあさまの銀のヘビ様。
太陽の光は、華緒ちゃんの金のヘビ、ハナちゃん。
そして闇のカーテンは、おかあさんの、黒の……。
「十緒子の能力を封印する、と決めるまで……みんなで、たくさん話し合った。俺と真緒、高緒様、華緒子ちゃん。黒、銀、金のヘビ様、そして、十緒子の十匹のヘビ様たちと。
封印しないで済む道を何度も探して、でもそんな悠長にしてる時間もなかった。俺たちがおろおろしている間にも、十緒子は衰弱し続けてる。
とにかく、十緒子からヘビ様たちを、切り離してしまわないといけなかった。ヘビ様たちを封印で隠し、そして記憶も……十緒子はまだ小さかったから、封印したヘビ様たちを無意識にでも起こしてしまうかもしれない、だからヘビ様の存在、記憶ごと封印する必要があったんだ」
みんなが、私を見つめている。
十匹の、みんな……手を広げ腕で輪をつくるようにすると、みんながそこに集まってくれた。
胸と、喉の奥にまた、痛いような感覚がこみあげる。
私がちっちゃかったから、みんなを代わりに悩ませちゃったんだ。
私はみんなを、花束みたく抱きしめた。
そしてそれに頬ずりをし、顔をうずめながら、おとーさんの声を聞く。
「そして俺、御崎玄の存在、も……十緒子が俺をきっかけにあの暴走の恐怖を思い出し、そこからヘビ様の存在を思い出してしまう可能性がある。だから強固な封印を施すなら、トリガーになった俺の存在ごと、記憶を隠すのが効率がいい、というのが……ヘビ様たちの、見立てだった」
闇のランプが連れて行った、誰か。
あれは、私の中のおとーさん、そして、それまでの私自身……。
おとーさんが「ああ、来たかな」と言った。春臣の「俺が出ます」という声がして、顔を上げると、彼が立ち上がってリビングを出ていくところだった。
ああ……ドアチャイムが、鳴ってた、気がする。
おとーさんが彼の背に、「少し待って、って伝えてくれるかな」と声を掛け、そして私のほうに向き直った。
「十緒子、ごめん。さみしかったろう?」
おとーさんが、言った。
「本当にすまないことをしたと思う。十緒子から記憶とヘビ様たちを、断りもなく奪ってしまったのだから」
「……それ、は……だって、でも、」
十色の光の花束を抱えながら、私はまた涙ぐんでしまう。
うん。……さみしかった。
でもそれは、みんながたくさん考えてくれた結果で……だから私は、だいじょぶだよ、って言わなきゃいけない。
なのに。
おとーさんが私に近寄って、手を差し伸べる。昔と違って普通の大きさになったその手が、そっと私の頭に乗せられ、そこに熱を感じた。
「たくさん、話しすぎてしまったね。混乱するのわかってたのに、つい……うれしかったんだ、ごめん」
涙で目が開けられなくなってしまった私は、そのままおとーさんの声を聞いていた。
「十緒子、思い出してくれて、ありがとう。ちゃんと覚えててくれたの、うれしかったよ。それにね、やっと言えるんだ。誕生日おめでとう、って、ね」
みんなから手を放した私は目をこすって開け、おとーさんを見る。
おとーさんはニコニコと微笑んでいて、私と目が合うと、「十緒子。27歳の誕生日、おめでとう」と、もう一度、言った。
(…………玄にも、聞かせてやろう)
と。
みんなの中から紫の光がすっ、と上に飛び出し、むーちゃんが言った。
(我らの歌だな、紫の?)
(あきらめなかった紫の♪ 積極的になっちゃって♪)
(あらあら。それじゃあ配置につかなくちゃね)
(ボク、また頑張んなくちゃ)
(赤の、緊張ー? なんでだよー)
(青のはもっと真面目にやんな、ったく)
(楽しくやるのがっ、いいと思うよっ)
(テステス、チッチッ、よろしいですよ)
(準備オッケイ♪ 橙の♪)
(……んふっ、それでは……わん、つー、さん。わん、つー、)
ふたたび……三度めの。
ヘビのみんなの、『ハッピーバスデートゥーユー』。
音のない不思議な声の、アカペラがはじまる。
( ♪ はっぴばーすでー、つーゆー)
( ♪ はっぴばーすでー、とーおーこー)
( ♪ はっぴばーすでー、はーるおーみー)
玄関から戻って来た春臣が、「俺もかよ」とつぶやくのが聞こえる。
歌と一緒に揺れる、光の玉。
私の部屋にたくさんの、丸くて白い光の玉があふれて、ふわふわキラキラして……。
( ♪ はっぴばーすでー、つーゆー)
歌が終わって、ヘビのみんなが円をつくって、それがくるくると回り出した。
……手が届く場所。手を伸ばすと、私の腕を中心に回ってみせる、みんな。
「びっくりした、みんな、上手だなぁ! ……ああ、しまったな、プレゼント。十緒子、欲しいものないかい? 二十年分、おねだり出来るよ」
おとーさんのニコニコした顔を見ながら、ふっ、と春臣の部屋にある写真立てを思い出した私は、「あのね、ちょっと待ってて」と言って、洗面台に走る。ダッシュで顔を整え髪をとかし、バッグを探してスマホを取り出した。
「写真撮りたい! みんなも一緒に!」
春臣がスマホを受け取り、私がおとーさんのそばに寄って。
(十緒子様、ワタクシどもは写らないかと)
「いいの、覚えといて、あとで描き込んでみせる!」
「あ、ちょっと待って。悪いんだけど、キミたちは外してもらえるかな」
おとーさんが無数の光の玉……こだまちゃんたちに、お願いをする。「キミたちはしっかり、写真に写るからね。学習したんだ」と、おとーさんが言い、小さくため息をつく。そこへ春臣が、意を決したようにおとーさんに尋ねた。
「っ、あの、この大量のオーブは、一体どういう、」
「あぁ……昔からの付き合いなんだけどね。なんでだか俺を守ってくれてるんだ」
「は、あ……」
こだまちゃんは……おとーさんが好きで、おとーさんのそばが居心地よくって寄ってきちゃうんだって、おかあさんとヘビのみんなに聞いたんだっけ。こだまちゃん、そっか、これって木霊、それと木だけじゃなくて土の……うまく言えない、でも霊、なんだけどな……。
と、目の前を。橙ヘビのだいちゃんが、オレンジな体をキラリ、と光らせながら、ふよふよと横切った。
(……ソレガシ、コラボ……んふっ)
だいちゃんが、こだまちゃんのひとつをくるん、と尾でくるみ、すると、こだまちゃんがオレンジ色を帯びて光る。
そっか! もしかして、これなら!
おとーさんもスマホを春臣に渡し、春臣はずっと眉根を寄せたまんま、でも口元が少し笑ってる。「はい、チーズ」と彼が言うと、それぞれでこだまちゃんを抱えたヘビのみんなが(チーズ?)(チーズねぇ)(なにゆえに?)と首をかしげ出し、私とおとーさんは笑ってしまう。
「なんで知らねぇんだ、おまえらの知識、偏りすぎだろ。どうなってんだよ」
「あのね、はいポーズ、ってことだよ。じゃ、もいっかい!」
私とおとーさん、その周りに、こだまちゃんを抱えたみんな。
スマホを見せてもらったけれど、みんなはやっぱり写ってなくて、でも十色のきれいな丸い光が、ちゃんと浮かんでいた。
おとーさんが、「すごいな。この手があったか」と感心している。
アパートの外、車で待っていた海藤さんに、今度は春臣と私とおとーさんの写真を撮ってもらう。そのときもみんなは、こだまちゃんコラボで浮かんでくれて。
「近いうちにまた会ってくれるかな。今度はちゃんと、プレゼント用意するからね」
おとーさんは私と、そして春臣ともメッセージアプリをつなげ、そう言って去っていった。
◇◇◇
すっかり、夕方だった。
春臣は「おまえ、大丈夫か?」と心配してくれたけど、さすがに申し訳なかった。
ほんとは、ちょっとだけまだ……混乱してる、かもしれない。
「うん、すぐ寝れば、たぶん。ちょっと頭、冷やさないとかも」
「だな。ってか俺、あの人の……おまえの父親の前で、素になってた。やべぇな」
「? だいじょぶだと思うよ?」
玄関でぎゅう、とお互いを抱きしめ、私は「ありがと。ほんとにいてくれてよかった」と彼の胸の中でモゴモゴと言い、彼は「そうか?」と私の髪を撫で……安心感とか、そんな満ち足りた感覚の中でふと、私はおとーさんのことを思い出し、ふるっ、と身震いしてしまう。
「なんだ、寒いのか?」
「……なんだろ。ちょっと薄着だったかな」
「風呂入れ、風呂。あぁ、風呂くらいなら付き合ってやろうか?」
「っ、きょ、今日は! だいじょぶ、だから!」
「ん? どっちの意味で大丈夫、なんだ?」
意地悪を言う彼のことばにホッとした私は、どうにか彼から身を離し、扉の向こうに彼の背を見送る。
そして私はまた、おとーさんのことを考えていた。
これはたぶん、罪悪感、みたいなもの。
だって、二十年。
そんな年月を、おとーさんは、どうしてたのかな……。
私、おとーさんがおかあさんと一緒にいるの、見たことない。
それに。
「離婚、させてしまった……?」
つぶやく私に、ヘビのみんながまた、首をかしげている。
「あのね。おとーさんに訊きたかったこと、まだあったみたい」
(十緒子。今日はもう休んだほうがいいわ。おなかもすいたんじゃない?)
はーちゃんに言われ、私は素直にそれに従うことにした。
おとーさんのこと、みんなと写真撮れたこと、うれしかったのに。
考えなきゃいけないこと、ほんとはたくさんあって、でも頭回んないや……。
春臣が用意してくれていた冷蔵庫の作り置きを食べ、お風呂に入り。
寝る仕度を済ませてベッドに入った私は、目を閉じた。
あの『星』を創り出してしまったとき。
私は確かに、あの場所とつながっていた。
「とみちゃん。私、わかったよ」
『そっか。でも十緒子は、まだ目を開けないんだね』
「うん……ごめんね。やっぱり怖い、のかも」
『そんくらいでいいと思うよ。でもちょっとだけ、さみしいけどね』
あの場所にいる、とみちゃんが言う。
『十緒子の目、キラキラしてきれいで。まん丸の黒目に浮かぶキラキラがね、まるで星みたいでね、いつかまた、もう一回見せてくれたらな、って思ってたんだ』
「星、みたい……?」
『蛇神様は、きれいなものが好きなんだよ。それは美醜って意味じゃなくて、なんというか、光るもの? ……人の子の持つ『星』の光に、魅せられてしまうんだ』
意味がよくわからない。とみちゃんの『うふふっ』という笑い声が聞こえる。
『でもね。十緒子は、きっと……』
「とみちゃん?」
私は思わず、そこで目を開ける。
光にあふれた、真っ白な場所……そこに、私はいて。
目の前に、巫女装束の女の子がいる。
同じ年ごろで、同じくらいの背丈。黒くて長い髪、白い肌の彼女の切れ長の目がうっすらと開いて、私の視線とぶつかる。
「やっぱり。十緒子の星は、きれいだね」
とみちゃんが、小首をかしげながら艶やかに微笑んだ。
つづく →<その18>はこちら
あなたに首ったけ顛末記<その17>
◇◇ 闇で目を凝らすから星は輝く ◇◇・了
(この物語は作者の妄想によるフィクションです。登場する人物・団体・名称・事象等は架空であり、実在のものとは一切関係ありません。)
【2023.10.23.】up.
【2024.02.12.】Wikipediaへのリンク貼付
【2024.10.16.】加筆修正
☆あなたに首ったけ顛末記・各話リンク☆
<その1> はじめまして、首フェチの生き霊です
【生き霊ストーカー・編】
<その2> 鑑賞は生に限るが生き霊はイタダけない
<その3> 水野春臣の懊悩と金曜日が終わらない件
<その4> 御崎十緒子のゴカイ☆フェスティバル
<その5> 手は口ほどに物を言うし言われたがってる
<その6> 日曜日には現実のいくつかを夢オチにしたっていい
【ヘビたちの帰還・編】
<その7> 吾唯足知:われはただ「足りない」ばかり知っている
<その8> 天国には酒も二度寝もないらしい
<その9> どうしようもないわたしたちが落ちながら歩いている
<その10>「逃げちゃダメだ」と云わないで
<その11> アテ馬は意外と馬に蹴られない
<その12> ”〇〇”はゴールではない、人生は続く
<その13> イインダヨ? これでいいのだ!
【御崎十緒子の脱皮・編】
<その14> 耳目は貪欲に見聞し勝手に塞ぎこむ
<その15> 人生と誕生日は楽しんだもん勝ち
<その16> 隠者のランプは己を照らす
<その17> 闇で目を凝らすから星は輝く
<その18> トラブルには頭から突っ込まないほうがいい
<その19> 痴話喧嘩は甘いうちにお召し上がりください【前編】
<その19> 痴話喧嘩は甘いうちにお召し上がりください【後編】
【(タイトル未定)・編】
<その20> 招かれざる客は丁重にもてなせ
<その21> 歌い踊るは人の性《さが》
・『あなたに首ったけ顛末記・目次』
↑ サブタイトル込みの総目次を載せた記事です。
・マガジン・小説『あなたに首ったけ顛末記』
↑ 第一話から順番に並んでます。
・#あなたに首ったけ顛末記
↑ ”新着”タブで最新話順になります。
・マガジン・小説『闇呼ぶ声のするほうへ』(スピンオフ・完結)
↑ <その14>のあとに書いたのでその辺でお読みいただくと楽しいかも?
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