おすそ分け
これはCGデザイナーのAさんから聞いた話だ。
地元の専門学校に通っていたAさんは、都内の大手広告会社に内定を貰ったこともあり、卒業と同時に一人暮らしを始めた。
試用期間である最初の3ヶ月は定時で帰ることができたが、正社員になった途端、残業が当たり前になったという。
「まあ、面接のときに軽く聞いてたから、しょうがないかなって感じでした。それに、人間関係も給料も悪くなかったので、特に不満はありませんでした。で、正社員になって一週間くらいたった頃かなあ。アパートに帰ってきたら、ドアノブに紙袋がかかってたんです」
紙袋の中には使い古した半透明のタッパーとメモが入っていた。メモには子供の字で『おすそ分けです』と書かれている。
Aさんの部屋は3階角部屋の304号室。おそらく303号室の住人が持ってきてくれたんだろうとAさんは考えた。
タッパーを開けると、中には手作りのカレーが入っていた。うっすらと湯気が出ており、そこまで時間が経っていないことがわかる。
きっと相手は好意でやってくれたのだろう。しかし、顔も見たことがない他人の手料理を食べる気にはなれない。
Aさんは罪悪感を抱きつつも、カレーをゴミ箱に捨てた。
「さすがにタッパーは捨てられないので洗っておきましたけど、それから平日は毎日のようにおすそ分けが置かれるようになりました。肉じゃがとか、唐揚げとか、毎回手作りのものなんですよね。断ろうにも帰ってくるのは日付が変わる頃だから、タイミングが合わなくて……タッパーもどんどん溜まっていくし、仕方ないから次の休みに返しにいくことにしたんです」
土曜の朝9時。休日の早朝に尋ねるのはどうかと思ったが、この時間なら家にいる可能性が高いと踏んだAさんは、洗ったタッパーを持って303号室へと向かう。
部屋から出てきたのは、Aさんと同い年くらいの女性だった。まだ寝ていたのか、パジャマ姿の女性は怪訝そうな顔をしている。
Aさんはおすそ分けを持ってきてくれたことへのお礼と、これ以上は受け取れないことを伝えると、タッパーが入った紙袋を差し出す。
しかし、女性は紙袋を見つめたまま動かない。
不思議に思っていると、女性はぶっきらぼうにこう言った。
「おすそ分けなんて持っていったことありませんけど。誰かと間違えてるんじゃないですか?」
「正直『え?』ってなりましたね。だって、隣人は303号室だけだから、その人がおすそ分けを持ってきてると思ってたので。じゃあ誰が持ってきたんだろうってなって、残りの301号室と302号室にも確認にいきました。でも、誰も心当たりがなかったんです」
Aさんがタッパーとメモを見せても、全員知らないと首を振った。
そのとき301号室の住人から聞いた話では、アパートに住んでいるのは大学生や若い独身の人ばかりで、子供連れの人は一度も見たことがないということだった。
自分の部屋に戻ったAさんは、すぐにタッパーとメモを処分した。
もし同じことが続くようなら警察に相談しよう。そんなことを考えていたが、幸いなことに、その日以降おすそ分けが届けられることはなくなったという。
「けっきょく、誰からのおすそ分けなのかわからずじまいです。まあでも、あのとき食べたりしなくてよかったです。もし何も考えず口にしてたらって思うと……ゾッとしますよ。今のご時世何があるかわからないし、お互い気をつけましょうね」
そう言ってAさんは笑った。