見出し画像

人の数だけおいしいがある世界がいい。

CDショップの中を歩いてるみたいやな。

改札を出て目的地まで最短ルートで梅田ダンジョンを歩く中、右から左からいろんな言語が聴こえてくると、ふとそんな妄想が広がる。

子どもの頃、街中で英語が聴こえるなんてことはめったになかったけど、エスカレーターの前後で違う言語に挟まれることも、雑踏の中、地元民からしたら「そこで撮るん?」というなんでもないビルを背景に、モデルポーズで写真におさまる観光客の姿も、今やこの街の日常の風景だ。

先日訪ねた某大手生活用品店もインバウンドの波が戻ってきてるようで、かごいっぱいにお菓子を買っている観光客を見かけた。おいしいよ、それ。いいお土産やね。気に入ってもらえるといいな。ん?もしかしてひとりで全部食べちゃうつもり……?いや別にそれでもいいけどね。

うっかりわたしも同じお菓子をかごに入れそうになりつつ、ちゃうちゃう今日のおつかいはそれやないと棚を過ぎ去り、お目当てのものだけ買って店を出た。うっかり買いできるほどの稼ぎがないことは深く考えないようにしていても、行動ではちゃんとセーブできるくらいには身に染みている悲しいサガ。お菓子爆買いどころか海外旅行なんて今のところ夢のまた夢だ。

それにしてもこれだけいろんな言語が飛び交って、皆楽しそうに行き来してる場所がここにはあるのに、どうして世界の争いは終わらないんだろう。話す言葉は違っても、信じる神様が違っても、おいしいものを食べたらおいしいって思うのはみんな同じはずなのに。

おいしいと思うものが一緒だとうれしい。でも、違ってもがっかりしないし(いやちょっとはするかも、ほんのちょっとだけ)、怒ったりなんかは絶対しない。あなたがおいしいと思うものがほかにあればそれでいいし、わたしがそれを好きになれなくても「そういうものだね」で手を振ればいい。

おいしいものがひとつしかない世界より、あなたがおいしいものと、わたしがおいしいもので、おいしいがふたつある世界の方がきっと豊かだと思う。それをアカン許せないと拳を振り上げる世界では誰も幸せになれない。

お米ひと粒にも神様がいてはると教えられ、お正月には神社へ初詣にゆき、チャペルで結婚式を挙げ、お寺で先祖代々に手を合わせることを自然と受け入れ、八百万の神様が一堂に会する会議が毎年行われる国に生まれ生きていると、「どれも全部えぇやん」はなんでアカンのやろかと、これもエゴなのか押しつけなのかと途方に暮れてしまう。

「いただきます」「ごちそうさまでした」と手を合わせるたびに、明日は今日よりひとりでもおいしいものを食べられる人が増えますようにとそっと祈ろう。

今度あの店行ったらお菓子買うて帰ろかな。なんか季節限定のやつが出てるって見かけた。あのお客さんは買うて帰ったかな。「おいしいね!」って誰かと言ってるか、独り占めして食べちゃってるか、どっちかな。