Au Revoir 悲しみに身を任せること
哲学者アルフォンス・デーケン(1932~2020)によれば、人が精神的ショックを受けてから立ち直るまでに経験する悲しみの種類は12段階に分類されるといいます。それが「悲嘆のプロセス」です。
1.精神的打撃と麻痺状態 2.否認 3.パニック 4.怒りと不当感 5.敵意とうらみ 6.罪悪感 7.空想形成と幻想 8.孤独感と抑うつ 9.精神的混乱と無関心 10.あきらめ-受容 11.ユーモアと笑いの再発見 12.新しいアイデンティティの誕生
この12段階は必ずしも全ての人が全段階を経過するのではなく、またその順番も人により異なるようです。
この悲嘆のプロセスをご紹介したのは、私の心が祖父の死をきっかけとして6段階目の罪悪感へと至り、それこそがAu Revoirを作曲したきっかけとなっているからです。
祖父の老衰死
2019年2月、あと数ヶ月で元号が変わるというときでした。私が施設に到着したとき、祖父の呼吸は二秒に一回。息を吐く音はほとんど聞こえず、「ハッ」と一瞬息を吸い込む音が規則的に聞こえるだけでした。
呻き声を出して、体を大きくよじるような動きをすることが何度かありましたが、私にはそれが自発的に行われているようには思えず、体が勝手に動いているような感じがしました。呼吸についても同じで、最小限の生命活動だけが起きているという印象を受けて、死んでしまうということがもう避けようのないことだと、どうしようもなくわかりました。
二秒に一回だった呼吸が、段々とその間隔が長く空くことが増えてきました。遂に止まった、と思ったらワンテンポ置いてまた吸う音が、今度こそ止まってしまったか?と思いきやまた呼吸は続く…ということを何回か繰り返したでしょうか。
しかし遂に、いつ止まったかということはわからないけども、もう息を吸う音がしなくなりました。死亡したという判断は医師にしかできないので、その判断に立ち会わなかった私は形式としての死の瞬間を見ることはできませんでしたが、間違いなく祖父が死んでゆく時間を共に過ごし目を逸らさずにその死を見届けることができました。
祖父と私の関係
小さい頃から祖父母のもとにはよく預けられていて、祖父はよく庭で遊んでくれました。新潟の山で生まれ、自然に囲まれた環境で育ったせいか祖父は庭いじりが好きで、ザクロやイチジク、名前のわからないような木・花が庭にはたくさん植わっていて、虫も集まるので遊びには困らない庭でした。それに祖父は工場に勤めていたこともあり機械類に詳しく、押入れには工具やモーターなど人から見ればガラクタのようなものばかりがありましたが、それは幼い私にとって興味の尽きないものでした。
しかし私の年齢が上がるにつれ、私は祖父との話し方がよくわからなくなってきました。それまで祖父との話し方を意識することは無く、おそらく一方通行の会話だったのでしょうがそれはそれで自然だったのが、妙な恥ずかしさを覚えて「何を話せば良いかわからない」という状態になってしまったのです。庭に一緒に出ることも無くなり、祖父母宅に預けられてもゲームや漫画で時間を費やすようになりました。
私が中学生になった頃、祖父は家の中で転倒したことがきっかけで介護を受けるようになりました。その前から私がもう預けられるような年齢ではなくなっていたことも合わせて、急速に祖父と私が会うことが少なくなっていきます。
それから祖父の死までの十年近い間、母や祖母に付き添ってお見舞いに行くことはあっても会話らしい会話はできず、コミュニケーションがあったとしても簡単な挨拶と、帰るときの握手くらいのものでした。
祖父もだんだんと耳が遠くなり、亡くなる直前の正月には言葉を発することも少なくなっていて、私は押し入れから昔見せてもらったモーター類を持ってきて祖父に見せましたが、少し触っただけですぐ興味を失ったような印象でした。
祖父が亡くなる数日前、私は施設にいる祖父にゼリーを届けに行きました。最近は一日眠っていることが多い、ということでしたがその時は起きていて、目は合いましたが果たして私が誰だかわかっているのか、話しかけても返事がないのでわかりませんでした。
そのとき届けたゼリーが、祖父の最後の食事になったそうです。
通夜・告別式を終えて、発見したノート
告別式は夕方には終わり、祖母を送るため私たち家族は車で実家に赴きました。
特に何をするでもなく、しばらくリビングでゆっくりしていた私は何気なく、祖父のものが入っている押入れを開け、今まで不思議と見ることはなかったノート類がまとめてある段から一冊、オレンジ色のノートを取り出してそれを開きました。
そのノートの1ページ目に書いてあったのは今まで誰も知らなかった、家系図の断片でした。
この家系図を見た瞬間に、私の中で何か決定的なスイッチが入ったような感覚がありました。それから数ヶ月、私は執拗に祖父の故郷・家系図のことを調べ続けることになります。(2020年現在も、さらに範囲を広げて家系図・所縁のある土地に関する調べ物を続けています)
調べながらも、私はこの情熱が、今まで蔑ろにしてきた祖父との関係性に対する後ろめたさ、罪悪感から生じていることに気がついていました。ストレスからの逃避行動だったと思います。
祖父の日記の中の私
祖父は施設に入居するまでは、毎日欠かさず日記をつけていました。押し入れで見つけたオレンジのノートも、一ページ目には家系図が書いてありましたがそれはその情報を知った日に日記の一部として書き記していたもので、次のページからは日記の体裁を取っていました。
ちなみに祖父が家系図のことを詳しく聞いたのは、祖父の兄が亡くなった際に、実家の母親(私にとっては曾祖母)に会ったときだと思われます。
祖父も親類の死に接して家系図や先祖のことに興味が湧いたのかもしれません。
祖父が残した膨大な日記の中には、私が幼いとき祖父母のもとに預けられたときのことも書いてあり、日記に私が登場する箇所を見つけては読みました。
といっても書いてあることはほとんど「今日は涼が来た」程度の簡単な内容だったのですが、何年分も過去から順番に読んでいくうち、「涼から話しかけてくることが少なくなった」という文が偶然目に飛び込んできました。
その瞬間、私は後ろめたかった罪悪感と向き合うことになりました。祖父との距離が離れていったことは私だけが思っていたことではなく、祖父自身も感じていた。しかも私の変化がそうさせた。
心が寒くなりました。
やはりそうだった、罪滅ぼしのように祖父に関することを調べてきたが、それらは何の贖罪にもならないことで、しかもその罪は私の気のせいではなく祖父自身の日記にも書かれているではないか。
ここで耐えきれず日記を閉じていたら、Au Revoirという曲は生まれなかったかもしれません。私は続く文章を読み、そこに書いてあった祖父の述懐に救われることになるのです。
祖父もまた、後悔を抱えていました。
母親を故郷に残してきた祖父
その文章はちょうど時期としては私たち家族が埼玉から東京に引越す頃に書かれたもので、実家との距離が離れて私が泊まりに来る頻度も少なくなるだろう、ということから始まり、内容は祖父とその母(私にとっての曽祖母)のことへと移っていきます。
祖父は上京した後も年に数回、頻繁に故郷の新潟へ帰省していました。故郷に残される曽祖母の寂しさを、祖父は孫を持った現在の自分と重ね合わせていたのです。
それは世代を越えて繰り返されるさびしさだと、祖父は書き残していました。
後悔との付き合い方
私はその言葉を何度も噛み締めました。
後悔が無くなるわけではありません。しかし後悔との付き合い方が、その時ようやくわかった気がしました。
私がその境地に至れたのは、後悔と向き合ったからではありません。前述の通り正面から向き合うのを避けていたことが、むしろ必要だったとすら思えるのです。
ここから私は、悲しい出来事・つらいことに直面したときに、自分の心に任せるということが大事なのではないか、という考えを持ったのです。
向き合いたいなら向き合い、泣きたいなら泣き、考えたくないなら考えない。いずれその費やした時間が、自分を変えてくれるのではないか。
再会を願う別れの言葉、Au Revoir
フランス語には二つの別れの挨拶があります。
Adieuは長い別れの際に使う言葉で、Au Revoirはまた会おう、と近いうちの再会を願うニュアンスを含む言葉です。
大切な人との別れを経験する時、人はすぐに永遠の別れを受け入れられるでしょうか。もう一度会いたい、せめて声だけでも、夢でもいいから、と思うことは、それが叶わないと知っていても考えてしまうことだと思います。
そのありふれた矛盾を、Au Revoirという言葉は本来の意図とは違う形で言い表してくれているように思います。
矛盾・葛藤を抱えている自分をまず肯定することが必要だと、私は信じています。
終わりに
作曲のテーマは、作曲家の趣味や生活と密接な関係を持つものですが、このAu Revoirほど自分の体験と結びついた曲もそう書けるものではないな、という予感がしています。
テーマが個人的になればなるほど共感を得ることは難しくなります。このAu Revoirも、決して爆発的に広まるタイプの曲ではないと思います。しかし、この曲を書くことができた満足感は何物にも変えがたいものです。書きたいと思ったテーマがあっても、表現する術を知らなければそのチャンスを掴むことはできません。そのチャンスを、今回は掴むことができました。
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。以上でAu Revoirの作曲経緯・テーマ解説を終わります。
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