やばさについて。
僕はやばい話を聞くことや、やばい人が好きである。
「やばい」が肯定的な意味で使われるようになって久しいが、この肯定的な意味での「やばい」について改めて考えてみたいと思った。
分かりやすく「やばい」を解説すると、自分の小さな世界の観測範囲外の驚くべき話、とおり一辺倒ではいかない話、これが「やばい話」。自分の常識では考えられない行動や言動をとる人、これが「やばい人」だとしよう。
そして「やばさ」は「驚きの飛距離や高度」を表す。
人はそれぞれ「やばさ」の許容範囲がある。それが極端に広い人も狭い人もいて、「この人はどんな話も喜んで聞いてくれるな」という人もいれば、「こんな程度の話でこんなに引く?」なんてことも沢山ある。
やばい体験を沢山している人は、たいていやばい人だ。
やばい人になりたい人も、やばい人もこの世の中には沢山いるが、「やばさ」とは無縁に生きている人もこれまた沢山いてびっくりするほどやばくない人という人がやばい人以上に沢山いる。
そして、やばくない人は人生において「やばさ」をさほど求めていなかったりもする。とおり一辺倒で無難で隣人と足並みをそろえておだやかにやっていく事を良しとする正義を愛し、悪を憎む人たちである。
そこへ行くと、自分や自分の周りにいた人は「やばさ」を求める人ばかりだったと思う。20年くらいアンダーグラウンドなクラブを運営していたけど、だいたいが深夜に怪しげなクラブに遊びに来る人なんてのは、なんらかの「やばさ」を求めて集う「やばい人」達なのである。
「やばさ」ジャンキーで、絶えず刺激のあるモノを求めて人生をさまよっている人たちだ。
「やばさ」が大きいものを絶え間なく求めて生きていくと確かにその人自身に経験も知識も蓄積して「やばい人」としてのレベルがあがっていく。
自分も30代半ばまでは「やばい」ことに異常なまでの興味と情熱があったし、自分を含めて、みんなが「やばさ比べ」をしているように感じていた。
しかし、「やばさ」を突き詰めていくと、だんだん「やばくない人」との精神的な距離や感性がかけ離れていく。
10年間ほどクラブ(DJバー)の運営をやっていて、それが無くなった時に、自分がいかに異常な人たちや異常な環境にいたのかを気付かされた。
やばければやばい程「良い」という価値観が出来てしまっていたのだった。
とはいっても、やばさのベクトルも人によっては違うので、自分としては「どう考えてもこれはヤバいだろ」という事に相手や世間は全く無反応、興味なしなんて場合もよくある。
自分が作った2017年で一番やばいと思っている曲「節子」というのがある。自分の中では当時の自分のもてる「やばさ」を全身全霊出し切って作った楽曲である。
これなんぞは自分ではめちゃくちゃやばい作品が出来たと思ったのだが、期待したほどの反応は得られず、それほど話題にもならず、同居人にすら「よくわからない」で終えられてしまった。同居人と僕の「やばさ」のベクトルは全く違っていた。
同居人どころか、世間の人との「やばさ」のベクトルも違っていたようだ。
逮捕後に発表した気合の入った作品だったが、思うような評価は得られず、僕はこのことで自分の求めてきた「やばさ」は世間から求められていないし、お金にもならない、と痛感した。
40年くらいかけて作り上げてきた自分の面白い/やばいと思う感覚に自信が持てなくなった。
「やばさ」は仕事にならねえ。
いや、そう言い切るのはまだ早い。
その時が来ていないだけだ。きっと希望はまだあるに違いない。
俺の知っている人たち、あのアシパンを巣立っていった人たちもそれぞれのやばさを追及して結果を出しつつある。
彼らを見ていて思うのは絶え間ないアウトプットだ。
求められることを世間の顔色を伺いながらやるのはしんどいし、それにはそれ相応の才能も必要だろう。
ともかく2019年は自分の「やばさ」を信じて、手を換え、品を換えひたすらアウトプットするしかないのだろうなぁ。
40代は不惑といわれるけども、こちとら戸惑いまくりですよ。
ありがとうの一言です。本当にありがとう!