振り向くな
これは美術スタッフのAさんから聞いた話だ。
「地下の美術倉庫って行ったことあります? 俺らみたいな限られた人しか使わないから知らないかもしれないですけど、エレベーターから一番遠い場所にあるんですよ。それで、エレベーターから美術倉庫に繋がってる真っ直ぐな通路、あそこを通るときは何があっても振り向くなって言われてるんです」
先輩から聞いた噂だが、通路を歩いていると後ろから肩を叩かれたり、突然電気がチカチカと点滅したりするらしい。
もし振り向いてしまったらどうなるのか。そのことを他の美術スタッフに聞いてみたが、誰も知っている人はいなかった。
「正直、バカバカしいって思いました。だって、振り向いたらどうなるかわからないんですよ? それに、肩を叩かれたっていうのは気のせいかもしれないし、電気の点滅なんてよくあることじゃないですか。きっと俺と同じように信じていない人が大半だと思います」
それは収録終わりに片付けをしているときのことだった。
一緒に作業をしていた同期がトラブルで呼ばれてしまったため、Aさんは一人で美術倉庫へ向かうことに。
運搬用のエレベーターで地下へ降りると、Aさん以外は誰もおらず、しんとした空間が広がっていた。
「あんな広い場所に一人ってなんか心細いし、さっさと片付けて戻ろうと思思いました」
Aさんは足早に美術倉庫へ続く通路を歩いていく。小道具を乗せた台車の軋む音だけが、彼を安心させた。
収録で使った小道具は少しだったこともあり、片付けはすぐに終わった。
倉庫の扉を閉め、きちんとセキュリティが作動していることを確認したAさんは、遠くに見える非常口のランプを目指して歩き出した。
「エレベーターは機材とか道具を運ぶ用だから、人だけだと基本的に使っちゃダメなんですよ。だから、エレベーターの横にある階段を使わなきゃいけなくて、そこに向かっていました」
戻ったら少し休憩しよう。けっきょく俺一人で片付けたんだから、同期にジュースでも奢らせよう。
そんなことを考えながら歩いていたAさんは、突然足を止める。たった今自分の横を誰かが通り過ぎたような、そんな気がした。
Aさんは後ろを振り向こうとしたが、あの噂のことを思い出し、動きを止める。
きっと俺の勘違いだ。そうやって恐怖を誤魔化しながら、再び歩き出そうとする。そのときだった。
「おい」
右耳のすぐそばで、心臓に響くような低い声が聞こえた。
Aさんは勢いよく振り返るが、そこには真っ直ぐ続く通路と美術倉庫の扉があるだけで、人の姿はない。
一体なんなんだ。恐怖が怒りに変わりそうになったところで、Aさんは「あ」と間抜けな声をあげる。
振り向いてしまった。
そのことを理解した瞬間、背筋に冷たいものが走る。
通路を照らす蛍光灯の光、僅かに聞こえる空調機のジーッという音、木材でできた棚の匂い。先程まで気にならなかったものが、気になって仕方がない。
軽くパニックに陥ったAさんは、とにかくここから出たいという一心で、もつれそうになる足を必死に動かして走った。
「そのときに階段を踏み外してしまって、それでこの足です」
Aさんは包帯が巻かれた右足を軽く上げてみせる。
「俺の不注意もありますけど、それでもあのことがあったから怪我したんだと思います。あの通路を通るときは振り向くな。これ、きっとマジなやつです」
数日後、一階のエントランスで騒いでいるAさんの姿が目撃されたという。
地下の通路で何かが起きても絶対に振り向くな。
怪我をした足を引き摺りながら忠告して回っていたAさんは、数人の社員に取り押さえられ、連行されていったらしい。
それ以来、会社でAさんの姿を見ることはなくなった。