唐突に現れたジャン・ラシーヌ
それは、あまりにも突然だった。
友達とのラインで、「そうジャン」と打った瞬間、奴は現れた。
ジャン
と打つと、
・ラシーヌ
が予測変換第1位に現れたのである。
正直、友達にふざけた肯定文を送ろうとした祟りかと思った。素直に「そうだね」で良かったのだ。まあまあ真面目な文脈でふざけるもんじゃない。
とまあ、軽く混乱に貶められた訳だ。
これは忘れている訳でも何でもなく、本当に私はジャン・ラシーヌなる人物の名前を打ったことがないし、調べたこともない。
何しろ「・ラシーヌ」が登場して初めて、ジャン・ラシーヌとは誰ぞとなって調べたのだから。
私と同じ気持ちを抱いた人のために彼を最も簡略に紹介した文を天下のWikipedia様から引用し載せておこう。
ジャン・バティスト・ラシーヌ(Jean Baptiste Racine)は、17世紀のフランスの劇作家で、フランス古典主義を代表する悲劇作家である。
恥を忍んで改めて言おう。
私は、この人を知らない。
きっと(ジャン)・ラシーヌが予測変換に出てきたと聞いて困惑するどころか羨ましいと思った人もいるのかもしれない。読者の中には、私の無知を哀れんでいる人もいることを私は知っている。
だが、これが私にとって「ジャン・ラシーヌとの邂逅」であり、正直言って私は大いに困惑した。
なぜ彼は私の携帯端末に突如として現れたのか、それとも元々潜んでいたのか。
知らなかったとは言え、歴史に名を残す偉大な悲劇作家に対し、私はチャバネゴキブリが出てきてしまった時と同じような反応をしてしまったことを深く反省している。
何の縁かは知らないが、彼の作品が読めると知った以上、知らないままで終われる訳がない。
私は直ぐに本屋に直行した。
何これすんごく面白い!
これが、陳腐で中身のないものだが素直さが全面に押し出された、読了後一番の感想である。
そう、元々この手の作品が大好きな私にとって、今まで出会わなかったのが不思議なくらい好みの作品だったのだ。
私たちは出会うべくして遭ったんだ!
そう確信せざるを得ないほど、私はジャンの虜になった。
そして分かったのが、彼が如何に偉大でどれほど有名であるのかということ。知らなかったから見えていなかっただけで、きっと、何らかの形で私は彼を知っていたのかもしれないと思った。
ここでは敢えて彼の作品について感想を書くことはしない。いつか読書感想文めいたものもしてみたいが、ここではジャンと私の出会いにスポットを当てたいからだ。気になった方は是非手にとって実際に読んでみて欲しい。
いつの間にかジャン・ラシーヌの回し者のようになってしまったが、やっぱり何の情報もなく読むのが一番わくわくするし作品にのめり込める。彼を敬愛する人たちを増やすには、ここに私の拙い感想を書き連ねてはならないのだ。特に戯曲に関しては、テンポ感や言葉選びが鍵となるから、冗談抜きで実際に読んでみなくては味わえない楽しさが大部分を占める。そして、自分ならどう演出してみるか考えると何重にも楽しめる至高の文学作品なのだ。
私の無知がより一層曝け出されることになるのだが、彼の代表作ともいえる『フェードル』は現代においても上演され色褪せることを知らない。
来年には大竹しのぶさんを主演に据えて上演されることになるらしい。
ジャン・ラシーヌは、本当に偉大だった。
私は己の無知を恥じて、彼をより多くの人に知ってもらうことに努めよう。それが、彼に対する懺悔であり、自分自身への戒めの証なのだと思うことにしよう。
なお、この記事を書くことにした時初めて、今も「ジャン」と打てば「・ラシーヌ」が出てくることが分かった。
普段、ジャンを打つことが少ないので忘れ去っていたが、ご丁寧に中点込みでラシーヌはジャンの後を追う。私が知らなかっただけで、もしかしてそういう仕様になっているのか。つまり、この劇作家をより広く知ってしまうために初めから仕込まれていた、この端末の制作者の陰謀なのだろうか。この不思議はいつまでも私を悩ませるつもりらしい。そして、皮肉なことに、この記事を書くにあたってジャン・ラシーヌを打ちすぎて携帯端末だけではなくPCにも彼の名前を記憶されることになるのだ。
だが、間違いなく良い出会いでもあった。結果よければ全てよし。
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