木になりたかった人間か人間になった夢を見ていた木か?

ずっと木になりたかった。街で3番目くらいに大きくて、雨や風から生き物を守り、晴れた日の午後には木陰をつくって彼らを休ませてあげるのだ。木は偉大である。偉大であるからこそ、そういう存在の何者かが私にはできっこないと考えたのだろうか。ともかく奇妙であるかもしれないが、わたしは木になろうと思った。まず理想の木の姿を想像してみる。わたしのは2、3人の大人が幹を抱えるようにしても、到底抱え切ることのできないような、そんな太いやつ。そこから真っ直ぐに上へと伸びる、しなやかな枝枝。目線を上へとずらすとだんだんと細くなっていくそれの節のところどころに小さな昆虫たちが住んでいる。葉なんかは季節ごとに色を変え、散らし、また青々とさせる。それはそれは美しく、だがそれは不変のものというよりも、時間に身をまかせ、またそれに合わせて刻々と姿を変えていく大木なのです。私がいつかなる美しく、しなやかな大木なのです。いつの日か、もしいつの日か私が木になることができたなら、君は必ず私の元へやってきて、張り巡らされた根に足を乗っけて、太い幹に背中を寄せて、その日あったこと、たのしかったこと、辛かったこと、なんでも構わない。私と数年分、数十年分のお話をしてほしい。木になりたかった人間が木になったとき、もしかしたら人間になりたがってしまうかもしれない、もう一度君と話がしたくて、あなたの家まで顔を見に行きたくなって、あなたに忘れ去られてしまうのが不意に恐ろしく思えてしまって。

私もあなたもずっと何者にもなれなかった。ずっと黒々とした違和感を持ちつずけていた。世間には夢をもて、両親には最低限人に迷惑をかけるななんて言われる。それでも私たちは、ただ生まれてしまったからには生きていかなきゃならなかった。人間として生まれ、女性として結婚や出産を期待された。ただ日々を過ごすなんて贅沢は許されず、労働し、飯を作り、縫い物、洗濯をこなす毎日なのであった。どれひとつ私が望んだのではない。君もそうだろう。私たちは、初めて互いを見たときに同じ匂いを感じ取ったのだ。言い換えてみれば、この世で、少なくとも私たちのまわりでは私たちだけがこの人生を諦めていないのかもしれないなどと思っていた。昔読んだ本に置かれた場所で咲きなさいというのがあったが、ふざけるのも大概にしてくれと思う。それじゃあ、古代の人たちと何も変わらないじゃないか。身分制度があって、豆腐屋に生まれたら、ずっと豆腐を売らなきゃならないじゃないか。奴隷に生まれたら奴隷のまま、王族はどんなに嫌なやつでも一しょう遊んで暮らすのか。誰もそんなことは、決めちゃいけないはずだろう。たとえ神や仏でも。私は一生をかけて、これに反抗したいと思う。人間に生まれたからって、ずっと人間でいなきゃいけないわけじゃないんだ。そしてこの反乱を起こすとき、君も一緒なら私は嬉しい。

人伝てに君の話を聞いた。君はいま遠くにいるんだと聞いた。君は医者になるために大学に進んだんだね。知らない場所で、知らない言語で、馴染みない食べ物、人に囲まれて。君は自分を弱い人間だと行っていたが、僕はその隠された君の頑固でいやらしくてどす黒い強さを知っていた。君ももうわかっているはずだ。とにかく僕は君を誇りに思う。しかし正直に行ってしまうと、私は君がどこか遠くに行ってしまうことなんて想像していなかったし、振り返ったときにあなたが見えなくて心細くなった。私だけまだこの世のどこにも馴染めずに、ただ嘆きさまよって、一人だけで深い森を進んでいるような、そんな気になってしまった。私は、そこから長い長い冬眠状態に陥ってしまったのだ。春の暖かで、優しい日差しさえ部屋に入れたくなくてカーテンを締め切った。外から聞こえてくる小学生の話し声にもごみ収集の音もただ怖くて、耳栓をしても聞こえてくる人々の息づかいが恐ろしかった。ベッドから体を起こしてトイレに行くのも風呂に入るのもできなくなって、時々みんなが寝静まった夜に足音たてず忍び込むように用を足していたのでした。一日中ベッドの上にいて、なにをするわけでもなくただ息をするのが精一杯でした。あと一日人間として生きるくらいなら死んでしまいたいと思った。そんな絶望の淵であなたの夢を見たのです。久々に感じたお日様の暖かさ、そよ風もとても気持ちよかた。ふと足元に目をやるとあなたが私を見上げるようにして立っていた。あなたの白いシャツがキラキラとモブしかった。私はそこで、安堵の涙を流しました。あなたには見ることができないでしょうが、暖かな涙が私の頬を伝いました。初めて生きているとおもった。自分の体全体が自分自身のものだと確信することができたのです、嬉しかった。何よりあなたとまた会えたことが嬉しくて仕方なかった。それを伝えたくって声を出したかったけれど、今はただ一番細い枝の先を震わせて泣くしかなかったのでした。

それから何回か季節が変わっても、私は夢から覚めることはなかった。本当は、こちらの世界が本当の世界なんじゃないかと思うようにすらなっていた。