「ダサい」という事について、「ダサTウォーズ」から学んだ事。
「死ぬこと以外はかすり傷」の箕輪なんちゃらさんって編集者の人がやってたことは下劣極まりないなと思うけど、その流れで。
こんな事を書いてた方がいたんですよね。
なんでこんなめちゃくちゃダサくてヤバい人がカリスマなの?と思うが、過去や現在の新興宗教の指導者たちだってことごとくダサいので、常軌を逸するほどダサいからこそ強烈に惹かれてしまう人がいるんでしょうね
誰の発言とは書かないけども、まぁそれなりに有名な方の発言だったかなぁなんて。
あ、誰か分かった人もご本人に通報しないでいいよ。
マジで
で、箕輪なんちゃらさんについては僕もまぁ下劣だなぁと思うし、ヒドいなぁと思うんですが、この発言がおやー?と思ったのは「ダサい」という言葉に引っかかったのだった。
ダサい、という事については正直ほかの人よりも考え抜いてきたという自負がある。
なぜなら僕は「ダサTウォーズ」というダサいTシャツを戦わせるイベントを2005年頃、自分のやっていたクラブ、アシッドパンダカフェでとぎれとぎれではありますが、9年くらいやってたのだった。
最初は、すげえ単純に平日の営業のカウンタートークで、「みんな家に絶対着られないTシャツ、すげーダサいTシャツの一枚ぐらいあるよね?あれで誰が一番ダサいTシャツかバトルしてキメたらどう?」
みたいなアイディアだったんだけど、思いついたらとにかく早かったのが、当時の俺たちだったんで、すぐにイベントを開催した。
ちなみに「ダサTウォーズ」でgoogle画像検索をするとどんなTシャツが出ていたのかわかると思う。
そしたら、これがめちゃめちゃ面白くて、「またやろう!毎月やろう!」となり、また来月に引き出しの奥からダサいTシャツを引っ張り出すんだけど、もともと「一枚くらいあるよね?」くらいだった話なので、さすがに三回目とかになると手持ちのダサいTシャツもストックが無くなる。
と、なると、もうそのイベントのためにわざわざ毎月ダサいTシャツを探しに行く羽目になるのだった。
自らダサいTシャツをディグり始めるのである。
仕事が休みの日はストリートの古着屋、リサイクルショップ、衣類も扱っているブックオフ、を回ったり、必死になってダサいTシャツを探して回る。
しかも、そのバトルで一回しか着ない(着たくないほどダサいのを探さないといけないのだから当たり前)をわざわざ時間をお金を使って、掘ってくるというマジで一般的には理解されない気の狂った行為だ。
しかもダサTウォーズで優勝した所で何か賞金がもらえるわけではなく、その日一番ダサいヤツとして表彰される名誉と、俺たちがリサイクルショップで一個50円で買ってきた野茂英雄選手の応援キャップ(通称NOMOキャップ)がもらえるだけ。普通にいらない。
ダサTウォーズに参戦し、勝利しても実利は一切ない。誰も得しない。
でもなぜこんな異常な事をしてしまったのか考えると、ダサTウォーズ自体が異常に面白かったのと、バトル形式で「負けると超悔しい」という想いがあった。
最高にバカバカしい。一般社会ではネガティブ極まりない「ダサい」の称号をめぐって負けると超くやしいのである。
負けると超悔しいが、このダサTウォーズでは負けることよりも屈辱で不名誉な賞があった。
「逆にいいよね賞」である。
本人は自分のTシャツがダサいと思ってさっそうと参戦してくるのだが、観客たちから「ダサくないよ、逆にいいよ」という物が、公開処刑に合うのである。逆にいいよね賞を受けた人間は皆の前で、ダサTウォーズという世界の中で「最もダサい」人間となってしまうのだ。
「逆にいいよね」は俗にいう「ダサかっこいい」だったり、もはやイケてるだろ、みたいな事であって、一般社会ではちょっとイケてるぐらいの線なのである。一般社会でイケていても、このダサTウォーズの中では、ダサい事は名誉、イケていることは不名誉なのであり、一歩外に出たら、価値観の逆転が起こってしまうのも無意味なダイナミックさがあって良かった。
そして、大会が終わると、マジで用がなくなり、「「逆にいいよね賞」を取った参加者以外は家にいらないTシャツが増えるだけである。
(逆にいいよね賞の人は、「逆にいい」わけだから、別にそれ以外でも着られる。)
毎月行われていたダサTウォーズは徐々に人を集めるようになったが、ダサTウォーズに出るレギュラーの選手(プロダサTウォリアー)達も、毎月のディグに疲弊して、次第に開催頻度は減っていたが、少ない時でも年に2,3回はやっていたし、沖縄や名古屋で地方開催をしたこともあった。
毎月やることが異常だったのである。
それほどまでに僕らを夢中にさせたダサTウォーズだったのだが、そのころに、「ダサい」Tシャツをずっと探していると、「自分の中の「ダサい」という価値観と真剣に向き合う事になってくる。
「これは自分の中ではカッコいいけど、ほかの人にとってはダサいだろうな。」
「これはある層にはダサいのだが、この層にとっては普通に有名なイケてるブランドかもしれないぞ?」
「うーむ逆にいいような気がするけど、これはダサいだろう」
「この有名人のTシャツか。もう一般的にダサいの域には到達してるだろう」
「メタルTかぁ、好きな人には怒られるが、これはおそらくダサTだ。」
「俺は好きだけど、これは人を選ぶな。もしくはすげーダサいと思われるかも知れないからこれはアリだな。」
とか、どんどん「他人の視点や感覚」というものを意識するようになり、自分の価値観とは切り離した所でTシャツの柄を見るようになり、しまいには何がカッコいいのか、何が面白いのか、何がダサいのか全く分からなくなってくるのである。
そして、何事も人の好みは違う、我と汝は別の人間である。ということも学ぶし、自分の中に「一般的には」などという、ぼんやりした価値基準が生まれたりする。
そして、自分がカッコいいと思うものに共感してもらうと人はうれしいが、ダサいと思うものを共感してもらうとうれしいのだ、という感覚も発見する。
そして、自分が表現活動をする上で、自分の好みを全面に出す事が「商業的に」は良いことではないということも知るし、他人の目を気にした表現の、ある種のヌルさ、みたいなものにも自覚的になれた。
ダサTウォーズは俺にいろいろな考えや感覚を発見させたのであった。
で、冒頭に戻ろう。
まず、どんどん世間の「ダサい」の基準って変遷するんです。
2005年の初期ダサTウォーズで優勝した、さもタキシードを着てるような感じに見えるTシャツは、その数年後にテレビで木村拓哉がドラマかなんかで着て、イケてると流行になったし、同じく初期に強かった「全面アニマル顔面T」なんかも数年後にアリになっていた。
まず、一つ、ダサい、というのは「流行に乗っていない」という状態。
そしてもう一つ、地球上のどんな人にとっても100%「ダサい」なんてものはこの世には存在しない。「カッコいい」の基準が千差万別であるように。ある人にとっては超イケてるものが、別の人にとって超ダサいというのはある。
ダサいは、その人の持つ価値観、規範、育ち方、によって全く違うのである。
人に平気で「ダサい」と言い放てる人間のセンスは必ずしてもすぐれているわけではないし、その「ダサい」と思った感覚を信じすぎるのも独善的になり過ぎる。
僕は「ダサい」について考えすぎて、ダサいという言葉を気軽に他人に向けられなくなった。
ただ今の世の中は自信満々に言い切ったものがカリスマ性を持つように見える。箕輪さんはとにかく自信満々で言い切ったのであって、彼自身は不道徳的な性質を持っているとは言え、「ダサい」というのを当てはめるのには少しばかり違和感を感じるのである。
ダサいというのはその価値観が理解できないが故、自分よりも程度が低く見えてしまう現象なのではないだろうか?
人の目なんて気にするな、とよく言うが、すげー最低限の人の目は気にしないと炎上をする。
でも、炎上した方が勝ち、みたいな知名度優先の世の中もあまり面白くない気がする。
言いたいことは「ダサい」を「多様性の一部」ととらえて認めていった方が悪い思いをする人が減るんじゃないの?って感じではある。
あ、ちょっと最後に「ダサい」は、「クオリティが低い」の意味での「ダサい」やその人の行動が「ダサい」という場合もあるけども、それは「低品質」や「品性が悪い」という事という解釈でよかろうと思う。
でも俺はあんまり使いません。
クオリティが高いものに対してもも「ダサい」を使いまくってるヤツはそいつの価値観や視野が狭くて「ダサい」と思ってるから。
さて、あなたはダサいをどんな時に使いますか?
ありがとうの一言です。本当にありがとう!