16年間野球一筋の男が持つ将来の夢
将来の夢ってなんだろう。
一体なんのために生まれてきたのだろう。
これから僕はどんな人間になるのだろう。
大学野球も引退を迎え、より自分の将来を強く意識する時期になってきました。
ということで今日はいつもと少し趣向を変えて、僕自身の話をしたいと思います。
頭の中を言葉に出すことで、より鮮明に自分が何をしたいのか、何を目標にすべきなのかの整理もしたくて書いています。
テーマは僕の夢です。
いまどきの若者はよく「夢がない」だとか「現実を見すぎる」とか、「チャレンジしない」など、まあまあな言われようをしている気もしますが、僕はそんなことないと思います。
僕らの親世代と比較すると生き方の選択肢も広がり、むしろ昔よりなんでもできる時代になりました。だからこそ20年前後生きただけじゃ、本当にやりたいことが見つからないのではないのでしょうか。
一昔前は終身雇用が当たり前で、大学卒業後の就職先がそのまま自分の人生の軸となるのが当たり前でした。しかし、今は転職もできれば独立もしやすい、車は持つものではなくシェアするものだと考えられてきたり、環境も価値観も変化しています。
そんな中で、何かやりたいことを早々に見つけることは難しいのです。
僕自身就職活動を通じて色々と自分を見つめ直し将来について考えましたが、やはり具体的にやりたいことは見つかりきっていません。なんとなくやりたい方向性は見えていますが、何か一つに絞れていません。
一方で今が人生で一番可能性に溢れていることも自覚しています。
20代に大きなチャンスがあることも感じています。
だからこそ、この時期に一歩踏み出してたまらない自分もいます
夢が具体的に決まっていなくても、まずは今日からアクセルを踏む必要があることも実感しています。
思考が散らかりまくってぐちゃぐちゃな中で進むべき方向を模索し続ける。そんな等身大の大学生の夢を紹介していきます。
目指すべき未来の中心は”感動”
さて、僕はやりたいことは決まっていないと書きましたが、自分が進むべき方向・目標とする世界は見えています。
それは
人が人に感動を与える世界を作る
ことです。
これは僕の人生でもよほど大きなことがなければブレない軸です。
ここでのポイントは“人が人に”という部分です。
これまで16年野球と共に人生を歩んできましたが、野球を含めたスポーツの醍醐味はなんと言っても応援される中でプレーできるということです。
僕自身とても恵まれていて、小中学校の頃は家族や友達、高校野球ともなえれば同じ学校の学生、大学野球であれば大学OBや一般の方まで、本当に多くの方から応援される中で野球をすることができました。
そんな野球人生では、負けた悔しさも、勝った喜びも、チームメイトはもちろん応援してくれる方全員と共有してきました。全員で負けて泣き、勝って泣きました。
その経験の共有、特に感情の共有には応援する側とされる側での境はありません。経験の共有によって悔しさは深く自分の胸に刻み込まれ成長の原動力となり、喜びは何倍にも膨れ上がって自分に返ってきます。
共有する人が多ければ多いほど心が動かされてきたのです。
この経験を通して、人が何かを本気で取り組み、それを応援してくれる人が増えれば増えるほど、より大きな感動を生み出すことができるのだと知りました。
僕たちの一挙手一投足に手に汗握り、点が入ればガッツポーズし、勝利すれば大歓声が巻き起こる。あの球場との一体感以上に心動かされる場面を経験したことがありません。
人が人に感動を与えることが世界を最も幸せにする
そしてここでもう一つ気づいたことがあります。
それは、僕たちは決してファンの方のために野球をしているわけではないということです。
もちろん応援してくれる方への感謝は忘れていませんが、やはり一番は“僕たちが勝ちたい”から野球をしています。
ファンの方は、そんな僕たちを見て応援してくれているのです。
誤解を恐れず言うのであれば、僕たちが自分たちのために野球をしている姿に心を動かす力があり、そこで生み出された感情の共有がかけがえない人生経験を作っているのです。
この関係性の中では、誰もが幸せになります。
僕たちは好きで野球をしていますし、応援する人は好きで応援しています。
誰もが自分の好きなことをした結果、全員がかけがえのない経験を得ているのです。
つまり、
人が人を感動させる場面では全員が幸せになれる
ということに気づいたということです。
「幸せ」という単語は語弊があるかもしれませんが、幸せでなかったとしても自分の人生の一場面に刻まれる経験になると思います。
僕は自分の力でこの世界の幸せを少しでも増やすことができるようにチャレンジしたいです。それは野球が教えてくれた、人生でも最も大切にすべき価値の一つだからです。
だからこそ、冒頭に書いた「人が人に感動を与える世界を作る」ことを目標にしているのです。
もちろん、人以外にも心を動かされる場面はあります。
満点の星空を見て言葉を失うこともあれば、美味しい肉を食べて笑顔溢れることもあります。どちらも間違いなく心動かされているでしょう。
しかし、これは感動を与える側はモノであり、そこに感情はありません。
心が動いている人は1人です。
もし感動を与える側が人であれば、心が動く人は2人になります。
そこで生み出される感動は2倍になります。
“人が人に感動を与える”ことは、この世界に幸せを増やす最も効率の良い方法なのです。
プレゼントはする側の方が心動かされる
スポーツ以外にも人から心動かされる場面は多々あります。
アーティストのコンサートはスポーツに似ています。
彼らは自分たちが好きなパフォーマンスをしたことで人の心を動かしているのです。
もっと日常的なものもあります。
例えば“プレゼントをする”という行為です。
当たり前ですが、プレゼントもらった側は嬉しいです。
一方で、プレゼントを渡す側も幸福感を感じていると思います。
僕は相手の喜ぶ顔を想像して常にワクワクしながらプレゼントを選んでいます。正直、自分のものを買うよりも、誰かのために買うときの方が圧倒的に幸せです。
プレゼントを誰かにするときは、喜ぶ姿を見れる僕の方が幸せなんじゃないかと毎回思うほどです。後日プレゼントしたものを使っている現場なんて見ようものなら、1週間は幸せに過ごせそうです。
プレゼントも渡す側は好きでしているからこそ、幸せは2人分生み出されているのです。
と、ここまでバラバラとまとまりのないことを書いてきてしまいました笑
最後に少しだけまとめてみます。
要するに、
何をするかは具体的に決まっていないけども、絶対に人が人を幸せにするための何かをすることは決めている
ということです。
ゴールは決まっているけども、そこにたどり着くまでの手段を決めていないというイメージです。
テーマとしての可能性は壮大かつ無限大です。
それこそ全世界の人々に感動を届ける何かを生み出すことができるかもしれません。
一方で今も昔も物事の本質は変わっていません。
“人が人を感動させる”という素晴らしい世界を数多の人が思い描いて、いろいろな形で既に実現してきたと思います。
だからこそ、今後僕がすべきはどのような形でこの理想を実現するか。
どういった方法で人が人に感動する場面づくりを後押しできるかを考えることです。
そのヒントは日常に転がっているかもしれませんし、勉強して初めて見えてくるものかもしれません。
だからこそ今はこのゴールを信じて目の前のことを頑張ることが必要なのだと思います。
このゴールを常に頭に置いておけば、ベストな方法を見つけることは間違いありません。
そしてその方法が自分のやりたいことになることも間違いありません。
“人が人を感動させる”
その世界を広げるためにも今日もまずは近くの人を幸せにすることから始めてみます。