『ENGLAND IS MINE』試写
あらすじ
1976年マンチェスター。高校をドロップアウトしたスティーブン・モリッシーは、ライブに通っては批評を音楽紙に投稿するだけの毎日。家計を助けようと就職しても職場に馴染めず、仕事をサボって詩を書くことが唯一の慰めだった。そんな時、美大生のリンダーと出会い、彼女の後押しもあってバンドを組むことになる。初ライブは成功、スティーブンはミュージシャンになろうと仕事を辞める。しかし順調に思えた彼を待ち受けたのは、別れや挫折だった。1982年、それでもあきらめずに音楽を続けるスティーブンの元に1人のギタリストが訪ねてくる。それは、のちに彼と「ザ・スミス」を結成するジョニー・マーだった。(Filmarks映画)
日本公開は2019年05月31日に決まっている『ENGLAND IS MINE』試写を鑑賞。上記のあらすじに物語自体はほぼ説明されている。90分ほどの長さだし、ザ・スミスを結成する前までの物語だ。モリッシーやザ・スミスのファンの人たちならば知っている話かもしれないし、多くの50代ぐらいのロックファンにはあれが描かれていないとか、こういうこともあったはずとか、「俺のモリッシー愛」が炸裂するのではないかと思う。
が、若輩者の私、ザ・スミスもモリッシーも名前は知っているのだが、音楽はあまり聴いていない。どちらかというとジョイ・ディヴィジョンがまだ知っている。なんでだろう、たぶん、イアン・カーティスが自殺してニュー・オーダーができて『ブルー・マンデー』がみたいな流れと、『24アワー・パーティ・ピープル』観たからか、でも、こちらの映画にもモリッシーがセックス・ピストルズのライブを観ていた、そこにいた一人ということになっているはず。この『ENGLAND IS MINE』の中でもモリッシーがセックス・ピストルズのライブを観に行っているシーンありましたね。
映画の最後の方でモリッシーとジョニー・マーが、みたいなその年が1982年、僕が生まれた年でした。僕らの世代にとってはザ・スミスのようなUKロックバンドはザ・リバティーンズになります。というか僕にとってこの映画で「俺のモリッシー愛」が炸裂する人の想いみたいなものに近いものを抱けるとしたら、ザ・リバティーンズであり、ギタリストでボーカルの二人、ピート・ドーハティとカール・バラーになります。映画にもザ・クラッシュのレコードが出てきた気がしますが、ザ・リバティーンズのアルバムのプロデューサーはミック・ジョーンズです。そういう時代の流れもあり、影響の度合いでいうと僕の世代は孫世代ぐらいでしょうか、一世代が十年とかぐらいのイメージです。40代半ばとかだとザ・ストーン・ローゼズになるんだと思います、おそらく。
というモリッシーのことほぼ知らない人間として、ザ・スミス結成前のモリッシー青年の物語を観た感想は、この映画自体に漂っているものがどこか純文学っぽいということ、マンチェスター雨降りすぎじゃない? ぐらい晴れていない。モリッシーの心象風景としての憂鬱さや世間に馴染めない感じが漂ってます。モリッシーが小説や詩にも造詣深くて影響受けてるので、そのイメージも加わっているかなと思います。
モリッシーがなんとかなったのは当然ながら才能があったからです。知ってるわ、そんなことって思うでしょ、でも、才能なかったらこの人かなり糞だと思います。昔だったら2ちゃんねるでひたすら世に出てる才能に罵詈雑言を言っているような頭でっかちで行動には移せないダサいやつに近いものになっていたかもしれない。あるいはあの頃にSNSあったらひたらすらバンドとかの悪口書いてたと思います、そのせいで世に出れなくなったり、有名になったら諸々ヤバいことになりそうなタイプです。才能があって顔もいい、まあ、それ最強です。
しかし、ですよ、行動になかなか出せずにいた、世界は僕を受け入れてくれないと、もう呪詛に近い気持ちすら持っていたかもしれないモリッシー青年。最初の頃は働いてないし、働き出しても遅刻してサボるし、精神的にやられちゃうし、というだめんずにしか見えない彼が才能を開花して世に出た一番の理由。それは彼を取り巻く女性たちです。つまり母性に守られていた。まあ、その彼女たちはモリッシーに才能があると思ったからこそ、なんとか見守るわけですから、運がいいとも言えるんだけど、結局才能あったからじゃん!という堂々巡りが始まってしまうのですが、ただ、のちのことを考えると彼女たちがモリッシーを信じなかったらザ・スミスというロックバンドも存在せずに、彼らに影響を受けたUKロックバンドたちはいなかった。つまり、僕らはその音楽を聴けなかったということだけは間違いないです。
モリッシーの母親のエリザベス、もう完全に母性の塊、息子の才能をわかっていて尚且つ信じて支えてくれた。もう、このお母さんじゃなかったらモリッシー完全にミュージシャンになっていない。
冒頭からモリッシーにハッパをかける友人であるアンジー。この人が動いたからこその後に繋がっていきます。しかし、彼女とは疎遠になり、後半でモリッシーが大きな決断をするきっかけになる。
そして、彼女ではないがモリッシーの才能を感じて、世界への扉を開かそうとするリンダー。この女性との出会いがなかったらモリッシーは羽ばたけなかった。芸術肌の、アートをしている彼女だからこそモリッシーの才能の破片に反応して、広い世界を見せようと、動けよと行動で示した。
もう一人の女性は同僚のクリスティーン。彼女は上記の3人とは真逆な人。アートもわかんないし、その当時の今時の可愛い女の子といった役どころ。クリスティーンに誘われて、モリッシーやってたら(実際はやってるかもしれないけど、知らないよ)きっと、世間に受け入れられない自分を去勢されて、普通に染められていたのかもしれない、たぶん、無理だけど。クリスティーンと付き合ったら、まあ、子供できたって言われて結婚して、毎日同じ仕事をして、クソつまんねえってなって、ビリーとジョニー・マーとかが活躍してるのを見て、俺はこんなんじゃなかったって自殺するか、妻子を捨てて音楽を始めるみたいな人生になっていたようにしか見えない(個人的な感想です)。
『ENGLAND IS MINE』観ると時代を変えたり、後世に影響を与えるような才能って、この作品では当然ながらデビュー前のモリッシーですが、そもそも才能がある(過去の芸術作品を観たり聴いたり読んだりして素養があり、批評家的な視線を持つ)のに加えて、彼を信じてくれた人たちがいたこと、だからこそ自分を信じて進むことができる人なんだとわかる。これって当たり前のことでしょって思うけどなかなかどうして。
自分を信じ抜くってのすごく難しい、そして、そんな自分を信じて支えてくれる人が側にいた、いてくれるっていうのは確実に運の問題だと思う。同じような境遇でも信じてくれる人が側にいなかった人はきっと続けていけないだろうし、芽が出る前にやめてしまうと思うので。
モリッシー好き、ザ・スミス好きな人は観に行くことで語りたくなる作品だと思います。知らなくてもすげえ楽しめました。僕は純文学的なものとして観ました。