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雪女伝説 理不尽の寓話

 この記事では、マンドリン合奏曲「雪女伝説」の作曲経緯やテーマについて解説します。


作曲のきっかけ

 2019年の10月、高田馬場のブックオフに立ち寄った際に漫画を二冊買いました。一つは高野文子の「黄色い本」、そしてもう一つが勝又進の「赤い雪 勝又進作品集」でした。

 高野文子の本は当時から好きでしたが、勝又進はその時点では名前を知りませんでした。ただ、表紙がなんとなく良いということと、パラパラページをめくった時に見えた絵柄の感じが気に入りました。

 勝又進(1943-2007)は漫画雑誌「ガロ」でデビューした漫画家で、四コマ漫画の他に、日本の懐かしい農村風景を題材にした、温かみがあり土の匂いのする物語を多く執筆しました。大学では原子核物理学を専攻していて、「深海魚」という原発作業員を題材にした漫画も書いています。「赤い雪 勝又進作品集」は、ガロを出版した青林堂にルーツを持つ青林工藝舎から、勝又進の没後に出版されたものです。
 作品集の内容はほとんど漫画ですが、いくつかエッセイも収録されており、その一つが「雪女」と題されたエッセイでした。
 その内容の特異な点を要約すると以下の二点になります。
・雪女は人間の女性である
・子種をもらうために男を誘惑する

※このエッセイに関しては勝又進の「絵本 遠野物語」にもほぼ同じ内容のエッセイが収録されています。

 私は上記の中の、「雪女は実は人間である」という部分に大変心惹かれました。異類とされる存在が実は人間で、時代を経るうちに怪異と伝えられていく、この流れが面白いと思ったのです。

 そして、雪女を題材にいつか曲を作ってみようと決め、主人公は雪女と思いきや実は人間で、しかし本物の雪女も登場する、という構造を思いつきました。加えて昔話風でありながら現代で発表をする意義があるような内容にしなくてはならない、と考えました。

第一楽章:漂泊の少女

 昔、ひとところに住むことなく山から山へと渡り歩く人たちがいた。血縁集団である彼らは同時に職能手段でもあり、伐採した木を加工してものを作り、それを立ち寄った村々の人と物々交換することによって糊口を凌いでいる。彼らは特に決まった名前で呼ばれないが、今はさすらう人々......「漂泊の民」と呼んでおく。
 極力自分たち以外との交流を断っている漂泊の民だが、外界との交流無しに集団は維持できない。彼らが血縁集団である限り子を成さなければ血筋は紡がれず、血縁者同士で子を成せば血は濃くなり、いずれ絶えてしまうだろう。必然的に、どこかから女性を拐(かどわ)かして集団に迎え入れるか、その反対に集団の中から女性を外にやり、男を誘惑させ子種だけをもらって戻ってくるか、その二つが集団を維持する方法だ。その時、漂泊の民が選択したのは後者だった。そしてお雪という娘に、その役目が負わされることになる。

 第一楽章は世界観と主人公の説明です。

 「漂泊の民」というのは私が考えた独自の名称ではなく、定住していない人たちのことを指す言葉です。単に漂泊民と呼ばれることもあります。
 日本では昭和期に漂泊民がサンカと呼ばれ、小説で謎めいた設定を盛られて話題になったこともありますが(三角寛など)、実態はそう神秘的なものではありません。「雪女伝説」では、日本に実際にいた漂泊民に関する研究(幻の漂泊民・サンカ/沖浦和光)と、勝又進のエッセイとを組み合わせて設定を考えました。
 木を伐採して生活する、ということで杣人(そまびと)とも言えますが、こちらは具体的な職業名なので、あまり意味合いを限定したくない意図もあり、文中には使っていません。

 強調したかったのは主人公お雪が過ごしている環境です。とにかく劣悪な環境で、本人にはどうしようもない過酷な境遇である、ということを書いています。自分の意志や将来への希望もなく、自由が無いまま一生を役目の中で終えるこの現状は、物語の主人公としては打破しなくてはならない設定です。

 環境からくる諦念、これが現代人にも通じるテーマとして、原作にはない要素ではありますが重要だと考えました。

 音楽面では、映像音楽的な手法を使いまして、サスペンスな印象に仕上げています。物語の始まりなので謎っぽさを出しつつ、冬という季節感、主人公の雰囲気、そして悲劇的な結末の予感・・・と、大きな出来事は起きませんがここで曲全体の雰囲気を掴ませる楽章です。

第二楽章:白夜の契り

 お雪は仲間と共に村々の様子を探り、子を成すのに適当な、ひとりで暮らしている若い男を見つけ出した。お雪はときどき一人で出ていって、遠巻きに男の姿を見にいった。お雪はこれから契りを結ぶ相手である男の名すら知らない。その男とは一夜を過ごしたとしても、お雪はすぐ仲間の元へと帰らねばならない。必要なのは新しい命だけで、男を愛する必要などないのだ。
 冬になり、時がきた。雪降る夜に、お雪は男の家を訪ねる。男は、突然一晩泊まらせてはもらえないかと頼まれ、奇妙に思いながらもそれを断らなかった。特に冷え込む夜だったし、まさかこんな娘っ子に寝首をかかれることもあるまいと思ったのだ。拍子抜けするほどの男の無警戒さ、優しさがお雪の緊張をほぐしていく。お雪は自分でも不思議なほどに落ち着いていた。夜になっても雪が月の光を吸って、辺りは仄白さに包まれていた。
 白い夜が明けると、お雪は自分に会ったことを誰にも言わぬようにと男に告げ、去っていく。

 交響曲で言えば第二楽章は緩徐楽章、その例に漏れず「雪女伝説」の第二楽章も緩徐楽章です。

 この楽章では性愛をテーマにしていますが、これは当初からマンドリン音楽での表現に挑戦してみたいと思っていたことでした。

 性表現へのタブー視というのは特に視覚表現に対しては強いですが、音楽に対してはとても弱いです。(歌詞やアルバムジャケットを理由に規制されることはありますが)
 その規制の緩さを利用しない手はない、しかし下品になってしまうのは本意ではないのでそれなりに気を使っています。

 まず楽章のタイトルの「白夜の契り」ですが、今時「契り」などというワードを使っている人がいたら見てみたい、というほど遠回しなフレーズです。
 ストーリーの文中にも直接的な表現は一切盛り込まず、"白い夜が明けた"という表現に止めています。
 ご存知の通り白夜(びゃくや・はくや どちらで読んでも良い)は雪の降る夜という意味ではないですが、今回の情景を描写するのにはとてもロマンチックだと思ったので使いました。

 第二楽章のストーリーは、主人公が男(外界の刺激)に出会い、新たな感情や気づきを得る、という役割があります。物語では主人公がどう変化するのか、という点が非常に重要ですが、わかりやすく、主人公が変化するきっかけを提示しています。

 音楽面はどうかというと、これは単純に高い音が女性を、低い音が男性を表しています。(低い音で演奏されるのは、男性のテーマでありながら、一楽章に登場したお雪のテーマでもあります。これは、男の存在自体が設定上お雪の希望の投影であることを示しています。男については名前も含め、ほとんど情報が無い、お雪にとって都合の良い空虚な存在です。)
 曲の序盤、メインテーマが高い音で、上品に優雅に、余裕を持って演奏されますが、低い音が出てきてから様子が変わります。次第に高低二つの旋律が本来の拍から離れ始め、乱れていきます。こう書くとそれなりに官能的な表現ですが、聴こえ方としてはそうでもないと思います。
 結局、官能的な音楽を本当にやろうとすると、例えば人の声やサックスに頼らざるを得ませんし、そうするとギャグに近くなってしまうので、それは「雪女伝説」の世界でやりたいこととは違う、ということです。

第三楽章:雪中行

 契りを結んだ夜から十月十日経ち、お雪には子が産まれた。お雪は、産まれた赤子に男の面影を見る。忘れねばならない男の顔、声がお雪の中に蘇る。
 雪が辺りを包む季節になり、お雪は赤子を置き去りにして、誰にも知られぬうちに男の元へ走る。仲間を裏切ったお雪に、もう戻る場所はなくなった。

 お雪がどう変わって何をしたいと思ったのか、ということが描かれた楽章です。

 筋だけ追うと、自分の子供よりも愛した男を取って現状から抜け出そうと思った、ということです。伝統的な家庭・家族観からすれば批判されることである、ということは承知の上で、このような設定にしました。これを考える前に意識しないといけないのは、お雪の育った環境です。

 物語には書いていませんが、お雪がそもそもなぜ漂泊民なのかは色々と可能性があります。誘拐されたのかもしれないし、お雪のような役目を負った母親から産まれてきたのかもしれませんが、お雪が二楽章までにしてきたことは全て強制されたことであり、自分がしたいと思ったことではありません。

 そのお雪が初めて自分の意志で、自分が今いる集団・環境から抜け出したいと行動をするのが第三楽章です。

 お雪の行動は良いことなのか悪いことなのか、鑑賞者の立場によってここで迷いが生まれることを期待しています。

第四楽章:赤い雪

 夜、やっとのことで男の家に辿り着いたお雪は信じられないものを見た。男は小さな赤子を抱いていて、そして男に寄り添うように女の姿があった。その女の顔はお雪に瓜二つだった。恐怖とともに、お雪にはふつふつと湧いてくる別の感情があった。本当なら自分がいるべきはずの場所になぜか自分とそっくりな女がいて、男と幸せに暮らしている様を目の当たりにして、悲しみと怒りが抑えられなくなった。
 お雪は勢いよく戸を開け、壁に打ち掛けてあった鉈を手に取り、男には目もくれず謎の女に向かっていく。お雪は鋭く、鉈で女の首を切りつけた。刹那、勢いよく鮮血が首から吹き出したかに見えた……が、それは赤く染まった雪だった。切りつけられた女の体は頭から爪先まで雪となって全て崩れ落ち、赤く濁った雪の塊になってしまった。
 お雪も、男も、誰も動くことができなかった。そして静寂を破ったのは赤子の声だった。お雪は振り向き、赤子を抱いている男の顔を見た。そのとき男からお雪に向けられていた眼差しは、会いたいと願った相手から向けられたいものでは無かった。恐怖に満ちた目はまるで物の怪を見るようで、男は怯えきっていた。お雪は手に持っていた鉈を取り落とし、後ずさるように家を出ていった。呆然とした男と抱かれた赤子だけがあとには残された。
 お雪は山の中をあてどもなく走った。仲間の元に戻ることもできず、男と暮らしていくことも叶わず、どこにも辿り着くことはできない。降り積もっていく雪は全てを覆い隠していく。春まではまだ遠い。

 物語の結びです。

 最後の最後に本物の雪女が現れて、お雪の希望を全てめちゃくちゃにしてしまう、という理不尽な展開です。

 演劇において、デウス・エクス・マキナという技法があります。もつれにもつれた話の終盤に、超越的な力を持つ存在が現れ、問題を解決する、というものですが、強引な展開になるため批判されることもあります。

 この「雪女伝説」での雪女のあり方は、かなりデウス・エクス・マキナに近いですが、雪女の登場は何も解決をしてくれません。
 私は理不尽の象徴として雪女を扱っています。

 伏線も何も無く、理不尽な展開や突拍子も無い展開は、ときに「現実的でない」という指摘を受けます。では現実世界で、理不尽はそんなに珍しいものでしょうか?

悪人は"運が悪い人"なのかもしれない

 毎日不幸な事件や事故は相次いでいますが、その中で、被害者・加害者共に、どう考えても自業自得だ、自己責任だと言える事象はどれだけ起きているでしょうか。とある「悪人」と全く同じ環境に生まれ、同じ人生を歩んだとしたら、その人は善い判断ができるでしょうか。(人間には責任がないから何をしてもいいなどと、極端な意見を言うつもりはありません。最終的な意思決定を行うのは人間であり、そこには責任が伴うと思っています。)
 私は、人間が人生を歩む中での"偶然"や"運"の割合を、今までよりも多く見積もってはどうか、と考えています。

 これは、全てを個人の責任で説明しようとする行き過ぎた自己責任論、あらゆる不運を自業自得として説明しようとする態度と異なるものです。

 私の場合、マンドリニストの父とピアニストの母を持ち、自分自身はマンドリニスト・作編曲家になり、プロとして活動しています。この現状を私の努力だけで成せたことだとは全く思いません。正確な割合を出そうとするのは不毛ですが、7〜8割が環境要因などの運だと思っています。
 もし他の家庭に生まれていたら、音楽を仕事にすることも、マンドリンを弾くことも無かったと思います。

 運/不運は、人生の特定の可能性を押し上げ、一方で別の可能性を閉ざすものであり、そのバランスが釣り合うとは限りません。平均的に運の良い人がいるならば、平均よりも著しく幸運な/不運な人もいるでしょう。

 気づかずに小さな虫を踏みつぶしてしまうのと同じように、知らないこと・気づいていないことに対して優しくすることはできません。幸運な人からすれば当たり前のように享受している何かが、不運な人にはどうやっても得られないことである可能性もあります。

 私は、少なくとも今はありがたいことに仕事もいただいて、今日まで元気に生きることができています。自分のある程度の運の良さを自覚して、貧困児童を支援するNPO法人「カタリバ」に毎月寄付をしています。
 そして音楽活動においては、少人数で活動する団体に適した楽譜を作ることを意識して作編曲を行なっています。
 方法は人それぞれあると思いますし、個人でできることには限界がありますが、今苦しんでいる人、つらい立場にある人、弱者・少数者に対してできる範囲で支援を行うことが、社会の中の幸せを増やすことに繋がると思います。
 そのためにも、まずは彼らの存在に気づくこと、気づこうとすることがとても大事だと思っています。

終わりに

 「オリエントの航跡」「バタフライ・エフェクト」など、私は人と人との繋がり、それが与える影響について興味を持ち、焦点を当てて、テーマとしてきました。
 今回は、「運」という漠然とした、しかし大きな存在について考え、現代人が直面していることに対して、今私はこう考えている、という思いを乗せたいと思いました。
 この説教くさいテーマを抱えつつも、物語として、音楽として、マンドリン音楽だからこそ表現できる美しさを湛えた作品に仕上げられたと思っています。
 解説文を読まずとも、まず音楽単体で良さがあるものに仕上げなければならないこと、これはとても大事な点でした。

 ストーリーがストーリーなだけに、自分が若いうちに勢いで作ってしまいたいな、と思っていて、かつ、ここ最近日本で若者に受けているエンタメはわりと陰惨な世界観のものも多く、この暗いストーリーでも受容されやすいのでは、という気持ちもありました。
 雪女は昔話といってもそこまで古いものでもないので、その他に興味がある歴史ある古典に比べると、民話ということもあり題材にするにあたって気持ちの上でのハードルが低かったということもあります。

 大変長くなりましたが、解説を読んでくださいましてありがとうございました。

その他の裏話

・雪女伝説というタイトルの由来

 雪女は既存の話ですが、なぜそこに伝説を付けたか。
 一つは、この物語が、登場人物の男やその子によって語り継がれていったら、お雪こそが雪女として伝わるだろう…という意味での、未来の視点からの伝説というワードを選んだことが理由です。
 もう一つは、映画「人魚伝説」(1984)のもじりである、ということです。
 人魚伝説は漫画原作:宮谷一彦(1945-2022)、監督:池田敏春(1951-2010)で映画化され、海女である主人公が、旦那を殺された復讐に狂い、銛を携えて片っ端から仇を殺しまくる…という過激な映画です。
 私はこの映画が好きで、白都真理(1958-)演じる主人公の鬼気迫る殺戮シーン、本多俊之(1957-)の美しい音楽、そして水中撮影のスペシャリスト中村征夫(1945-)が撮った深く青い海、内容が内容だけになかなか人に薦められませんが、この性愛と殺戮と美とが混ざり合った雰囲気は「雪女伝説」でぜひやってみたい、と思っていました。

・各楽章タイトルにおける、色の意識

 雪女の舞台は雪山ですから、メインとなる色彩は白です。音楽だけで色彩を感じさせるのは大変なので、タイトルで説明してしまいます。
 タイトルには「白夜」とか「雪中」とか、言葉としての白い成分があり、差し色として「赤」を、終楽章の「赤い雪」に入れています。
 ちなみに一楽章の「漂泊」は色彩とは関係ない言葉ですが、泊の旁(つくり)が"白"であることは、偶然ながら、よりタイトル付けの必然性を高めていると思っています。(泊は形声文字なので、"白い"という意味とは関係ありませんが)
 漂泊という語彙は、松尾芭蕉の「奥の細道」の序文に、

予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、…

「奥の細道 序文」より

という一節がありまして、高校生の時に初めて知って以来、印象に残っている言葉でした。

・感情曲線の話

 脚本を書く人であれば、必ず感情曲線、すなわちその話を読んだ人の感情・テンションがどのように推移するのかコントロールしています。私は話作りなどしたことがないのですが、素人なりに一応考えました。
 この話は悲劇ですから、最終的にはどん底に落ちないといけません。しかしただズルズルと下降していく話よりも、一度希望を見せてから突き落としたほうが効果は高いだろうと思ったので、そのために第三楽章「雪中行」は音楽として非常に軽やかに、張り詰めた雰囲気からフッと肩の力が抜けるような塩梅で作りました。
 お話としても、第二楽章で男と出会ったことにより希望が芽生え、ついには自分から行動して走っていく…という動きのある内容になっています。感情曲線でいえば、若干上向くようなシークエンスになれたのではないでしょうか。
 そうすることで、終楽章はより大きな落差をもってどん底まで落ちていくことができます。

・世界観(設定)を作るという意識

 「オリエントの航跡」のときから、作曲前に調べ物をして、テーマについて知識を付けてから曲を書き始める、というスタイルを取ることが多いです。
 しかし今回のように、調べ物をした上で、そこから人物・舞台設定を考え、物語を作るということは初めて行いました。(雪女を下敷きにしているとはいえ)
 世界観という言葉は、本来は「世界における人間をどう捉えるか」という意味です。しかし現在は創作物の設定や雰囲気、といった意味の使われ方が一般的です。
 わかりやすいので後者の意味での世界観という言葉を使いますが、今回はこの世界観を作ることに苦心しました。
 手探り状態でしたが、とにかく真実味を高めることが大事だと思い、自分が民俗学方面で得た知識の中から面白そうな事実を寄せ集めてきて、それを話の設定として散りばめました。嘘の中に、少し真実を紛れ込ますと信憑性が増す、ということもあります。「こういうお雪みたいな境遇の人って実際に日本にいたの?」と、半信半疑程度でも思ってもらえれば、世界観のリアリティとしては上々です。

 ただ、本気で設定を考えるとなると、場所や年代を正確に特定しないといけません。そうなると、その地方で降る雪の性質や、使われる道具の考証、婚姻の仕組み、漂泊民の暮らしぶりがその地方に馴染むのか、といった、リアリティを脅かす問題がどんどん出てきてしまいます。語りすぎるとボロが出るということです。ですので、設定に関するワードは一楽章で大量に出た後は、それ以上にはほとんど登場しません。
 加えて、お雪や男の容姿や、お雪の子ども・雪女の子どもの性別なども一切描写していませんが、こちらはリアリティの問題というよりも、想像力の余地を持たせるための設定の余白の部分です。あと、いわゆる美男美女のおとぎ話にはしたくなかったということもあります。そのように想像していただいても問題はありませんが、人物が美しいかどうかは全く話の本質に関係がないことです。

 それで、なぜ世界観を作ることに時間をかけたのかといえば、音楽を表面的になぞる聴き方だけでなく、物語や、この「雪女伝説」の世界そのものに浸るような体験を提供してみたい、と思ったからです。
 極上の例を挙げればディズニーランドは、「夢の国」という世界観を来場した人たちに提供しています。もっと身近な例を挙げれば、小説やドラマ映画など、ストーリーや設定があるものは全て世界観を提供していると言えそうです。

 このやり方を今後またやるかはわかりませんが、組曲という、扱う時間や場所を切り取りやすい形式は、物語との相性は良いと感じました。楽章の切れ目が時間経過や場面転換を表せるからです。

・情報の絞り方

 世界観(設定)の話とかぶることですが、ストーリーを書くときに、どこまで書いてどこを書かないのか、という点は、どちらかというと「書かない」ことを優先して考えました。
 先に挙げたように、具体的な年代・場所、人物の容姿、赤子の性別などを書かなかったのは、設定のリアリティの綻びを避けるためでもありますが、余白を持たせて想像力で埋めてもらうことを期待してのことでもあります。

 同じ発想で絞ったのは、「セリフ」や独白についても当てはまります。物語の語り手は、お雪でも男でもない、第三者なので、セリフは一切存在しません。
 このことは、物語を客観的に受け止めてもらうことに役立ちます。映像手法でいえばルーズなショット・俯瞰ショットのような役割があって、主人公に感情移入してもらおうというのではなく、主人公の行動を一歩引いたところから見て、冷静な視点を持ってもらいたいわけです。
 しかし全てを説明しないということはできず、時折お雪の感情、男の感情を地の文で説明している箇所があります。
 特に四楽章は、相手が怪物だったとはいえ、お雪は鉈を持って、見た目上は人間である存在に斬りかかるわけなので、そこの動機は何も書かないわけにはいかないな、と思い、説明を行いました。

 あまりにも説明を省くと、鑑賞者を突き離してしまいますし、書きすぎると想像や思考の余地は無くなってしまいます。そのバランスは苦労した部分でした。

・簡単に主人公に同情させないために

 物語の良さを、主人公の行動に共感できるか、という点で判断している人も一定数いると思いますが、あらゆる創作全般を見ますと、それは一部のエンタメ、売れなくてはいけない商業作品には多く見られることです。
 共感できない人物の振る舞いを眺めるのは、楽なことではありません。だから売れるものを作りたいなら、ひたすら共感性を高めて、"普通の"感覚に合わせたほうが良いのです。
 映画の感想でも、「〇〇の行動に共感できなかった」「〇〇がここでなぜこういうことをするのか理解できなかった」というような、否定的な意見は多いと思います。
 『雪女伝説』では、人によっては道徳的な直観に反するような行動をお雪に採らせています。
 自分の子を置き去りにして男の元へ逃げること、擬似的にではありますが殺人を行うことなどなど…。
 もしかしたら、そもそもムラに属さず、漂泊民として生きていることを不快に思う方もいらっしゃるかもしれません。明記はしていませんが、窃盗をしなければ生きていけるものではありません。
 そういったことを、鑑賞者が心の中でそれぞれの価値観に照らし合わせてチェックしていったとき、段々と評価が枝分かれしていくと思います。
 それを踏まえて結末まで知ったとき、お雪に対して同情するか、自業自得だと思うか、もしくはその中間か、感想は変わると思います。
 そのどれもが正解というわけではないので、できれば誰かと感想を共有して、価値観の違いを実感するようなことになれば、とても良いと思います。

・流行の意識

 音楽そのもののサウンドとしては全く流行は意識していません。強いて言えば、マンドリン合奏の新曲で、あまり暗い曲というのは印象にないので、作れば個性的な立ち位置の曲にはなるかな、とは思っていましたが、それは特に作曲の動機とは関係していません。
 しかし物語自体の陰惨さは、ここ最近の流行を意識しています。といっても、意識して陰惨にしたというよりも、このストーリーを今出して良いのか、というタイミングの問題です。この記事の「終わりに」で、

…最近日本で若者に受けているエンタメはわりと陰惨な世界観のものも多く、この暗いストーリーでも受容されやすいのでは、…

と書きましたが、具体的にいうとそれは藤本タツキの漫画「チェンソーマン」のことです。他にも「鬼滅の刃」「タコピーの原罪」など、陰惨とは違う物もありますが、設定や雰囲気が重いエンタメも近年受けている印象があります。
 特にチェンソーマンは2018年末に連載が開始し、私が雪女伝説の構想を練っている間に第一部が終了と、話を考えることと並行して追っていた作品なので、「結構シリアスで重いことをやっても今は大丈夫なのでは…?」という後押しになったと思います。ただ、主張がどうあれ、悲惨な設定を用いてエンタメ化するというのは、その悲惨な状況にいま直面している方からすればどういう気持ちになるかということを考えれば、不用意にできることではありません。その点、雪女伝説は昔話であること、現代ではいなくなってしまった漂泊民にスポットを当てていることは、完全な方法ではないかもしれませんが、当事者を不在にしつつ、しかし寓話として機能するラインとしては良かったのではないか、と思っています。

参考図書

赤松啓介(2007[第八刷]).『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』.筑摩書房
赤松啓介(2011[第二刷]).『非常民の民俗文化 生活民族と差別昔話』.筑摩書房
沖浦和光(2005[第四刷]).『幻の漂泊民・サンカ』.文藝春秋
勝又進(1983).『絵本 遠野物語』.高校生文化研究会
勝又進(2006[第二刷]).『赤い雪 勝又進作品集』.青林工藝舎
遠田勝(2011).『〈転生〉する物語 小泉八雲「怪談」の世界』.新曜社
宮谷一彦(1984).『人魚伝説〔上〕〔下〕』.竹書房
宮本常一(2009[第二刷]).『宮本常一 ちくま日本文学022』.筑摩書房
宮本常一(2011).『山に生きる人びと』.河出書房新社

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