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待っていてくれますか

なんでここにあるのはビールなんだろう。
なんで今、私はビールを飲もうとしてるんだろう。

そういう気持ちで飲んだビールは、あの時が初めてだった。
ビールの苦さが苦しくって切なくって、何故だかちょっとしょっぱかった。


お酒と私


早生まれの私は、人一倍二十歳になる日を待ち望んでいたと思う。

大学受験を終えて新生活に向けた準備をしていた時、大学からアルコールパッチテストのキットが送られてきた。大学三年生になるまでお酒はお預けなのに、何だか大人になる準備みたいでとてもわくわくした。そして、色が全く変わらなかった結果を見て誇らしげに思ったものだ。
高校までとは違うのは、お酒を飲めるようになることだ、などと思っていたくらいだから、間違いなく私は、お酒に対して強い憧れを抱いていた。父がお酒好きだったこともあり、食卓にビールの缶や紹興酒の瓶が乗っているのは珍しい光景ではなかったし、いわゆるお酒のおつまみなるものに目がなかった私は、お酒の味など知らないはずなのに、成人する前から既に酒飲みの気分だった。
ただ、だからと言ってフライングするのは違うと思っていた。どんなにお酒が飲んでみたくても、二十歳になって初めて口をつけるのが粋だと思っていた私は、只管忍んで二十歳になる時を待っていた。とは言え、大学に入ったらちょっとは飲むことになるんだろうな、とぼんやり感じていたのも事実だ。ぺろっと舐めるくらいなら許されるかもしれない、なんて冗談半分に思っていた。

そんな私だったのに、大学に入ってからはお酒とかなり距離を置いていた。周りからは、お酒が苦手な人、お酒が不得意な人のレッテルをはられるようになった。
大学のお酒事情は、私が思っている以上に乱れていた。大学一年の時から浪人組の連中は遠慮なくお酒を飲んでいたし、そういう場にいれば、全体としてお酒へのハードルが下がったような雰囲気が漂う。良くないけれど、まだ未成年の人がこっそり飲むのはもはや暗黙の了解だった。その間違いが常識みたいに存在しているのが私はあんまり好きになれなくて、結局意地になってお酒を避けて、同期が飲み会で一杯目にビールを飲んでいるのを生暖かい目で眺めていた。

「お酒、苦手なの?」
「……へ?」
「いや、気を悪くしたらごめん。いつも仏頂面で烏龍茶飲んでるなあ、って思ってたからさ」
「えっと、私まだ未成年なので」
「そっか!偉いな、真面目だね」

そう言って笑い、遠慮なく私の頭を撫でて、余裕綽綽な顔でビールを飲む目の前の男の人に思わず敵意を剥き出しにした私は、決して悪くないと思う。

「当たり前のことです!二十歳になるまで待つからお酒は美味しいんです!」

目の前の男の人は少しびっくりするくらい豪快に笑って、揶揄うつもりはなかったんだ、と素直に謝った。

「広嗣です、よろしく」

その人は、ビアグラスを横に追いやって、笑顔で私に手を差し出した。

「ヒロで良いよ。君は?」
「……るなです」

これが、私と先輩の出会いだった。

ヒロこと広嗣先輩は人当たりの良い優しい人で、後から友達に、いつも端の方でむすっとしている私を気にかけてくれたんだろうと教えてくれた。
むすっとするなら出なければ良いのに、この友達が一人は嫌だと仕切りに言うので参加していたサークルの飲み会で、私に快く声をかけてくれた人は、たぶん先輩が初めてだった。
意固地で自分勝手な私が会の途中で帰ったから先輩とはもう話す機会もないだろうと思っていたが、友達に宥めすかされて連れていかれた次の週の飲み会で、私は再び先輩と話すことになった。揶揄われていたのか、可愛がられていたのか、とにかく先輩の方から仕切りに絡んできて、結局一ヶ月後にはキャンパスですれ違えば会釈するくらいには親しくなったのである。気難しい私が最悪の初対面を果たした人と約一ヶ月で心を許し始めたことに、高校からの私を知っている友達は楽しそうに笑った。強引にサークルの飲み会に誘った成果だ、と彼女は自分を誇りに思うとまで言っていたので、先輩とは思っているより親しくはないと否定すれば、私の場合は会釈でも十分大きな進展なのだと指摘された。そして、時間の問題だと宣言され、にやりと微笑まれたのだ。

「ねえ、るなちゃん。来年になったらお酒飲めるんだっけ」
「私、三月生まれなので再来年です」
「そっかあ。俺もう卒業しちゃうねえ。若いって良いな」
「先輩も十分若いでしょう」
「そんなことないよ?二十歳過ぎたらあっという間なんだって。大学生活なんてF1カーが通り過ぎるくらいあっという間なの」
「何ですか、その例え」
「あ、笑った。ちゃんと笑えるんじゃん」
「そりゃあ、私だって笑いますよ」
「千景ちゃんが、るなは滅多に笑わないから笑ってるとこを見れたらラッキーって前に言ってたけどなあ」
「あの子はいっつも大袈裟なんです」
「ねえ、るなちゃん」

お酒の効果なのか、彼自身の性格なのか分からないけれど、いつもふざけた調子の先輩が急に真剣な表情になったのでびっくりしたのを覚えている。

「はい……、なんでしょう」
「二十歳まで、ちゃんと我慢してね」
「はい……、そのつもりですが…」
「うんうん」
「先輩、急にどうしたんですか?なんか、変ですよ」

そんなことないよ、と笑って先輩は私の目を真っ直ぐに見つめた。

「るなちゃんが二十歳になる日、俺に頂戴よ」
「えっ?」
「俺、これでも結構お酒飲む方なの。一浪してるから同期よりお酒歴長いし、美味しいお酒を知ってる自信あるよ」
「初めて知りました」
「うん、初めて言ったからね」
「美味しいお酒、教えてあげるからさ。どう…?」
「せ、先輩が覚えているなら、よろしくお願いします」

畏った調子で答えると、先輩はまたおちゃらけた態度に戻って豪快に笑った。

「良かったー。これでも結構緊張したんだよ。断られたらどうしよう、って」
「理由もなく断りませんよ。それより、二年後なんですよ。先輩こそ予定空けておけるんですか?」
「予定ってね、空けておくものなの。例え他の用事が入っても、これが一番大事な予定だから、るなちゃんは心配しなくて良いよ」

先輩がモテる理由が分かった気がした。ちょっと顔が熱い気がして、お酒で誤魔化せないのは不便だな、と大学に入って初めてお酒が飲めないことを恨めしく思った気がする。


先輩と私


先輩の言っていた通り、大学生活は驚くほどあっという間だった。

必修だらけの大学一年生の後半はテスト勉強で忙殺されて終わった気がするし、大学二年生はバイトや遊びで忙しかった。時間が溶けていくような感覚にぞっとしながら、そっとその事実から目を逸らし、私は学生生活を謳歌した。頑なだった大学一年生の頃を笑って黒歴史だと言えるくらいには丸くなったし、おかげで男女問わず友達が増えて、知らなかった楽しみを享受することが出来た。

何もかも先輩のおかげとは言わないが、私が人間関係で躓かないようにアドバイスしてくれたのも、告白してきた男の子に対して上手く断りを入れる方法を教えてくれたのも先輩だった。
先輩との二年間の親交は、私に多くの学びを与えてくれて、親元を離れてから忘れていた安心感を与えてくれた。高校からの友人で大学に入ってからもそばにいてくれた千景から感じる温かみに似た、でも決定的に違う異性としての頼れる存在感に、私はいつしか完全に心を開いていた。
先輩との関係は、会釈をする間柄から一緒にご飯を食べに行く間柄へと進化していて、過程は今となってはもう思い出せないが、先輩のふざけた調子が乗り移った気がするくらい私は彼に毒されていた。
お互いに意識している気がすると思ったこともあったけれど、何となく綺麗な関係を崩したくなくて、私たちはその関係性をゴールに見立てて維持し続けた。私がそのつもりであることを、聡い先輩のことだから、言わずとも見抜いてくれたのだと思う。話題に出したことはなかったが、先輩の心の中にもちゃんとあの時の約束が存在していることが嬉しかったし、それで十分だった。

そうこうしている内に気がつけば先輩は四年生になって卒業してしまい、実感が沸かないまま彼はキャンパスから姿を消した。
寂しくないと言ったらただの強がりになってしまうが、会う場所が変わっただけで、よく考えたら私が三年生になっても先輩とは変わらず同じようなタイミングと距離感で会っていたように思う。
先輩は社会人になっても欠かさず連絡をしてくれて、私との関係を保ち続けてくれたのだ。
私は先輩が美味しそうにビールを飲むのを、烏龍茶をストローで吸い上げながら眺めるのが好きで、それを分かっている先輩は、一杯目も二杯目も三杯目もビールを頼んで、最後にはちょっと苦しそうにベルトを緩めていた。

三回目の期末試験が終わって、慰労と称して誘ってくれた先輩とご飯に行った辺りから、私はきっとそわそわし始めていた。
iPhoneのスケジュール帳を意味もなく何度も開いては閉じて、私は二十歳の誕生日を今か今かと待ち続けた。
大学に入る前までとは違う意味で、私は二十歳になるのを人一倍待ち望んでいた。

「もしもし?」

いつもは文字でやりとりをしているのに急に電話がかかってきたから、びっくりし過ぎて思わず携帯を落として画面を割ってしまった。

「は、はい!先輩ですか?」
「るなちゃん、今大丈夫?」
「ええ。びっくりしましたけど、大丈夫です」
「急にかけてごめん。何となくこれは口頭で伝えたくてさ」
「……はい」
「来週有給取ったから、一緒に出かけよう」
「へ!い、良いんですか?」
「うん、そのための有給だからね」

私ももう子供じゃない。先輩がどんなにオブラートに包んで言おうとも、一緒に話していれば、彼の多忙な会社事情がよく分かる。そして私は、私の誕生日がお仕事のとても忙しい時期であるということを知っている。でも、先輩の優しさを無碍にしたくなかったし、私自身、先輩と過ごすのをずっと待ち望んでいた日だったから、先輩にありがとうを言って素直に彼の気持ちを受け取った。

「それにさ」
「はい、なんでしょう」
「それが俺にとって一番大事な予定だから」

先輩は覚えていないかもしれないが、先輩は、私が一年生の時もそう言ってにっこり笑っていたのだ。
そういう所は全然変わらないな、と心が温かい気持ちで包まれて、私は電話を切ってベッドに横たわりながら、少しだけ涙が溢れるのを感じて、枕に顔を押し付けた。


人生初のビール

「とりでって読むんですか」
「そうだよ。初めて?」
「はい。茨城に行くの自体、初めてかもしれないです。何だか新鮮で楽しみ」
「おお、良かった」

上野から常磐線で一本。思っているよりも随分とあっという間に取手に辿り着いた。
先輩には美味しいお酒を飲もうね、としか言われていなかったからどこに向かっているのかよく分からず、迷子にならないように直ぐ後ろを歩いているとそっと手を引かれて驚いた。

「今日はね、どこにしようか結構迷ったんだけど、俺が好きな銘柄がここのだからさ」

そう言って連れられたのはビールの工場だった。

「一番美味しいのはやっぱり工場で飲むビールだよ」

先輩に促されるまま直ぐに工場見学に突入し、ビールについての詳しい知識を学びながら、これから飲むビールの味を想像して何度も唾を飲み込んだ。

「もうすぐ、なんですね」
「うん。緊張する?」
「ちょっぴり」
「大丈夫、ちゃんと美味しいから」

先輩の言う「美味しい」は、私の中でまだふわふわした曖昧な言葉だ。それがどんな色に変わるのか、楽しみであり怖くもあった。

試飲を目前にして緊張していたからか、工場見学はあっという間に終わってしまった。
昔使われていたという味のあるポスターを眺めながら、私は緊張で胸が高鳴っているのを感じて、遂にお酒を飲むのだと笑みが溢れるのを止められなかった。にやにやして試飲スペースに向かう私はきっと、誰よりも怪しい成人女性だったと思う。そんな私を先輩は楽しそうに黙って眺めながら、落ち着いた音程の声で私を宥めながら、カウンターまで導いてくれた。

溢れるくらいに注がれたビールが、私の口に運ばれるのを今か今かと待っている。

「美味しそう……」

乾杯の瞬間まで椅子の上で落ち着きなくビアグラスを眺めていると、先輩はいつものように豪快に笑って向かいに座った。

「そんなに楽しそうにビアグラス眺めてるの、るなちゃんだけだよ」

ーービールは苦い。舌ではなく喉で味わうもの。

先輩はビールを「美味しい」としか表現したことがなかったが、先に成人を迎えた同期は口を揃えてそう言っていた。
千景は、ビールは付き合いで一回飲んだだけらしく、ジンとかウォッカの方が美味しいよと語った。彼女はオリーブが添えられたマティーニを飲むのが好きらしく、私が成人したら一緒に行きたいバーがあるんだと楽しそうに言っていた。ビールを飲まない派の彼女は、私がいつもビールを恨めしそうに眺めているのを不思議がって、ビールに親でも殺されたの?と本気で心配された。どうやらあまりに熱心に見つめているものだから睨んでいると思われたらしい。

とにかく、私の周りでビールを美味しいと真っ直ぐに表現する人は、先輩しかいなかった。
だから、私は何も考えず、信用ならない同期の言葉を忘れて、味わうようにビールを口にした。

「っ!」

先輩がにっこり笑っている。その顔を見て、多分自分もきっと同じようににっこり笑っているんだろうなと思った。

「先輩!」
「なんだい?」
「先輩!」
「はいはい、落ち着こうか、るなちゃん」
「これが落ち着いていられますか!ビール、すっごく美味しいじゃないですか!」

近くにいた工場のお姉さんが有難うございますと頭を下げてきたのでやっと私は冷静になった。なんだか恥ずかしい。

「そ、想像していたより美味しくて、思わず。すみません、先輩。……先輩?」

先輩が口元を押さえてにやけているので、珍しい顔つきに私は思わずどきりとした。

「俺、やっぱりるなちゃんが好き」

赤くなった顔をお酒のせいに出来るから、大人ってずるくてお得だなと思った。


ビールと私

告白されたのは観覧車の上で、だとか、大学の近くのバーでだとか。
友人たちは飽きもせず、ロマンたっぷりに彼氏との馴れ初めを語ってくれる。その内容が少々ロマンに欠けていても、バーとか観覧車とかいう言葉がそのマイナス点を補ってくれるから良いよな、と飽きもせず彼女たちの恋愛談を聞きながら、私はちょっと気が抜けたビールを飲み干した。

「あの堅物女王るなが、遂にヒロ先輩とカップルに、ねえ」
「おお、ついに!」

友人二人はにやにや笑ってくっつきながら、初めて話題にしたかのようにこちらを見遣っているが、このやりとりはもう数え切れないほど行われている。だが、何故か今だに飽きないらしく、二人の中で定番の遊びと化しているらしい。正直ちょっと迷惑だが、酔っ払いのノリは嫌いではないので止めることはしない。烏龍茶ではなく、隣に座る友人のレモンサワーを勝手に拝借して飲みながら、二人の質問責めを受け止めることにした。

「私、ヒロさんがあんたと知り合ってから彼女作っていなかった理由、ちゃんと知ってるんだからね」
「私だってずっと陰ながら応援してたんだから」
「だからね、るな。大人しく吐いてしまいなさいよ。その方が楽よ?」
「そうそう。三次会に行く前にお手洗いに行く人は、絶対みんな吐いてる」
「ちょっと、何の話よ」
「あんただけ逃げるのなんてずるいのよ、って話よ」
「んん?」
「だから、」
「どうやって告白された訳?」
「……はあ、答えないのはロマンチックなのを期待されてることが分かっているからよ」
「期待するわよ。だって、相手はあのヒロさんだよ?」

友人たちが先輩を必要以上に美化しているのは知っている。この場にいない千景は分かっているようだが、サークルで彼と一緒だった訳ではない友人たちは、学部で知らない人はいないのではないかというほど有名だった先輩を、しっかり外見で判断している。つまり、イケメンで優秀なモテ男としての認知である。

「それならご期待に添えなくて申し訳ないなあ。あの人、あれで結構抜けてるとこあるし」
「あの人、だってさ」
「あらら、早速惚気?」
「今のどこが惚気なのよ」
「ヒロ先輩をあの人って呼べるの、多分るなくらいだからよ」
「るな、良かったわね」

急な祝福ムードに戸惑っていると、友人は私から空いたグラスをひったくって、慣れた調子で店員にビールを頼んだ。
お酒を初めて飲んだ日から一ヶ月も経たないうちに私がすっかりビール教に入信したことは、あっという間に彼女たちの知るところとなり、同時に、先輩と付き合ったことを悟られることになった。隠していた訳ではないが気恥ずかしい。初めて問い詰められた日は、本気で逃げてしまおうと思ったものだ。

「るな、ビール以外を飲んだらヒロさんに怒られるとでも思ったの?」
「む、鋭い……違うけど」
「ほぉ…?」
「なになに?」
「何よ。先輩の真似して何が悪いのよ」

友人に揶揄われながらも懲りずにビールを飲む私は、もしかしたらちょっと酔っているのかもしれない。
成人してから私は、何もビールしか飲んでこなかった訳ではない。約束通り千景に連れられてムードのあるバーに行き、ビールやビアカクテルとは離れて洒落た洋酒を嗜んだ。今私と一緒に盛り上がっている友人たちとも氷結片手に何度か家飲みを敢行している。でもやっぱり私にとってしっくりくるお酒は、ビールらしい。

「そういえば先輩、初めて会った時こんな髪色だったな」

私の家の近くに住む千景と、彼女に援護要請された先輩が迎えに来るまで、私は机に突っ伏して眠っていたらしい。


先輩とビールと私

「ねえ、るなはビール以外飲まないの?」

そう言ってビール以外のお酒を差し出された時、先輩の浮気者と罵りそうになった。思えばその時まで、先輩と一緒にいる時にビール以外を飲んだことはなかったかもしれない。

「るな、最近やたらとビアホールに行きたがるから、俺なんか心配になってさ」
「だって美味しいじゃない」
「うん。まあ、ビールが美味しいのは自明なんだけど」
「だけど?」
「ビール以外の美味しさを知らないで終わるのはもったいないし、ビール以外の美味しさを知って初めて堂々とビールを美味しいと言えるんだよ」

先輩はちょっと引くくらいビール教の信者を極めていた。
でも、それが先輩らしくって、そのせいで私もすっかりビールに毒されてしまっていた。先輩に毒されていたのは元々だけど、彼は分かってやっている節があるのでずるい大人だった。

それから私はウイスキーの味を覚え、日本酒にハマり、ジンで作るカクテルの虜になった。
ビールの美味しさを忘れた訳ではないが、成人してから五年くらいして、漸く私はお酒の美味しさを分かるようになった。

先輩はバーでアルバイトをしていたことがあるからか、お酒を作るのが上手くて、彼の家に遊びに行くと、下手したらお店に行くより美味しく、沢山のカクテルを楽しめた。最後に必ず用意してくれたキンキンのトマトジュースが美味しくて、もうこれ以上飲んだら駄目だと言う先輩に無理を言って、レッドアイを作るようにいつもせがんでいた。

「先輩って、なんでビールが好きなの」

先輩との付き合いはもう随分と長くなるのに、気恥ずかしくて名前で呼べなくて、私は今だに先輩を先輩と呼んでいる。先輩は私を説得するのを諦めたらしく、会ったばかりの頃を思い出して懐かしいから案外悪くないかもね、と優しく言ってくれた。この日も、いつものように先輩の家に入り浸って、私は先輩と一緒に美味しいお酒を堪能していた。今日はカクテルではなく缶ビールを楽しんでいるから、ふと訊きたくなったのかもしれない。

「ビールが好きなのは、やっぱりドイツに留学したからかなあ。短期だったけど、いや、短期だったから飲みまくって楽しい留学生活だったよ」

そう言って笑う先輩はもうすっかり社会人の大人の顔をしていて、何故だかちょっと緊張した。私がまだ先輩を知らなかった頃の先輩の話は私にとって新鮮で、学生時代を懐かしむ男の顔は、眩しくて一際格好よく見えた。

「先輩がビールを美味しいって言う時、ちょっと引くくらい気持ち良さそうなんですよ」

思わず付き合う前みたいに敬語になって、私は先輩に語りかけていた。

「なんでそんなに自信持って美味しいって言えるのか分かんなかったんですけど、その時出会った人たちが、先輩にビールの味を教えてくれたんですね」
「ははっ、そうだなあ。るなの言う通りかもしれないね。やっぱり思い出すんだろうな。ホストファミリーがさ、家の庭でバーベキューパーティ開いてくれて、ビール瓶片手に俺の拙いドイツ語を必死に聞き取ってくれた。ビールを飲むと、そういうのを無意識に思い出してるのかもしれないな」
「味の記憶ってやつですかね」
「そうかも。あったかくてきらきらしてて、ビールそのものって感じだったなあ」
「私は……」
「ん?」
「私は、グラスが半分になる度に先輩を思い出してますよ」
「え、俺?」
「そうです。初めて会った時の先輩、いかにもちゃらそうでモテそうで。それに、揶揄われたと思ったから思い切り反発して。それなのに全然怒ってなくて、むしろ謝られて。気がついたらいっつもいて、面倒なくらい話しかけてくるし、先輩、サークルに顔出さなくなっても話してくれて、絶対就活で忙しかったのによく一緒にご飯いってくれて。ずるいです、先輩。私の中にビール飲んでる先輩ばっかり出てくる」

気が付いたら涙を流しながら先輩に抱きついていた。先輩は子供を宥めるみたいに優しく私の背中を撫でて、私の気が済むまで腕の中に閉じ込めてくれた。

「るなちゃん。俺もね、多分一緒だよ」

先輩の体温が私を落ち着かせた頃、先輩の言葉はゆっくりと気持ちの良い低音で私の心を捕まえた。
私が敬語になったように、先輩も気がつけば私を昔みたいに「るなちゃん」と呼んでいた。心があの頃に引き戻された時、私たちの気持ちは裸になって、ぴたりと合わさったような不思議な一体感があった。

「俺がビールばっか飲んでるの、るなちゃんに見てもらいたいからだよ。るなちゃんいつも仏頂面で烏龍茶飲んでるのに、俺がビール飲んでる時だけちょっと嬉しそうで可愛くて。だから俺、るなちゃんに笑って欲しくていっつもビール飲んでた。馬鹿みたいな理由だけど、馬鹿にしないでくれよ」
「ねえ、先輩」
「なに?」
「私もう、とっくに大人なんですよ」
「そうだね。るなちゃん、もう25になるのか」
「そうですよ、私だって立派な社会人です。就職のお祝いをしてくれた時、先輩は先輩のままだけど、漸く並べたのかな、ってちょっと嬉しかったんですから」
「俺だって嬉しかったよ、今もずっと繋がり続けてることがさ。最初にるなちゃんに約束取り付けた自分に、ご褒美をあげたいよ」

そう言って私の頭をそっと撫でる先輩の手が熱くて、お酒に強い先輩でもアルコールの影響を受けるのかな、なんてぼんやり考えながら、彼の手の温かみを感じていた。

「そうだ。前、先輩って呼んでるうちはプロポーズできないって言ってましたよね」
「そういえば、言ったね」
「あれ、冗談ですか?」
「いや、本気」
「そうですか……」
「どうしたの?もしかして愛想尽かしたの?」

顔を上げ、先輩の腕から抜け出して、彼の膝に乗ったまま彼の瞳を見つめた。ふざけてばかりの後輩の、彼女としての真剣さを伝えたかった。ビールやお酒の美味しさだけではなく、正しい約束の仕方を教えてくれたのも、他でもない先輩だったから。

「ねえ、先輩。先輩のこと、私、ちゃんと名前で呼びますから。だから、もうちょっと待っていてください」
「じゃあさ、誕生日プレゼントってことで良い?」

思わず、ずるいと呟いた。あんな優しい顔で微笑まれたら、断れないじゃないか。

「っ、分かりました。来月まで待っていてください。ちゃんと、プレゼントできるように心の準備します」
「うんうん。頼んだよ、るな」


先輩へ


ねえ、先輩。
私たち、出会ってからどれくらい一緒に乾杯してきたんでしょうね。

いっつも最初に中ジョッキを頼むから、「杯を乾」せたことなんて殆どないけど、先輩は杯を乾さんばかりにごくごく飲んで、見ていて何だか気持ち良かったです。一口目でグラスの半分までビールが減っちゃうのはもったいないから、やっぱり乾杯は形だけで良いんですよ、って言っても聞かなかったですね。それがやっぱり先輩らしくて格好良かった。でも、私が真似して一気に沢山飲んだら、先輩、乾杯は形だけで良いって私に叱ったんですよ。ビールを美味しく飲む方が大事だ、って。ビールでは一生先輩に敵わないと思ったなあ。

ねえ、先輩。
なんで私を置いていったんですか。

あまりにも急に、しかも何も言わずにいなくなっちゃったから、私、息が苦しくなって、このまま一人でいたら先輩の後を追えるのかな、とか馬鹿なことも考えました。千景が様子を見に来てくれなかったら、たぶん、もう二度と会えなかったかも。馬鹿なことを考えるもんじゃないって言うんでしょうね。でも、あまりにも沢山の時間を先輩と過ごしたから、先輩がいない未来が想像できなかったんです。先輩は罪な男ですよ。そしてやっぱりずるいです。
先輩はきっと、いつもみたいに豪快に笑って言うんですよ。馬鹿だな、るなは。いつかはまた会えるんだから、今すぐじゃなくて良いじゃないか、って。そう言う先輩の声が聞こえた気がしたから、私はちゃんと今を生きています。

ねえ、先輩。
でも、やっぱり私は寂しいです。

先輩の作ったレッドアイが飲みたい。先輩の腕に抱かれたい。先輩の笑った顔が見たい。それに、もっと、先輩の話を聞きたかった。
先輩が初めてお酒を飲んだ時の話とか、先輩が初めてビールを飲んだ時のこととか、全部出し惜しみして教えてくれなかったじゃないですか。

ビールを知る前の先輩に会いたかった。そしたら私、仕事終わりに飲むビールの美味しさを知らないままでいられたのに。先輩の教えてくれたビールやお酒の美味しさが、今は私を苦しめているんですよ。
人間は生きていればお腹が空くし喉も渇くんです。こんな残酷なことはないと思います。先輩を想いながら、それでも私は箸を持つ手を止められないんです。それに、お酒だって飲みたくなる。先輩が教えてくれた沢山の「美味しい」は、私の中に強く根付いています。いっそ忘れてしまえたら良いのに、懐かしくて切なくなるんです。先輩との大切な接点が、私には愛おしくもあり恨めしくもあるんですよ。

ねえ、先輩。
私、もうビールは飲めません。

お通夜の後、ビールが出てきたんです。先輩の好きな銘柄でした。
初めて飲んだ時はあんなに美味しかったのに、びっくりするくらい苦くて、初めて私、ビールを残しました。
一年生の時みたいに、ビールが苦手でお酒が飲めない子だと思われたかもしれません。でも、あのビールはあまりにも先輩との思い出がいっぱいで、私にはまだ飲めそうにありません。
味の記憶って残酷です。
ビールを見るだけで私、先輩を思い出してしまうんですよ。
そして、飲んだら細胞レベルで思い出すんです。ああ、私、先輩にいっぱい愛されていたんだな、って。

お通夜の後、先輩のお母様とお話ししました。先輩の部屋に、ダイヤモンドの指輪があって、私のために用意していたんだろう、って教えてくれました。
お母様は酷い人です。もしもう少し早く教えてくださっていたら、私はきっと棺桶の中に指輪をしまって、全て夢だったんだって思ってしまえたのに。でも、なかったことにするのは、あの子には酷すぎると言われました。
ずるいです、先輩。もうずっと前から用意してくれていたなんて、私知りませんでした。その事実を突きつけられたことは、私には酷すぎましたよ。
だけど、やっぱり燃やしてしまわなくて良かった。お母様はきっと、そこまで分かって取っておいてくださったんでしょうね。
永い夢を見ていたような思い出になってしまったけど、夢じゃなかったということをちゃんと証明してくれるものが、今の私の心の支えになる気がします。矛盾したことを言うようですけど、やっぱり私、先輩と出会えたことをなかったことにしたくはないみたいです。
指輪を見て、先輩のきらきらした目を思い出しました。私、ダイヤモンドなんて初めて見ましたけど、ビールの気泡みたいに輝いているんですね。とっても綺麗で眩しかったです。
先輩の手ではめて欲しかったな、って我儘を言って良いですか。

ねえ、先輩。
ヒロって呼ばずに終わっちゃったじゃないですか。

私、ずっと呼びたかった。
今なら馬鹿にしていいですから、恥ずかしいからって理由でやめてしまうのは幼稚だって言ってやってください。

私、たぶんずっと前から先輩が好きだった。
強引に気づかせようとせず、待っていてくれて有難う。千景から聞きました。ずっと私の気持ちが追いつくまで待つって決めてた、って。
また待たせるのが心苦しいです。

ねえ、先輩。
私、まだまだ沢山生きることにします。
だから、今度は二年とか一ヶ月とか待つだけじゃ済みませんよ。嫌味なくらい生きてやるんですから。私の頑固っぷりは先輩もよく知ってるでしょう?覚悟していてください。


先輩、待っていてくれますか?

そっちにとびきり美味しいビールがあるの、知ってるんですから。
キンキンに冷えたビアグラスに並々注いで待っていてください。
そしてまた、乾杯しましょう。

それでは、また。

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