物語を読み終えるときの安堵と虚しさ
今日、スラムダンクを読み終わった。
そんなに長い漫画ではなかったけど、それでもかなり長いし時間がかかった。
私は最近新しい何かを読み始めることがなかなかできない。
それは多分精神状態のせいもあるし、単純に気力がないせいもある。
新しく何かを始めるというのは、ものすごくエネルギーがいると思う。それが漫画を読むことであっても。
だって、読み始めたら終わりまで読まなければならないのだ。
途中で投げ出すことは(もちろん読みたくなくなったら読まなければいいのだが、)出来ない。
最後まで見届けなければいけない。
だからゲームでも漫画でも、新しく始めることにはワクワクよりも億劫さが混じる。
最後まで見届けるというタスクが増えてしまう。
そしてもう一つ、始まったら終わってしまうからだ。
当たり前のことだし、むしろ終わっていない漫画ならこれから一緒に終わりを見届けられる。
それはとても嬉しいことでもある。
だが、ひとつの物語の終わりを看取るというのは、時に凄まじい疲労感をもたらす。
スラムダンクを読み終えて、私は「終わった」と思った。「終わってしまった」でもあった。
読んでいる間、時々苦しかった。
作者の熱量が今の私には辛かったし、キャラクターたちがバスケットに全てをかけて打ち込む姿は憧れと同時にどうしようもない影を落とした。
私はそうなれないからだ。
なにかに一生懸命になって、時間も努力も惜しまず一心不乱に打ち込む姿はとにかくかっこいいし、輝いている。
そうでない人にはそれはとても辛く、苦しく感じる。
自分はそうなれないと言い訳して背を向けていることを突きつけられる。
そうして桜木たちが全力を燃やし尽くし走り抜けた先、寂しさを残す終わりを目にして、「ああ、こうやって終わるのか」と思った。
桜木たちの物語は終わった。
現実の私はまだ終わらない。
桜木たちのその先は語られず、私はもうその先を知ることは無い。
なんという寂しさだろうか。
最後まで見届けるという荷物を下ろしてしまった先には、その重みをなくした喪失感がある。
私は昔、ハチミツとクローバーという漫画が好きだった。
姉から勝手に借りて読んでいたその最終巻を読み終えた時、喪失感と達成感と寂しさと、「いい終わりだった」という気持ちがあった。
まだ小さかった私には彼らの悩みや苦しみはよくは分からなかったが、それでもあの物語やその中のキャラクター達が好きだった。
どれほど大切に思っていても少しずつ記憶が薄れていくこと、何度読み返してももう二度と初めて出会ったあの時の気持ちにはなれないことが寂しく、やるせないと思うことがある。
私が愛したキャラクター達とずっと一緒にいたい、お別れしたくないと思っても、私の時間はすぐに流れていって彼らの物語を過去にしてしまう。
そう思っていたのだろう。
FGOというゲームに、ハチミツとクローバーの作者の羽海野チカ先生がキャラクターデザインをしたオベロンというキャラクターがいる。
「昔よく遊んでくれた優しい年上のお友達が突然今の家に会いに来てくれたような気持ち」だと当時の私は言っていた。
私は彼の登場する章を読んで、彼が好きになった。
それだけに、その終わりはとても虚しいと同時に、彼らの物語がよい終わりを迎えた安堵があった。
彼らの物語の終わりを見届けた寂しさと安堵の両方が、思い返せば今も微かに私の中に残っている気がする。
【初めて出会った時のことがどんなに遠い過去になってもずっと忘れない、忘れたくないと思います。
私は物語が終わる時、終わらせたくない、ずっと私と一緒にいて欲しいと思っていました。自分の大好きなキャラクター達を過去にしたくないと思っていました。でも、オベロンと出会ってそれだけではないと気付かされました。物語が終わったら、皆は私を現実に置いていってしまう。私は本当はそれが悲しかったのだと思います。】
そう当時の私は言っているが、私が物語の終わりに感じる気持ちは、それと同じものだと思う。
桜木たちの物語は、現実の私を置いていった。
それにほっとする私と、寂しく思う私が両方いる。
そしてそれはこれからもきっと同じだろう。
そんな気持ちを残しておこうと思って、今日この文書を書いている。