ふみふみこ著『愛と呪い』2巻
性の暴力――それ以外は、明るく善良な家庭だった。家族への怒りと愛に少女の心は引き裂かれ……。性的虐待なんて、なかったかのように振る舞う家族。この世界が終わらないなら、私が壊れてしまえばいいのだろうか。過去を「なんでもないこと」にするために、記憶を他人の身体で上書きする。何度も、何度でも、汚れることが救いのような気がしていた――。虚しさとともに始まったゼロ年代の絶対孤独。(新潮社サイトより)
ふみふみこさんの『愛と呪い』2巻が出版されたので読んだ。主人公の愛子と同学年であろう「キレる17歳」と呼ばれた世代は1982年生まれで学年では82年度生まれであり、僕は同年の3月生まれのため早生まれだから学年だけズレている。このある種のズレはなにかを語る際に当事者意識を持てないこともあった。
作中にも出てくるが、透明な存在としての僕だった神戸児童連続殺傷事件の酒鬼薔薇や、バットで母親を撲殺した岡山の彼、豊川市主事殺人事件の人を殺してみたかった彼、西鉄バスジャック犯のネオ麦茶、大人になってからは秋葉原通り魔事件の加藤、パソコン遠隔操作事件の片山などが1982年生まれにいる。宇多田ヒカルが出てくるが1983年早生まれのため、日本で考えると彼らと同学年になるということだ。
少年たちはダークサイドに、『スター・ウォーズ』におけるダース・ベイダーのように堕ちていき、一人の少女によって日本の音楽シーンが変わったという印象が1982年世代にあるために、ここから世代が変わっている印象を受けるかもしれない。主人公の愛子は物心ついた頃には実の父からの性的虐待が始まっており、家族は宗教にはまり込んでいた。世紀末が近づいてくる90年代後半には、なにかが終わるとどこかで信じていた。あるいは終わらせてほしいと。愛子は宇多田ヒカルにはなれないが、少年たちのようななにかを終わらそうとし、暴力的な世界であがき苦しんでいる。帯にも書かれているように「反自伝的90年代クロニクル」とあり、同世代の人はより当時の自分のことを思い返すことになる。
作中にCoccoの曲を入れたMDが出てくるので聴きながら書いている。
「monokaki」編集部の取材でこの『愛と呪い』が連載されている『yomyom』編集長の西村さんにインタビューをさせてもらったことがある。
メインでインタビューをしているのは有田編集長だが、最後に僕は『愛と呪い』について聞かせてもらった部分が少しだけ記事の中に入っている。
西村:ふみさんも、自分の作品がこういう形になっていくとは思ってなかったと思うんです。だけど、書き始めたらいろんな感情が引き出されていった。それはふみさん自身も計算していなかったし、雑誌を手にした読者も意図してなかったことだと思う。物語は常に、書き出す前に想定されるより大きなものを、どこかから引き出してくる。物語や、他者の情念に対する畏怖の念は大事にしたいと思います。それは、「こういう物語は売れ筋だから書いておく」という思考とは真逆のものです。
西村編集長も言われているが、「情念」と言えるべきものが『愛と呪い』にはある。タイトルが表しているそれが、創作者であるふみふみこさんの描かないといけないものであり、描きたくなかったものであるだろう。だからこそ、読者は僕のような同世代や近い世代のわかるという時代の感覚やあの頃のころ、だけではなく異なる、違う世代にも届いてしまうものが嫌でも孕まれている。そこに、ここに、人間の感情が、知らない男と体を重ねる愛子がフェンスの向こうに見た同級生たちの何気ない学生風景が、ラブホテルで知らない男に首を締められて尚感じて興奮している愛子だとか、ゴルフクラブを持って廊下に佇んでいるその影の濃さだとか、だとかだとか、が。
性別や年齢さや環境や、まったく同じではなくても伝わるもの、それはやはり「情念」のような強い、儚い、思いであり、それが染み込んでいる、いや、溢れ出してしまっているからこそ、惹かれてしまう。心がぐしゃぐしゃにかき乱されて、自分にはどうにもできない、と思う。もしも、あの時そこに居たとしても、と。
愛と呪いは同じ質のものだけど、向かうべきベクトルが異なる。それは祝いと呪いが反転し裏表の存在であることと同じようなものかもしれない。祝祭性と呪術性、愛の言葉や思いは、呪いになり、逆も然り。そして、愛子と名付けられた少女は世紀末を迎えて、少女ではなくなる。
死に向かおうとした彼女はどうやって、日々を越えて再生するのか、彼岸へ向かったものはそこで何を見て現世に、此岸に戻ってくることができるのか。続巻以降がどういう風に展開されていくのか、追って読んでいきたい。
再生、リバースすることの難しさについて考える。最近、個人的にそういうことばかり考えている。延命しないとは? 死んで生き返るには、との考察が。
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